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【超長文】タタール音楽の歩き方:タタールポップスに頻出する単語とともに読み解く

日本の演歌を初めて耳にしたタタールは「これはどこの村(アウル)の歌だい?」と私に訊ねた。また一方で、タタールの歌を初めて聴いた日本の人も「なんだか懐かしい響きがするね」と言う。
皆さんの耳はタタールの歌に接したことがあるだろうか。日本の旋律に慣れ親しんだ耳には、きっと、どこか懐かしい響きに聞こえるであろう。

タタール民謡「わがナイチンゲール」(Ай, былбылым)

Ай былбылым, вай былбылым,
ああ わがナイチンゲール おお わがナイチンゲールよ
Агыйделдә таң ата.
アギィデル川に朝日が昇る
Таңнар ата, өзелә үзәк,
日が昇り 魂は苦悩する
Җырлата да елата.
歌わせもするし 泣かせもするのだ

※ 歌い手は気鋭の若手歌手ディナ・ガリポワ(Динә Гарипова)。グゼル・ヤヒナによる小説『ズレイハは目覚める』(Зулейха открывает глаза)をもとにした連続ドラマが2019年にロシアで放送されたが、このガリポワによる『わがナイチンゲール』が劇中歌として使われて人気を博した。


本稿は、タタール音楽の特徴を概観するとともに、タタールポップスを事例に歌詞に頻出する単語に特に注目し、今日のタタール音楽(と実践的なタタール語表現)の理解を深めようというものである。


1. はじめに:タタール民謡にみる特徴

タタール的とされる旋律はしばしば「トルコ的、アラブ・ペルシア的、フィン・ウゴル的、モンゴル的、ハンガリー的な要素を併せ持つ」と形容されることがある。書きながら「なんだそりゃ」とは思うが、タタール音楽に関する概説書を読むとだいたいこのような文言がどこかに書かれており、その例として、よくペンタトニック・スケール(5音音階)であることが引き合いに出されることが多い。
この音階は日本ではヨナ抜き音階とも呼ばれ、いわゆる和風テイストな、日本の旋律に親しんだ人にとってはノスタルジックに感じられるような旋律の曲に多くみられる。最近の日本で流行した歌を例にとれば、米津玄師の「パプリカ」のサビや星野源の「恋」がヨナ抜き音階を使っている。
なお、ペンタトニック・スケール自体は日本の音楽に特有というわけではなく、東アジアなど各地に見られるものである。

Гүзәл Уразова «Әллә күрешәбез, әллә юк»
グゼル・ウラゾワ「また会うかもしれないし、もう会わないかもしれない」

Безгә дигән кырыс язмыш белән
私たちは厳しい運命にあるというが
Әллә килешәбез, әллә юк.
受け入れるかもしれないし 受け入れないかもしれない
Кулда җылың кала, юлда җырым кала,
手には君の温もりが残り 道には私の歌が残る
Әллә күрешәбез, әллә юк.
また会うかもしれないし もう会わないかもしれない

※ 歌い手のグゼル・ウラゾワ(Гүзәл Уразова)は今日のタタール歌謡界を代表する歌手のひとりで、タタールポップスの地平を切り拓いた人物といってもよい。個人的にタタールの八代亜紀と呼んでいる・・(顔立ちが似ている)


ところでタタールの奏でる音楽全般に共通するのは「ガルムンГармун)」が使われているという点である。 ガルムンというのはいわゆるボタン・アコーディオンのことで、ロシア語ではトゥーラ・アコーディオン(Тульская гармонь)と呼ばれている。
ガルムンが沿ヴォルガ中流域の人々のあいだにもたらされたのは19世紀後半から20世紀前半のあいだで、これには広範囲にわたる交易を担ったタタール商人が関わっていると考えられている。やがてガルムンの製造技術と演奏技術が飛躍的に向上すると、ガルムン単体で伴奏と主旋律の演奏ができるようになった。ガルムンが普及する以前はユーラシアの諸民族にみられるような鉄製の口琴(Кубыз)や、西アジアなどにもみられるダブルリード型の木管楽器(сурнай)、カザフのドンブラと似た2〜3弦の撥弦楽器(думбыра)なども使われていたが、これらはやがてガルムンに取って代わられてしまった。近年では伝統文化の希求と復興の文脈のなかで、これらの楽器が「再発見」されて日の目を見ることも増えている。

タタールスタン共和国国立民俗アンサンブル(Татарстан республикасы фольклор музыкасы дәүләт ансамбле)による演奏(2020年)では、ガルムンのほかにも現代的な楽器とならんで、3弦ドゥンブラなどが使われている。


ソ連初期にタタールという民族が創出されると、ガルムンの発展とともにタタールに共通する旋律や詩も確立されて今日の「タタール民謡」となっていったが、かなりの数の旋律は沿ヴォルガ中流域の人々のあいだに共通していたことから、今日もバシキールやチュヴァシ、ウドムルトの民謡のなかには似たような旋律を聞くことも多い。

