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私のSNS論  基本的立場      ~ツイッターでの想い~

いろいろな立場の人が集まり、言いたいことが言える

【私の基本的立場】
 行為、発言に対する批判や否定については許容するが、人格否定に対しては一切につき断固抗議する。「下劣」という言葉を大辞林では「人柄や態度が下品で、他人に対して守るべき節度を欠いていること。品性が卑しいこと。また、そのさま 」とある。「下劣」な輩とは組みせず。


 私のツイッターアカウントは、この@****である。  twitterでは、「なるほどな」と惹きつけるような、つぶやきに出会う。何を言いたいのだろうかと考え込んでしまうこともある。興味関心にまけて、詳しいご意見をうかがったりする。こちらは真剣に相手の意見を聞き、わからないことは素直に教えてほしいと質問する。相手の意見を十分にお聞きした上で、こちらの意見を申し上げているつもりだ。ところが、意見の相違がきっかけで大変な想いをすることもある。感情的な罵倒の嵐である。時には、一人の方とのつぶやきであったのが、多数の方から一斉攻撃を受ける。援護部隊が到着したようだ。感情を爆発させた投稿が次々と寄せられる。そうした中で、私は厳しい「孤独」を感じていく。

 Twitterとは、2チャンネルや5チャンネルを代替する場なのか。SNSとは人心を判定する観察材料を収集する場だと指摘する論陣もいるが、私は、SNSとはゆるやかに結びつき「いろいろな立場の人が集まり、言いたいことが言える」広い領域だと考えている。理性を保っている人がいるはずだ。人々は、会社、学校等を中心とした組織に縛りつけられている。それらに背を向けたり属していなくても、家族というご縁、極論としてホームレスになろうが漂浪の旅に出ようが、生きてる限り、事実上、この血縁という関係からは誰も逃れることはできない。あらゆる者が「有縁の者」である。 

 真理や本質に忠実であろうとすれば、最終的には、有縁との厳しい緊張感にさらされなければならない。その時「無縁の者」になれたらなあというあこがれを感じる。それは、あたかも『「真理はこうだ」「本質はこれだ」と、あらかじめあったかのように提示されることが大嫌いで、具体的な事象の中にこそ普遍性は存在しうる』という、私の考えへと呼応する。

 私にとってのTwitterは、自由に思いや意見を述べ、同意や異論、反論をたたかい合わせる場なのである。私の立場は「有縁を脱した無縁」「無縁の者」として真理に忠実な立場である。そのため「多事争論」、いろいろな立場の人が集まって、言いたいことが言える場が必要である。すべてはここから始まる。みんなが、ふつうの言葉で自由に語り合える場。哲学や政治、経済などの専門用語に縛られることなく、自分流儀で語れる場。こうした「多事争論」の場が大切なのだ。ただし、最低限の決まりごとがある。充実した議論をおこなうためには「相手を思いやり、自分も大切にされる」こと。これが満たされていないと、何も言えなくなってしまう。

 ところが、Twitterでの意見に関して、感情的な罵倒の嵐に見舞われる場合がある。私は、Twitterでのやり取りは、アカウントや名前などのプロフィールを、自設のServerでLogを記録し、SQL-Server、Client-Accessなど、データベースで管理している。このデータベースからアカウント相関図ができ上がるのだが、それから判明することは、迷惑アカウントには、別アカウント作成という方法的なものと、種類としては、大きく2つあることだ。一つは、所謂、ネトウヨ。他は、陰謀論者である。やっかいな連中に出会ったものだと思う。彼らに対しては「とんち」であしらいながら結構楽しんでいたりもするのだが、その特徴は次のような単語が乱舞することだ。「何も知らないくせに」「脳なし」「きちがい」などの人格否定である。彼らは、私の流儀で徹底的に批評する。さらには「死ね」「殺す」という殺害予告に至る連中もいるが、残念ながら「ミュート」「ブロック」せざるを得ない。「下劣」という言葉を大辞林では「人柄や態度が下品で、他人に対して守るべき節度を欠いていること。品性が卑しいこと」 この字義通りの輩には辟易とする。

 Twitterでは、そもそも、さまざまなジャンルの方々と充実したお話を交わしたいと思う。「有縁の者」が「無縁者」として自由に話し合い「思いを思う」。この閉塞した現状をよく考え、新しい国民的「エートス」を発見し、われわれ庶民が歴史を創る主人公にならねばならない。「多事争論」中での真理の方向感覚、それが「未来」なのだ。

 

雑感

 SNSで、私が出逢った方々は、民主的能力を備え礼節を重んじる人々である。時には、迷惑な方々(ネトウヨ、陰謀論者等々)に出会う。思考分裂的な論説に変じて、さらにはストーキング的となり暴力性を帯びた罵声を浴びせてくる。たまったものではない。そもそも、社会人としての礼節に欠けた輩が多いことには閉口する。直接言ってこず、陰に隠れて誹謗中傷に耽る連中も論外である。

 ウソや偽りなく接することができる相手を一人持てば人生では「仕合せ」だと思う。そういう人を「神」に求め、信仰の世界に行く人もいるだろう。SNSなどをバーチャルリアリティ(VR)に過ぎないという人もいるが、そういう人は、実は、リアルな世界でも自分をさらすことなどできない人、家族という有縁の世界でさえ、ウソや偽りを持ち込む人であろう。

  私は、早くに妻を亡くし、まったくの独り者である。けれども、 私には、Twitterに大切な人々がいる。さらに、これはダメ、そこはダメと絶対に批判をしない。ここがいい、そうだよねって、語りかけてくれる。
 私を引き出してくれる相互に承認しあえる人がいる。そういう人には、甘えを含めすべてをさらけだすことができる。


【注記】

民主主義的討論を確保するにあたって。。。

 私に対する意見や苦言があれば、ご自由にお寄せください。
フリーに議論をおこなえれば幸いですが、その際に、上記のように、民主的なルールに従うことは、互いに最低限のマナーです。それが担保できる限りにおいて、完全に開放されたフィールドを提供する。

 
 それにあたって、あまりにも常軌を逸していると判断した場合は、遺憾ながら、下記の通りの対応策をとらせていただく。

 第三者が不法と認知した場合、刑法222,230,231,233,234条等の被害届や提訴をおこなう。その際、Tweetのログ等々を証拠事実として当局へ提出する。
 日本の法律では、アメリカのTwitterに関与できないので、弁護士を通じて、カリフォルニアにあるTwitter本社への情報提供を依頼し、刑事訴訟法239条1項に基づいて告発する。

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