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生酛本来の味に対しての疑問 その1 本日の紹介酒は、菊正宗 生酛本醸造 さけパック (兵庫県 灘)

生酛造りのお酒について、よく目にするのが生酛本来の味わいとか生酛らしい香りとか、伝統的な古式造りとか、よく目にいたします。実際に飲んでみると、結構厚みが有って重たい味であったりするのですが、本来の生酛の味わいってそもそも重たい味わいなのかを考えると、正直微妙な部分があるなとは思います。では、私の考える本来の生酛の味わいとは?味に深みと柔らかさがあり、後味のキレが良くて爽やかってのが、本来の生酛の味わいだと考えています。

※下記画像は江戸時代の交通路 日本食文化の醤油を知るHPより引用(http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/index.html)より引用

江戸時代の交通路

では、生酛の造り何時頃からどこで始まったのか?正直ハッキリしていませんが、私が考えるに最初に生酛造りの基礎に関しては、江戸時代初期の元禄時代よりも少し前から伊丹で、手で酛摺りを行う事で山卸を行い始めたのがはじまりと考えるのが一番自然では無いかと思います。では何故、手で山卸の作業を行うようになったのか?江戸初期に置いて主流となっていたのは、菩提酛から南都諸白へと進化した奈良正暦寺流の南都諸白をベースにした酒造りで、この酒造りの方法に関しては全国へと広がり各地で○○諸白と言われるようなお酒が各地に出たようですので、当時としては非常に画期的な酒造りの方法だったと思いますし、東北地方の一部の藩では、奈良から酒人を呼んで酒造りをさせたようです。最も、菩提酛の造りの欠点と言うのはどうしても雑菌が入る可能性が高く酒造りに置いて安定感に欠ける事。明治後期以前の酒造りの最大の課題が腐造との戦いで、どんな優秀な杜氏でも年に1本はおかしいと思える酒が出来たようでした。

※下記は菊の司酒造(岩手県)さんのブログ「菩提酛から学ぶ!酒造りにおける乳酸発酵の重要性」を引用したものです。

上記より、より安定した乳酸発酵できる方法を色々試して模索したのが伊丹に置いて最初に行われた山卸による乳酸発酵方法で、それが実際に表に出て来るのが、元禄時代以降の話なので、そこに至るまでに色々試し試行錯誤しながらたどり着いたのではないかと思います。菩提酛の造り自体もある程度完成形となる南都諸白の造りにたどり着いたと考えられるのは江戸時代初期です。(菩提酛の技術自体は室町時代後期には確立しています)それ以前は、金剛寺の天野酒の方が高級酒としての完成度は高かったです。ただ、本当に伊丹に置いて生酛の技法が完成したのかと言えば、そうでは無く暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗公の治世(1716~1745年)の間で、農業の技術革新や新田の開発が進み世の中のお米が有る程度余り出して、その解消にお酒造りをある程度奨励しだして灘酒が台頭して、その後、老中田沼意次公のいわゆる田沼時代(1751年以降)に貨幣経済が活性化しだして、灘でもマニュファクチャーによる酒造りが行われるようになって以降に、現在に近い生酛を使った技法が確立したと考えられます。

※下記は暴れん坊将軍Ⅱのオープニングの映像をyoutubeより引用

https://www.youtube.com/watch?v=nkAz4a0bLlI

では、手で酛摺りを行うようになったきっかけは?って考えると、これが有るんですよね。可能性が一番高いのが、伊達政宗公によって行われた慶長の遣欧使節なんです。この使節に関しては伊達家がスペインと組んで天下を取りに行ったが故に行われたのではないか?(実際に家康公の体調が悪い時に本当に仙台藩と江戸幕府の間で戦争に成りかけたが、伊達政宗が駿府城(静岡市)まで家康公を見舞ったことで回避できた。)って話が有りますが、私が仙台に行って図書館にこもって色々調べた限り、伊達政宗公自体は南蛮貿易を中心に考えていて、天下を取ろうとはあまり考えていたようには見えませんでした。むしろ、スペインの銀のアマルガム精錬法を本気で入手しようとしていたのは、徳川家康公で京や堺の豪商を複数同行させただけでは無く、当時の幕府の船奉行であった向井将監にガレオン船であるサン・ファン・バウティスタ号まで建造させています。

※下記画像は石巻サン・ファン館より引用(https://www.santjuan.or.jp/)