今日のタタール民謡のスタイルは主に短い歌(クスカ・キョイ:Кыска көй)と長い歌(オズン・キョイ:Озын көй)の2つに分類することができる。前者は速いテンポで起伏に富んだ旋律であることが多く、これに合わせた踊りは素早い足捌きが特徴的である。後者は息の長い叙情的な旋律が特徴で、先ほど紹介したグゼル・ウラゾワが歌う「Әллә күрешәбез, әллә юк」や、今日のタタールスタン共和国国歌(以下)はオズン・キョイ的な旋律とも言えるだろう。

Татарстан Республикасының Дәүләт гимны
タタールスタン共和国国歌

Мәңге яшә, газиз Ватаныбыз,
永久に生きよ 貴しわれらが祖国よ
Халкым тели изге теләкләр!
わが民は聖なる祈りを捧ぐ
Гомерлеккә якын туган булып
終生にわたり親しききょうだいとして
Яши бездә төрле милләтләр.
この地には多様な民族が住まう
Күп гасырлар кичкән чал тарихлы
幾世紀にもわたる太古の歴史も持つ
Данлы илем, үзең бер дастан!
誉れ高きわが地よ 汝自身が叙事詩たる
Синдә генә безнең язмышыбыз,
われらが運命は汝のみにあり
Республикам минем, Татарстан!
わが共和国 タタールスタンよ


なかでもオズン・キョイは「モンМоң」と呼ばれるタタール的感性・精神性(タタール語以外のどの言語にも翻訳できない単語だが、モンとは悲哀や寂寥感、空虚感、愛着と喪失など、心を大きく揺さぶる感情と理解される)と切り離して考えることはできない。
オズン・キョイに乗せて歌われる詩の多くは、人生における悲哀や懐古を歌ったものである。ゆえにその多くはどこか哀愁漂うもので、さらには独特のこぶし回し(ボルマ:бормаというが現代においては単にメリズムと呼ばれることも増えた)を伴って歌われることから、どこか日本の演歌や民謡とも通ずる趣を持っている。

タタール民謡「行き給うなナイチンゲールよ」(Китмә, сандугач!)

Сандугач, сандугач, китмә-китмә, сандугач,
ナイチンゲールよナイチンゲール 行かないでおくれナイチンゲールよ
Канатларың талдырып, туган җирне калдырып,
翼を疲れさせて 生まれの土地を後にし
Бездә туып үстең син, чык суларын эчтең син.
われらの元で生まれ育ったおまえ 水しずくを飲んだおまえよ
Сандугач, сандугач, син китәсең, мин калам,
ナイチンゲールよナイチンゲール おまえは去る 私は留まる
Дусларыма җырлар өчен, җырыңны отып калам.
わが友に歌うために おまえの歌を覚えよう

※ 歌い手は伸びと張りのある声と繊細なボルマ(タタール的こぶし)に定評のある若手歌手フィルス・カヒロフ(Филүс Каһиров)


上記で紹介した「行き給うなナイチンゲールよ」はモンが表出したオズン・キョイの典型的な一例である。望郷の念を歌ったものと解釈されるのが一般的で、とくにタタールにとっての故地である現在のタタールスタン領域から遠く離れた地域に暮らすタタールのあいだでは、頻繁に歌われるものでもある。
タタールの居住範囲は広く、現在ではNIS諸国にとどまらず、その周辺地域から、さらに離れた地域まで、非常に多くの国や地域にまたがっている。今日のタタールの居住地については以前書いた記事「タタールを学ぶにはどうしたらよいか」の中で紹介した「各地のタタール人口」の表を参照されたい。

そして、ここまでに紹介したタタール民謡に見られる特徴は、現代のタタールポップスのなかにも深く染み付いたものである。もっとも、それが年寄りくさいと敬遠されることもあり、とくに若い世代のあいだではタタール語離れとともにタタール音楽離れも深刻であった。
ところが近年では、タタールスタン共和国がタタール語で歌う歌手やタタール音楽番組を支援するといった取り組みも活発になされている。これらのおかげかどうかはさておき、最近のタタールポップスは伝統的な要素を多分に残しながらも洗練されたものとなり、好んで聴く若者も少なくないようである。
タタールポップスをひたすら聴き流してみたいという方は、以下の記事で紹介したいくつかのオンラインラジオにアクセスしてみるとよいだろう。

そこで、以下からは歌詞に頻出する単語に特に注目しながら、実際のタタールポップスを紹介していきたい。

2. 愛だの恋だのを歌った歌に使われる表現

タタール語で歌われた歌にもっとも使われる語のひとつは間違いなく「Яратам」(動詞ярат-の現在形1人称単数/"люблю")である。当然ながら愛だの恋だのを歌った歌に多く使われるのだが、それだけには限らない。

