怒りに任せて書いたの図




余は怒らざるを得ないという目にあった。

余の尊敬する、暇川老人という、現代で生きながら文豪と称された、尊敬する立派な先生を小馬鹿にされるという事件が発生したのだ。

いやきっと、あれはハナから暇川先生のテーマさえも解ってないのだ。

証拠に、こんなに余が怒っている。

解らない…虻川先輩は何故あんなことを言ったのか…。

確かに暇川先生は若くして自死された。

それはもう現代と言えども5年も前の事だから…。

ただ、先輩は「才能が枯渇した」と言ったのだ。

余は俄然怒った。そんなわけがない!老人先生は短・中編作家ゆえ全集も少し薄いかもしれないが、その作風の縦横無尽と言ったら他に類を見ない…(これは余が勉強不足だから却ってそう思ってしまうのかもしれない…南無三)

その作品は死するときでも遺稿として大量に書斎の上に積み上げられていたという。

はっきり言って、どこが「枯渇」だという力量だ!「旺盛」じゃないか。

先生は最後まで小説家、あるいは芸術家に在る、病的な創作欲と闘っていらしたのだ。

無論、書斎の状態は状況証拠でしかないが、この状況は、お弟子さんであった有馬氏の追悼文などより饒舌に仔細を語っていないか?

果たして余は、それらの事情を『文中』という雑誌で読んだのみだが、有馬氏の言、先生の「『最後の作品』の様な逝った後の整然とした書斎」の様子の書かれた文、そして蛇足でしかない全然無関係な一言を付け加えるならば【虻川先輩の戯言!】

もうよい!怒り心頭の図である。これが余の処女作となるかと思えば惜しい気持ちも多少は芽生えるけれども、良いのだ…先生のために一矢報いることができるなら…。

そう、これは『文中』の短編の部に投稿する。全く小説という体をなしてないが、いいのだ、審査員が一度はこれを読みさえすれば。

そうだ、これは実は私信であった。生憎、有馬氏は審査員をやっておられない。…まあそうだろう、あの程度の文才で審査されちゃたまらないよ。

まあ、余も文才に関しては自信は無い。ただ暇川先生のために「才能の枯渇」と思っておられるかもしれないという人の勘違いを一人でも、心の一辺に食い込むだけでもいい…正したくて筆をとっている。

余は、暇川先生の何を良いかと問われれば『前世と来世しかれども空』を特段上等なものの一つに挙げる。「縁起」に頼らず独自に空を解釈している仏教エッセンスの強い作だが癖の感じさせない平明な文体で書いてある。これを読めば、他の品は、この作の左に出るものばかりだ。………

……俄然冷静になってきて、いい加減頭が冷えてくれば、これは余の虻川先輩へこその私信ではないか?この書き連ねは…。

その虻川先輩の詳細も書かずに大なり小なりの分量で、ここまできてしまった!

ハッキリ言って、痛恨の極み。

余の文章は無駄であったか…。

しかし待ってほしい、ならばなぜ、あなた方はこれを読んでいる?

無駄であったと気付くまでが作品だったのではないのかね…。

余はもう演じるのは疲れたが……本気の部分も勿論あった。

あとはご笑覧いただいている諸氏に判断をお任せする。

甚だ愛想のないものだったがお許し願いたい。







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