サン・ファン館


それだけでは無く、伊達政宗公自体が、仙台城内にて酒造り所を設けて、柳生宗矩公を通して大和から酒造り職人の雲野氏を招聘して、榧森氏を名乗らせて1608年より酒造りをさせていました。では、肝心の慶長の遣欧使節が出発したのは、1613年で、帰還したのが1620年です。伊達正宗公から施設の公使となったのが支倉常長公で正宗公の使節団の派遣の目的は当然仙台藩として、直接スペインとの交易、その施設に全面協力した徳川家康公の目的はスペインから最新の銀のアマルガム精錬法を入手し、当時世界の銀の産出量の1/3を占めた日本銀を使って、日本の軍事力を背景に日本銀を基軸通貨にする事を考えていたように思います。そして、同行した豪商たち(実際に名前が出ているのが伊丹宗味)は当然の事ながら自分たちの商売に一つでも役立つものを持って帰ることを考えていたと思います。この慶長の遣欧使節は、結局ローマまで行き実際にローマ教皇と謁見を果たしますが、スペインとの交易の開設には失敗し、使節の一部の人間はスペインに残留し現在ではハポン性を名乗っています。ただ、この使節により銀のアマルガム精錬法を入手しました。また、この使節団は長期に渡りスペイン内のシェリーの醸造所に滞在した事が資料には出ています。直接、日本酒造りと関係ないと言われればそれまでですが、シェリー造りでは日本酒と全く同じでは無いですが、お酒の味わいをスッキリさせる目的と、お酒の保存性を高める事が主な目的です。また、シェリー造りの過程では足で葡萄をすり潰す工程が有ります。

※下記はワイン造りの足で葡萄を踏み潰す工程、味なスペインに誘われてHPより引用(https://www.spainteca.com/2019/09/puertas-abiertas-de-abalos.html)


足で葡萄を踏み潰す

結局、アマルガム精錬法を徳川幕府は入手しましたが、1620年に遣欧使節が日本に帰った頃には、家康公は既に亡くなり日本は鎖国の方向へ進んでいたので、その後この慶長の遣欧使節の事もあまり表に出る事は有りませんでした。一方で、柱焼酎の技法が歴史の表舞台に出て来るのは、元禄期の徳川綱吉公の時代で、生酛に関してははっきりしていません。ただ、現在と違いコンピューターもインターネットも、酒造りの為の機会もない時代に柱焼酎や生酛による酒造りの技術が確立するには相当な時間がかかったと思われますし、あくまでもシェリー造りの技術から日本酒造りに応用した結果が柱焼酎や手で山卸を行う事であれば、実際にシェリーを造る工程を技術者が見なければ難しかったのではないかと思います。その後、山卸は時を経て灘でマニュファクチャーの酒造りの当時としては大量生産の過程で、櫂棒を使った山卸に進化し技術として確立したと思います。

※下記画像は山卸の工程の映像で、菊正宗さん嘉宝蔵での生酛造りの工程です。(菊正宗さんのオフィシャルページより引用https://www.youtube.com/user/KikumasamuneOfficial)

https://www.youtube.com/watch?v=73r3TblO31Q

日本酒テイスティングデータ
銘柄 106、菊正宗 上撰 生酛 本醸造パック (兵庫 灘)

主体となる香り

原料香主体、淡い柑橘香と淡いハーブ香有

感じた香りの具体例

炊いた白米、サワークリーム、マシュマロ、千歳飴、スダチ、甘夏、和梨、シャルドネ、スペアミント、若草、瓜、クレソン、ミネラル、カシューナッツ

甘辛度 やや辛口

具体的に感じた味わい

ふくらみがありキレの良い飲み口、ふくよかでしっかりした旨味が主体、後味はシャープにキレる、サワークリーム、千歳飴、スダチ、スペアミントを思わせる含み香

このお酒の特徴 ふくらみがあり、しっかりとした旨味を持ち、シャープな後味の醇酒

4タイプ分類 醇酒
飲用したい温度 20℃前後、50℃前後
温度設定のポイント

20℃前後にて、ふくらみがありシャープな切れ味を引き出す
50℃前後にて、ふくよかで柔らかくなめらかな味わいを引き出す

この日本酒に合わせてみたい食べ物

レアチーズケーキ、鰆の西京焼き、鯖のへしこ、アジのひらき、秋刀魚の塩焼き、鶏の炭火焼、桜鯛の天ぷら、桜海老のかき揚げ、鯖のきずし等
お問い合わせは 酒蔵 https://www.kikumasamune.co.jp/
Quoraテイスティングブック

https://jp.quora.com/q/vqteahszdbwtotmx
※日本酒4タイプ分類に関しては、SSI(日本酒サービス研究会)の分類方法を引用し、参考としています。
※写真は製造元酒蔵様のHPより引用しています。



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