タタールスタンを代表する往年の名歌手サラヴァト・フェトヘッディノフСалават Фәтхетдинов)を代表する歌「Мин яратам сине, Татарстан」(好きだ、タタールスタン)はタタールスタンのタタール語話者なら誰もが知る歌だ。曲名からもお分かりのとおり、この歌はタタールスタンがいかに好きか、つまり愛国心(否、タタールスタンは「国」ではないので愛郷心と言うべきか)を歌ったものである。(原曲はこちら

Салават Фәтхетдинов «Мин яратам сине, Татарстан»
サラヴァト・フェトヘッディノフ「好きだ、タタールスタン」

Мин яратам сине, Татарстан,
おまえが好きだ タタールスタンよ
Ал таңнарың өчен яратам,
緋色の夜明けがあるから 好きだ
Күк күкрәп, яшен яшьнәп яуган
雷が轟き 稲妻が走るような
Яңгырларың өчен яратам.
雨があるから 好きだ

Мин яратам сине, Татарстан,
おまえが好きだ タタールスタンよ
Горур халкың өчен яратам,
誇り高き民族がいるから 好きだ
Җан эреткән әнкәм телең өчен,
魂を溶かすような母なる言語があるから
Татар телең өчен яратам.
タタール語があるから 好きだ

Мин яратам сине, Татарстан,
おまえが好きだ タタールスタンよ
Тугайларың өчен яратам,
肥沃な大地があるから 好きだ
Тукайларың, Сәйдәшләрең өчен,
トゥカイ(のような詩人たち) セイデシェフ(のような音楽家たち)がいるから
Җәлилләрең өчен яратам.
ムサ・ジェリル(のような英雄たち)がいるから 好きだ

Татарстан, сине яратам!
タタールスタンよ おまえが好きなのだ


この動画にはカザンだけでなく、アメリカ、カナダ、トルコ、アゼルバイジャン、中国、ラトヴィア、チェコ…… など世界各地に住まうタタールが登場する。研究テーマとの兼ね合いからこの動画に登場する多くの人は個人的な知り合いだが、その多くは留学やビジネスで当地に暮らす人々である。だが、このような動画が作れること自体、移住した先でもタタール同士の結束は強く、コミュニティ活動も活発であることをよく示しているとも言えるだろう。

多くの人が興味を持ってくれそうなテーマなので、愛だの恋だのに関わる語彙も合わせて紹介しておこう。前述の「Яратам」もそうだが、以下で紹介する語で検索するだけでも、愛について歌った曲を多く見つけることができる。

Синсез」(人称代名詞・2人称単数+接辞сез/"без тебя")は直訳すると「君なしで」となる。君なしでは生きていけない、君なしでは死ぬ、といった表現を使った歌はとても多い。

Ришат Төхвәтуллин «Синсез мин яши алмыйм»
リシャット・トゥフヴァットゥッリン「君なしで僕は生きていけない」

Кояштай елмаясын,
太陽のように君は微笑んで
Күбәләктәй очасын.
蝶のように君は舞う
Болын чәчәге сыман
草原の花のように
Гел сине көтеп торап.
いつだって君を僕は待っている

Карыйм, карап тора алмыйм,
僕は見る 僕は見られずにいる
Керфекләреңне саныйм.
君のまつげを数えて
Карыйм, карап тора алмыйм,
僕は見る 僕は見られずにいる
Синсез мин яши алмыйм.
君なしで僕は生きていけないよ

※ 歌い手は抜群の音程感覚とボルマ(タタール的こぶし)の高い技術に定評のある若手歌手リシャット・トゥフヴァットゥッリン(Ришат Төхвәтуллин)


また、「」はタタール語で「Мәхәббәт」となる。上記の「Синсез」の表現を応用すると「愛がない」は「Мәхәббәтсез」となり、この場合は悲恋について歌った歌を検索するときのキーワードともなる。愛を歌ったタタールの歌は多いが、なかでも失恋について歌ったものはとても多い。何名かの近しい友人に訊ねてみると「失恋した時は悲しい歌を聴いて咽び泣くよ」と言う・・

Казан егетләре «Саргайган мәхәббәт»
カザン・エゲットラレ「色褪せた愛」

Безнең бергә төшкән рәсем
僕たちが一緒に撮った写真は
Нигәдер саргайган,саргайган.
どうしてだか色褪せて 色褪せて
Әллә инде көзләр җиткән, көзләр җиткән.
そしていつしか秋はきて 秋はきて
Синең миңа үргән такыяң
君が僕に編んでくれた帽子は
Нигәдер саргайган һәм шиңгән,
どうしてだか色褪せて しおれて
Хатирәләр көзге томанга күмелгән.
思い出は秋へと 霧へと 沈んでいったのさ

Саргайган мәхәббәт,
色褪せてしまった愛
Саргайган мәхәббәт.
色褪せてしまった愛よ
Мин киләрмен,
僕は戻ってくるだろうけれど
Ә син китәрсең кабат.
君はまた去ってしまうのだろう

カザン・エゲットラレ(Казан егетләре)はタタール民謡の現代アレンジを中心に、"古くて新しい"タタールポップスを数多くリリースする男性グループ。グループ名の直訳は「カザンの青年たち」となるが日本語としてしっくりこないので悩ましい。


