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『感染症と法の社会史 ―病がつくる社会』

西迫大祐『感染症と法の社会史 ―病がつくる社会』を読んだ。
コロナウィルスの影響によって社会がどう変化していくのか、法的視点からどういうことが考えられるのか、ということの起点にしたいと思って手にとった本だったが、病(への対応)が社会を形づくってきたという視点がおもしろかった。

この本では、都市人口の増加、住環境の過密化等を前提に、18世紀に大流行したペスト、19世紀のコレラについて、当時の国際都市、そして公衆衛生をリードしていくことになるフランスを中心に、法や国家によっていかに感染症が管理・予防されてきたかが書かれている。
さらに、産業が発達するにつれ、これらの動きが予防接種、結核、HIVなどに移っていったことも描かれている。日本については、江戸時代のコレラの流行についても言及されている。

特に興味深かったのは、

・感染症を、医学・公衆衛生と道徳的感情の交点に生まれた感染症という「現象」として捉えていること(本書は感染症を医学的な病気として捉えるというよりは、当時の人たちが知覚した現象として捉える点が強調されている)

・感染症の対策として「公衆衛生」と言う思想がどのようにして生まれ、統治技術として定着し、法に組み込まれていったのか

・フランスでは、公衆衛生と個人の自由の対立という観点は初期から問題提起されており、19世紀末に至るまで、法はこのような衛生的管理の主張を拒否し続けてきたこと(1850年に不衛生住宅の清掃に関する法が可決され1902年には公衆衛生法が可決された)

・衛生には、「命を救うものとしての衛生」と、人間を種や人口の一部として集団的に認識しそれを管理し改良しようとする「統治としての衛生」という両義的な2つの側面があること

・「統治としての衛生」については、感染症の脅威があるときには、感染症の脅威を口実に「安心のために衛生的管理の統治」が容易に認められてしまうこと

・感染症の大流行をきっかけに、病が個人に起きる事象という次元ではなく、人口という統計的・確率的な集団的な次元で考察される対象になっていったこと

・特に、感染症対策として生まれてきた予防接種は、新しい人口と言う集団的視点と、リスクや確立と言う配分的視点を組み合わせることで考察される典型的な事例であること

・公衆衛生という考え方の広がりと同時に、それを道徳的に取り込んでいく「精神衛生」という考え方が生まれ、公衆衛生と不道徳が結びつくようになっていたこと

等の視点である。

公衆衛生が当然の前提となった世の中を生きる私たちにとっては当たり前だと言われる視点もあるかもしれないが、改めて感染症の歴史と紐付けて確認しておく意義は少なくない。

個人的には、本書で(良い意味で)一番引っかかったのが、次の記載である。

 ここから政府や法の役割が変化することを余儀なくされる。というのも、政府や法は人間が生きていると言う事実に関心を持たなければならなくなるからである。人間には固有の身体と確率があり、それを修正できるとなれば、法はそのような役割を担うことになるだろう。フーコーはこのことを次のように言っている。「法は常に剣に拠ってきた。しかし生命を担わなければならない権力は、切れ目のない、強制的で強制的なメカニズムを必要とする。問題なのは、もはや主権の領域で死を作用させることではない。そうではなく、生者を価値と効用の領域に配分することが問題なのである」。

 それまでは後は心理手続きや、主権や土地所有などの問題に関心を払ってきた。人口統計によって、罹病率、致死率、寿命といった確率や、人口の細やかな変動を図ることができるようになると、統治には新しい役割が与えられることになる。それは生きた人間に気を配ること、人口に気を配ることである。出生率、寿命、罹病率等を測定し、その統計から平均を割り出し、平均からあまりにも隔たっている人口の部分を修正し平均そのものを高い水準で保つこと。そのために国家は衛生委員会のような組織を使って、人間の生の確立を管理し、増進させることを使命とするようになる。そのとき法はそうした統治の一部として機能することになる。フーコーは述べている。「法律制度は、調整機能を専らとする一連の機関(医学的、行政的等々の)の連続体にますます組み込まれていく」。(P164、165)

ここでは、フーコーによる「生権力」的な視点が引用されているが、感染症の大流行とそれに対する対応が、人が生まれながらにしている権利を前提とする自然権思想から調整ツールとしての法実定主義が前景化する一つの契機となったとも受け取れる。

本書の視点を通してみると、歴史学者・哲学者のユヴァル・ノア・ハラリがフィナンシャル・タイムズへの寄稿において、コロナウィルスの脅威によって、人々がプライバシーと健康を天秤にかけ、監視社会が幕を開けてしまうことに警鐘を鳴らしていることをより一歩深く理解できる。


ハラリのコロナウィルス関連の論稿としては、感染症の歴史に位置づけたうえで、国際的な不和・不信ではなく、強調・連帯によってこそ成し遂げうることを説いたこちらも必読だろう。


コロナウィルスについては、まだその影響を俯瞰できる段階ではない。

ただ、本書のなかで出てくる、EUの統合思想の源流とも言い得るレオン・ブルジョアらによる連帯主義や、ハラリが主張するところの(極めてヨーロッパ・エリート主義的な)国際的な連帯が危機的状況を迎えていることは明らかである。
近年、すでにこれらの連帯主義は移民や格差・分断の問題でじわじわと崩れつつあったわけで、ハラリがこの危機的状況にあえて連帯を呼びかける「辛さ」については自覚的であるべきだと思う。

仮にそのような連帯がなし得るとしても、それらが容易に全体主義的な傾向を持ち得る、危ういバランスのなかで、どのような「新しい社会契約(あるいはそれに代わる何か)」につながっていくのか。つなげていけるのか。

感染症という病気としてのコロナウィルス対策も重要であることは言を俟たないが、現象としてのコロナウィルスを考察することの重要性も再確認した一冊である。

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