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「〈叱る依存〉が発生した場合、第一の被害者は『叱られる人』です」

「叱る」という行為には依存性があるのではないかと、私は考えています。

なぜ、人は「叱る」がやめられなくなるのでしょうか?
一つ、とてもシンプルな理由が考えられます。それは「叱る」ことがその人にとっての「報酬」につながる、ということです。つまり人は誰かを叱ることで気持ちよくなったり、充足感を得たりしてしまうのです

〈叱る依存〉という視点で見ると、DV(ドメスティック・バイオレンス)や、職場におけるパワーハラスメントについても虐待と類似の構造を読み解くことができます。共通しているのは「状況を定義する権利」の格差であり、他者を思い通りにコントロールしたい欲求が存在することです。

〈叱る依存〉が発生した場合、第一の被害者はどう考えても「叱られる人」です。彼らは本来の「学ぶ機会」や「のびのびと生きる機会」を奪われ、ただひたすらに目の前の苦痛から逃れることに心が占拠されてしまいます。

けれど「叱る人」の主観的な体験は違います。叱る人にとって、被害者は自分自身であり、「叱られる人」こそが加害者だと感じる逆転現象が起きるのです。

   村中 直人(臨床心理士、公認心理師)

PRESIDENT Online


最近、noteの執筆が思うように進まない。

ほんの数週間前は、スラスラと書くことができていて、「1日2本の投稿もできるんじゃないか」とすら思っていたけど、この1~2週間は「連続投稿もここまでか」と思うくらいに書けない。

このところ忙しくて疲れているというのも理由の1つだけど、それにしても書く意欲が湧いてこない。

書くネタ探しをしても、インスピレーションが生まれない。


そんな中で見つけたこの記事で、心のわだかまりに気付いた。

また「叱る」の是非問題にぶち当たってしまったようだ。


この数週間、同僚の仕事ぶりと態度に、みんなが迷惑している。

このnoteでも何度か愚痴をこぼしてしまったけど、その同僚を野放しにしてきた上司たちも良くないと思っている。

私がいつもイラっと感じていた同僚の言動は、上司たちも良いとは思ってなかったのに、そのままにしていたのがまずかったんじゃないかと。

改善しないといけないところは本人が理解するまで話をした方がいいと思うけど、遠慮がちに、時には「すみません」と言いながら「お願い」する。

私がその同僚に注意すると、上司に「こわい、こわい」と茶化されるし、上司がそこまで問題意識を持っていないなら、でしゃばるのはやめようと思って控えていた。

その同僚の良いところも見ようとする上司を見倣わないととも思った。


でも、今の状況になって、やっぱり今までのやり方が間違ってるんじゃないかと思っている。

感情的に叱るのはいけないから、どうしたらうまく伝えられるかと悩んでいたところで、この記事に出会った。

そして、混乱している。


私が加害者なんだろうか。

私はその同僚に苦痛を強いるだけなんだろうか。

私はその同僚を叱ることで充足感を得ようとしているだけなんだろうか。

私は「叱る依存」に陥っているんだろうか。

私はDVやパワハラ、虐待する人間なんだろうか。


DVやパワハラ、虐待
これが一番堪えた。

そういう人間なんじゃないかと悩んだことがあったから。


ある程度、答えを見つけてから記事にしたかったけど、見つからない。


私が我慢したら済むことなんだろうか。

それも少し違う気がする。


混乱中だ。



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