3. 愛や恋による苦悩を歌った歌に使われる表現

タタール的な感性に「モン」なるものがあると述べたが、これは概ね陰鬱な気持ちと結びつくことが多い。タタール民謡やタタールポップスにも一定数の恋愛にまつわる苦悩を歌った歌が散見されるが、それにはこの「モン」とも大きな関わりがあるように思う。

恋愛にまつわる苦悩を歌ったタタール民謡で最も有名なものは「Аерылмагыз」(動詞аерыл-に命令形複数の否定-магызが加わった形/"не расставайтесь")という歌である。直訳すれば「別れないでください」という丁寧な懇願になるが、実際の会話のなかで使われる機会はそう多くはないであろう。
この歌は非常に有名で、何よりも詩から想起される情景がとても美しい。タタール語学徒の私の友人も、たまたま出会ったこの歌の美しさに感動してタタール語を学び始めたという。

タタール民謡「別れないで」(Аерылмагыз)

Су буенда ялгыз аккош,
みなもには孤独な白鳥が佇み
Каерылган канатлары.
折れてしまっている その翼は
Канатларны каера ул
翼が折れるほどのものなのだ
Аерылу газаплары.
別れのつらさというものは

Аерылмагыз, аерылмагыз,
別れないで どうか別れないで
Булса да сәбәпләре.
どんなわけがあろうとも
Канатларны каера ул
翼が折れるほどのものなのだから
Аерылу сәгатьләре.
別れる時間というものは

Ят кошны пар итмәс аккош,
白鳥はよその鳥と連れ添うことはない
Ялгыз канат какса да.
孤独に羽ばたこうとも
Без дә бергә булалмабыз,
私たちも一緒にいられはしないだろう
Сулар үргә акса да.
たとえ水が上のほうへと流れようとも

Ялгыз аккош күргән саен
孤独な白鳥を見るたびに
Өзелә бәгырьләрем.
私の心は痛む
Нигә без бергә чакларның
なぜ私たちは 一緒にいる時間が
Белмибез кадерләрен?
どれほど尊いか 分からないのだろうか

※ 歌い手はアコースティックなタタールポップスを多数リリースしているイルナズ・サフィウッリン(Илназ Сафиуллин)


「別れ」を歌った民謡はこれだけではない。最も有名なタタール民謡のひとつに「Су буйлап」(川のほとりで)という歌がある。これはタタールにとって聖なる川、母なる川であるヴォルガ川の雄大さと、別れの悲しさを歌ったもので、旋律もいかにもタタール的と言えるものである。
詩のなかにはаерылганの1語が登場するが、これは前述のаерылмагызと動詞の語幹を同じくするもので、動詞аерыл-の完了形である。

タタール民謡「川のほとりで」(Су буйлап)

Идел бит ул, тирән бит ул,
ヴォルガ川は それはそれは深い川 
Тирән бит ул, киң бит ул.
それは深く それは広い 
Караңгы төн, болытлы көн —
暗がりの夜 曇った日
Без аерылган көн бит ул.
それこそが 私たちが別れた日だった

Идел бит ул — бик мул елга,
ヴォルガ川は それはそれは豊かな川
Ул бит диңгезгә китә.
それは海にまで注ぐ
Аккан сулар, искән җилләр
流れる水に そよぐ風は
Йөрәгемне җилкетә.
私の心を揺さぶる

Идел буйларына барсам,
ヴォルガ川のほとりに行ったなら
Әйтер идем Иделгә.
言いたいものだ ヴォルガ川に
Минем кайгыларымны да
私の悲しみもまた
Илтеп сал дип, диңгезгә.
海まで持ち去ってちょうだいと

※ 歌い手はタタール歌謡界に彗星の如く現れた期待の超若手ことサイダ・モハメッジャノワ(Сәидә Мөхәммәтҗанова)。2015年にロシアを代表する子どもの歌コンテスト番組「Голос дети」で圧倒的な歌唱力を見せつけて優勝した。当時13歳。大人になった今も豊かな歌唱力で素晴らしい歌をリリースしている。


恋愛の苦悩を歌ったものによく登場するのが「Адаштырмагыз」(動詞адаштыр-に命令形複数の否定-магызが加わった形/"не заблудитесь")という表現である。なお、動詞の語幹+магызは2人称単数(敬称)または2人称複数に対する命令形であることから、どこか丁寧さや上品さを感じさせる表現でもある。これが単に-маを加えた形なら2人称単数に対する命令形となるため、より近しい関係の人に対するくだけた表現となり、「Аерылма」(別れるな)や、「Адаштырма」(惑わせるな)と言うこともできる。

