言葉や物事に囚われて相手も自分も見えていなかった。

画像1 見えてるようで見えてない。わかっているようでわかってない。聞き方、伝え方、考え方も大切だけど何より相手を見て慮ることが私はできていなかったと思う。相手を慮るとは、相手のことをよく考えること。
画像2 私は相手に「暴言」言われたら暴言という「言葉」にとらわれ自己解釈で「攻撃された」となり、カチンとくる事がある。また友人と約束したら「約束」という「言葉」にとらわれ自己解釈で「約束守らなきゃ」となり〜やらなきゃという気持ちが追い込まれたような捉え方をしてしまっていた。どちらも相手のことを一切考えていない、悪く言えば被害者意識のような反応であり、それは自己解釈による自分よがりな反応だと思う。相手を見ようとも知ろうともしていないのだから。
画像3 例えば、暴言を言った相手は、その前に私との会話の中で、とても傷付く言葉を私は知らずに相手に言っていて、それに反発した暴言だったかもしれない。例えば約束をした友人はとてもとても忙しい時期なのに、私のために時間を作って約束をしてくれた友人かもしれない。それらは「言ってくれなきゃわからない」ではすまないのだ。言いたくない、言わない主義、言える状況ではない、言ったら意味がない、言わなくても気付いて欲しい。そういう事はたくさんあるのだ。
画像4 だから、言葉や物事にとらわれると自分も相手も見えなくなる。それはとても勿体ない事だ。それらにとらわれなければ、もっと素晴らしい未来が手招きして待っているかもしれないのだから。この写真の奥に小さく見える虹のように。
画像5 さて、そんな私だから未来を想い描くことが苦手だ。今の自分の「現状」という「物事」にとらわれ、想い描いた未来にたどり着く「約束」という「言葉」が自分を追い込むように自己解釈していたから。
画像6 そこで「未来の私」を「信じられないくらい豊かさと明るさと大らかさと深い愛情を持った幸せに満ち溢れた相手」とし、その「相手」との約束なので、私はその相手になる道を歩むことにします。
画像7 ご閲覧有り難うございました。   続いていくモノゴト集 『Croq(クロック)』 https://croq.marakanda-shokai.com

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