以下に紹介するのは「Адаштырма мине」(僕を惑わせないで)という曲名がつけられた歌で、まさに恋する気持ちに苦悩する青年を歌っている。

Рифат Зәрипов «Адаштырма мине»
リファット・ザリポフ「僕を惑わせないで」

Адаштырма мине, саташтырма мине,
僕を惑わせないで 僕を乱さないで
Сакла мине ялгыш адымнардан.
どうか僕を守って 過ちに踏み出してしまうことから
Кояш кебек кайнар минем сөю хисе,
太陽のように熱を帯びた僕の愛の気持ちは
Тик ул синең өчен кабынмаган.
それは君のために燃え上がったんじゃないんだ

Адаштырма мине, саташтырма мине,
僕を惑わせないで 僕を乱さないで
Болай да бит әрни бу күңел.
そうだとしても 心が疼いてしまう
Сыннарың да синең, аның рәвешләре,
君の偶像にすら その姿にすら
Тик ул түгел шул син, ул түгел.
それは君じゃない 君じゃないのに

※ 歌い手のリファット・サリポフ(Рифат Зәрипов)は軽快でキャッチーなポップスと独特なMV(いつも本人出演)が特徴の若手歌手。


4. 自分にとって慣れ親しんだものを歌うときの表現

タタール語を学び始めて、まずいちばん最初に覚える形容詞のひとつは「туган」である。この語と的確に対応する日本語を見つけるのはとても難しいが、ロシア語であればродной、英語であればnativeが近い。
たとえばタタールにとってタタール語はトゥガン・テルТуган тел)と表現されることが多いが、これはロシア語で言うところのродной язык、英語で言うところのnative languageのことで、日本語では「母語」と訳されることがほとんどだ。ただし「Ана теле」(母親+言葉:母語)という表現もあることから、日本語への翻訳はとても悩ましい。

タタールにとって「トゥガン・テル」は、民族の象徴であり、誇りであり、核であり、歴史であり、精神であり、心である。タタール語を貴んだ祖母のもとで多くの時間を過ごした私自身も、子どもの頃はよくタタール語で語らい、歌った記憶があり、タタール語の響きは子ども時代の幸せな記憶を呼び起こすものでもある。タタール語は私にとってもトゥガン・テルである。この感覚は、私自身もまた持つものではあるけれども、都市部に暮らしながら不意にテレビ番組や同郷人からお国ことばを聞いたとき、海外滞在を終えてトランジットで韓国に降り立ったときや日本に戻った時にに久しぶりに日本語を聞いたとき、心がほっとするような感覚に近いのかもしれない。

タタール民謡「トゥガン・テル」(Туган тел)

И туган тел, и матур тел, әткәм-әнкәмнең теле!
ああ祖なることばよ ああ美しきことばよ わが父と母のことばよ
Дөньяда күп нәрсә белдем син туган тел аркылы.
この世の多くのことは 母なることばで知った

Иң элек бу тел белән әнкәм бишектә көйләгән,
いつのことだったか 母がゆりかごで唄ったのは このことばでだった
Аннары төннәр буе әбкәм хикәят сөйләгән.
祖母が夜どおし紡いだむかしばなしも このことばでだった

И туган тел! Һәрвакытта ярдәмең белән синең,
ああ祖なることばよ いつだって わたしにはこのことばがあった
Кечкенәдән аңлашылган шатлыгым, кайгым минем.
喜びや悲しみを理解したのも このことばでだった

И туган тел! Синдә булган иң элек кыйлган догам:
ああ祖なることばよ はじめて神に祈りを捧げたのも このことばでだった
Ярлыкагыл, дип, үзем һәм әткәм-әнкәмне, ходам!
神よ 許し給え 私と、父と母を、と


タタールなら誰でも、そしてタタールスタン共和国領域に暮らす人なら民族や母語を問わず誰でも、その旋律と曲名を知る歌がある。それは「トゥガン・テル」という名の歌で、タタールスタン共和国では準国歌のような扱いを受けるものでもある。世界中のタタールにとっても非常に重要な歌で、公的な集いがあれば必ず最後にはこの歌が歌われる。
この詩を書いたのはガブドゥッラ・トゥカイГабдулла Тукай:1886-1913)というタタールを代表する大詩人で、旋律はのちにつけられたものである。ソ連末期に民族意識が高揚するなかで、各地のタタールの団結をより強固なものとしたのがこの歌であった。

また、タタールのあいだでは「タタールにとってのWe will rock you」と言われることもあるトゥガン・ヤクТуган як)という歌も、非常に有名なものである。故郷を意味するが、якというのはより地方の、辺境のニュアンスがあることから、都市部から親や祖父母が待つ田舎をイメージするとよいだろう。似たような表現に「Туган җир」があるが、生まれ育った故郷の地を意味する。

Вәсилә Фәттәхова «Туган як»
ヴァシリャ・ファッタホワ「トゥガン・ヤク」(故地)

Туган якка юл тотамын
故地へと私は向かうのだ
Туган як, туган як.
トゥガン・ヤクよ トゥガン・ヤク
Иң гүзәл газиз якка
もっとも美しく 貴い地へと
Туган як, туган як.
トゥガン・ヤクよ トゥガン・ヤク
Җир җиләкләре пешкән чак,
野いちごが熟してしまう前に
Туган як, туган як
トゥガン・ヤクよ トゥガン・ヤク
Ашыгам каенлыкка,
白樺の森へと急ぐのだ
Туган як, туган як.
トゥガン・ヤクよ トゥガン・ヤク

Талпына куңел, талпына ашкына
気分は盛り上がり 情熱を傾けて
Ярсуына түз, түз генә,
目的地へと真っ直ぐ ただ真っ直ぐと
Каенлыкта җиләк пешкән,
白樺の森では野いちごが熟れている
Тиз үрелеп өз генә.
はやく手にとって摘み取るのだ

※ 歌い手のヴァシリャ・ファッタホワ(Вәсилә Фәттәхова)はこの歌で名を馳せたが、2016年に出産後の合併症によって亡くなった。36歳の若さであった。


タタールには「田舎の人」「村の人」というステレオタイプがあるが、タタールの多くはこのことを是として捉え、「あるべきタタールの姿」をそこに投影するふしもある。
トゥガン・アウルТуган авыл)はタタールにとって非常に重要な精神的な概念であり、タタールであれば誰にとっても故郷とする村(トゥガン・アウル)がある。田舎の村に生まれ育ったなら、そこが「トゥガン・アウル」である。
だが、都会に生まれ育った場合には、時には「想像上の故郷」が家庭や親族のあいだで共有されることもある。たとえ本人がモスクワの、カザンの中心地に生まれ育ったとしても、父か母の生まれ故郷が村ならそれが「トゥガン・アウル」である。もし父も母も都会生まれなら祖父母の・・と、都会生まれでも心配はいらず、血縁のある人の生まれ故郷の村が「トゥガン・アウル」となる。

村(アウル)での暮らしにあるべきタタールの姿や、ありし日の自分自身の姿を見いだし、郷愁とともに自身のトゥガン・アウルについて歌った歌は多い。

Гүзәл Уразова «Туган авылыма»
グゼル・ウラゾワ「私のトゥガン・アウルへ」

Ераклардан карап киләм,
遠くから私は歩く
Чыңлы басуларыңа.
ざわめきの草原へと
Шунда гына тыңгы табам,
そこにしか安らぎはない
Йөрәгем ярсуларына.
私の心の嵐には

Туган авылым минем каршымда,
トゥガン・アウルは 私の目前に
Күңелем һаман омтыла шунда.
私の心はいつだってそれを求める

Шушы кырлар буйлап минем,
この大地にそって
Яшьлек юлларым үткән.
青春の道を歩んだ
Шул юллардан яшьлек дустым,
この道から 青春時代の友が
Елмаеп чыкса икән!
微笑んで飛び出してきたらいいのに


5. よく登場するモチーフ:鳥

古い詩から大きな影響があるのか、あるいはロシア語の文学作品からの影響なのかは分からないが、タタールの歌にはよく鳥が登場する。もっとも頻度が高いのはナイチンゲールСандугач)で、既に紹介した「行き給うなナイチンゲールよ」(Китмә, сандугач!)はまさにその典型例とも言える。

なお、記憶力に自信がある方ならすでにお気づきかもしれないが、タタール語にはもうひとつナイチンゲールを指す語がある。Былбылである。冒頭部で紹介した「わがナイチンゲール」(Ай, былбылым)はその例であった。

Ришат Төхвәтуллин «Сандугач»
リシャット・トゥフヴァットゥッリン「ナイチンゲール」

Тын кайлык, сөйләшмийк
静寂を保っていよう 口をつぐんでいよう
Бу матур таңнарда
この美しき朝に
Ни сөйли тибрәлеп
震わせながら何を話しているのだろうか
Асыл кош талларда
柳の木にとまる高貴な鳥は

Тыңлаче, сандугач серләрең көйли ич
耳を澄ませてみて ナイチンゲールが君の秘密を歌っている
Ул минем hисләрне өздереп сөйли ич
ナイチンゲールは 私の気持ちまでも歌っている


ナイチンゲールはその美しい鳴き声が有名で、タタールの歌のなかでは「歌」や「歌声」と結びつけて歌われることが多い。そして、人間の心を見透かしているので、心の中に秘めていることを歌ってしまう・・
タタールに限らず、ナイチンゲールはロシア語の詩や歌にもよく登場するモチーフでもある。空がまだ暗闇の帳にある暁のころに聞こえるナイチンゲールの美しい鳴き声には、昔の人は畏怖の念すら抱いたのであろう。あの世とこの世を結ぶ鳥とも考えられている。

また、白鳥аккош)も非常によく登場する鳥である。既に紹介した「別れないで」(Аерылмагыз)はその一例でもある。白鳥はほかの種の鳥と群れないと考えられていることから、孤独や決心、過去との決別、自立などのモチーフともなる。

Айгөл Хәйри «Аккош куле»
アイグル・ハイリ「白鳥の湖」

Килде көткән язлар,
来た 待ち望んだ春が
Күңел тулы назлар,
心には優しさが溢れて
Киң аланнар гөлгә күмелә.
広い草地は花で埋もれて

Үткәннәрне уйлап,
過ぎ去ったことを考えて
Бераз яман сулап,
少しばかり気分が落ち込んで
Килдем әле аккош күленә.
来たのだ 白鳥の湖に

アイグル・ハイリ(Айгөл Хәйри)はオペラ歌手として活躍してきたが、近年ではその美しく力強い声を生かしてタタールポップスの世界でも輝く。


ナイチンゲールや白鳥ほどではないにしろ、そのほかによく登場する鳥はツバメКарлыгачカモメАкчарлак)あたりだろうか。これらはロシア語など、タタール語と密接にかかわる言語の詩や歌にもよく登場するモチーフである。

6. よく登場するモチーフ:白樺と森

タタールの歌に登場する「自然」は鳥だけではない。白樺каен)とурман)もまた重要なモチーフとして登場する。タタールにとっての共通の「故地」(時には「想像上の」であることもあるが・・)である沿ヴォルガ川中流域は、それはもう、白樺がとても美しい。特に冬の雪景色のなかに佇む白樺の美しさには、思わず息を呑んでしまうほどだ。日本では冬の北海道でこれに近い景色を見ることができる。

Илһам Шакиров «Идел буе каеннары»
イルハム・シャキロフ「ヴォルガ川ほとりの白樺」

Күпме карасам да, карап туймыйм
何度見ようとも 見ずにはいられない
Идел буе каеннарына.
ヴォルガ川ほとりの白樺を
Алар, җитəклəшеп, яланаяк
手を繋いで 裸足になって
Чыгар төсле Идел ярына.
駆け出すようだ 色鮮やかなヴォルガ川へと

Мин яратам сезне, кардəшлəрне,
私は大好きだ はらからたちよ
Хөрмəт иткəн кебек яратам;
尊敬するほどに 好きだ
Шуңа күрə сезгə багышланган
だからこそ あなたに捧げられた
Йөрəк җырларымны яңгыратам.
心のこもった私の歌を 響かせるのさ

イルハム・シャキロフ(Илһам Шакиров)はタタールを代表する往年の名歌手であった。ソ連時代からタタール歌謡曲の道を切り開き、今日のタタールの舞台音楽(Эстрада)やポップスの基礎を築いた。2019年1月没。タタール音楽の一時代がシャキロフの人生と共に幕を閉じた。


タタールを代表する往年の名歌手イルハム・シャキロフ(Илһам Шакиров)も白樺を主題とした歌のレパートリーを多く持つ。なかでも個人的に好きなのは上記の「ヴォルガ川ほとりの白樺」という歌だ。詩からも、この土地に生まれ育ったタタールにとって、ヴォルガ川と白樺のある景色がいかに大切なものかを窺い知ることができる。

Элвин Грей (Радик Юльякшин) «Ак каеннар»
エルヴィン・グレイ(ラディク・ユリヤシキン)「白樺」

Ак каеннар арасына,
白樺のほうへ
Ак каеннар янына,
白樺のあいだへと
Кереп киттең син йөгереп.
走って行ったんだ 君は
Әй, кагына-кагына.
ああ 後悔だ 後悔だ

Сылу сының, ак күлмәге,
君は 美しい白いドレスに身を包んで
Син аклыкка күмелдең.
純粋さに溺れていった
Күзләремә син үзең дә,
僕の瞳の中に 君はいて
Каен булып күрендең.
白樺のように見えたんだ

Кайсы каенда, кайсы син,
どの白樺の木なのか どの君なのか
Аералмый тик торам.
僕にはまるで分からないでいる
Ялгыз каенны кочканмын,
孤独な白樺を抱きしめて
Мин аны син дип торам.
僕はそれが君だと思ったんだ

エルヴィン・グレイ(Элвин Грей)は特に若い世代に熱狂的なファンを多く持つ、今をときめく若手歌手のひとり。以前は本名はРадик Юльякшин(ラディク・ユリヤシキン)として活動していた。民族的にはバシキールで、バシキール語のリリースも多い。


年齢層高めの歌だけに特有のモチーフではないかと思われもするかもしれないが、この数年で特に若い世代の支持を集めるエルヴィン・グレイЭлвин Грей)のヒット曲にも白樺は多数登場する。白樺という曲名のヒット曲すらあるくらいで、タタールにとっての白樺像(白樺観とも言えるかもしれない)を知らなければ理解が難しい詩も多い。

また、白樺単体だけでなくурман)そのものを歌った歌も多い。タタールと村(авыл)との関係については前述のとおりだが、村には小さな森があることも多いことから(大きなものではなく、ちょうど以下に示す動画の中で見られるような小さな森)、村で過ごした子ども時代と森の記憶は大きく関わっている。ゆえに、森は昔を懐かしむ歌によく登場するモチーフともなっている。

Илсөя Бәдретдинова «Шаулый урман»
イルスヤ・バドレッディノワ「森がざわめく」

Шаулый урман, җилләр искәндә
森がざわめく 風がそよいだ時に
Сагындыра әниемнең
恋しくなる 母が
Ямап биргән күлмәкләре
継ぎ当てた服を
Әллә шуны киеп үскәнгә
それを着て育ったものだから

Шаулый урман, җилләр искәндә
森がざわめく 風がそよいだ時に
Сагындыра балачагым искә төшкәндә
恋しくなる 子ども時代を思い出した時
Сагындара әниемнең тирән эчле кәүешләре
恋しくなる 母の深い靴を
Әллә шуны киеп үскәнгә
それを履いて育ったものだから

イルスヤ・バドレッディノワ(ИлсөяБәдретдинова)は軽快なポップスからしっとりとしたバラードまで、様々なジャンルのタタール歌謡曲を歌いこなすスター歌手。


そのほかにも、トゥフヴァットゥッリンの「ナイチンゲール」にも登場した柳の木талや、ウワミズザクラшомыртなど、タタールの居住地で一般的な草木は多くの歌で重要なモチーフとなっている。(ちなみにお隣のバシキールでは菩提樹(йүкә)がよく歌の中に登場する)

7.  よく登場するモチーフ:父と母

また、普遍的なモチーフではあるが、әти / әткәй)とәни / әнкәй)について歌った歌も多い。数としては歌い手の性別にかかわらず母について歌った歌のほうが圧倒的に多く、その内容のほとんどは子ども時代を懐かしんだり、健康と長生きを願ったり、母を亡くした喪失感を歌ったものである。

Гүзәл Уразова «Озак яшә, әнкәй»
グゼル・ウラゾワ「長生きしてね、お母さん」

Ап-ак чәчләреңне тарап үргән чакта.
雪のように白い髪を三つ編みにした時に
Уйлыйсыңдыр әнкәй безнең хакта.
お母さん あなたは私たちのことを想うのだろう
Төбәп күзләреңне безнең кайтыр юлга,
私たちの帰る道に目を釘づけにして
Көтәсеңдер инде һәрбер ялда.
毎週 あなたは待っている

Ишегалдың синең яшел келәм,
あなたの扉には緑色の絨毯が
Без булмагач үскән бәпкә үлән.
私たちがいなくなって 育った草
Мәрхәмәтле синең изге саф күңелең,
あなたの慈悲深く 純粋な心よ
Озак яшә, әнкәй, шатлык белән.
長生きしてねお母さん どうか幸せに


以下はロシアを代表する歌手アルスーАлсу)が父について歌った曲である。アルスーの父は有名な政治家であり、その選挙キャンペーンでも使われた。
ロシア語畑の方には不思議な名前に聞こえるかもしれないが、アルスーはタタールによくある女性名で、桃色・薄紅色の水を意味する(諸説あり)。ここで紹介する歌の詞には「Шәфәкъләрнең Алсу төсләрен..」という不思議な言い回しがあるが、「Алсу төсләре(アルスーの色)」というのは薄紅色のことを意味する。大文字になっているのは歌い手の名がアルスーだからだろうか。

Алсу «Әткәй»
アルスー「お父さん」

Минем әткәй көн дә эшкә китә
私のお父さんは 日ごと仕事に行っては
Арып кайта аннан кичләрен
夜遅くに 疲れて帰ってくる
Елмаюы итеп алып кайта
笑顔を浮かべて 帰ってくる
Шәфәкъләрнең Алсу төсләрен.
焼けた空の浅紅色*を連れて

Әткәй, әткәй синнән башка тагын
お父さん お父さん あなたのほかに
Кем бар шундый бала бәгерле
誰がこんなにも子どもを想うであろう
Кояш сыман әнкәй берәү булса
お母さんが 太陽のような存在だとしたら
Син дә безгә шулай кадерле.
あなたもまた 私たちにとってそれくらいに尊い

Минем әткәй көн дә эшкә китә
私のお父さんは 日ごと仕事に行っては
Йолдызларны кайта ияртеп
星を連れて帰ってくる
Йолдызлар да йоклап китә кебек
星も眠りたいようだ
Әтиемнән әкият сөйләтеп.
お父さんのおとぎ噺を聞きながら

アルスーАлсу)はロシアを代表する歌手のひとりで、日本にもファンが多い。普段はタタール語の歌はほとんど歌わないが、2008年に「トゥガン・テル」と題した全曲タタール語のアルバムをリリースした。


8. 最後に

個人的に好きなタタール語のことわざに「Җырсыз кеше — канатсыз кош歌を持たない人は羽根を持たない鳥だ)」というものがある。このようなことわざが生まれるほど、タタールにとって歌は生活になくてはならない重要な要素でもある。本稿が、タタールの歌を通してタタールをより深く理解するきっかけとなることを願ってやまない。

Рәхмәт сезгә! ここまで読んでいただきありがとうございました!いただいたサポートは私の研究生活になくてはならないチョコレートとグミ、コーヒーの購入費に充てたいと思います。