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六歌仙のなぞ(10)

第四章「紀氏回生の宗教戦争」


◆二股かけていた紀氏◆

 前章までで、六歌仙が惟喬親王や猿丸太夫を通じてつながることがわかった。しかし、これだけはまだ紀氏との関係が弱い。特に、黒主や康秀とのつながりがはっきりしない。貫之がこの二人を選んだ以上、紀氏と何らかの関係があったはずである。はじめ、惟喬親王の関係でのみ調べていたのだが、ここへ来て行き詰まってしまった。そこで、別の視点から調べてみることにした。

【石清水八幡宮創建のこと】
 石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)は、貞観一年[859]、藤原良房が娘の明子(染殿后)の産んだ惟仁親王の息災を祈願するために、豊前の宇佐八幡宮及び神宮寺に和気巨範と大和大安寺の僧行教を遣わし、その分霊を山科の男山に祀ったのが始まりという。『石清水八幡宮護国寺略記』によれば、そのおりに、「都の近くに移座し、国家を守護せん」との八幡神の託宣が下り、更に「移座すべき所は石清水男山の峯なり」との神託が下った。そこで清和天皇(惟仁)は翌年、男山に八幡神を勧請したという。
 のちに、清和天皇の子孫が清和源氏を名乗り、彼らは八幡神を氏神とするのだが、それは清和天皇が石清水八幡宮を信奉していたからである。

 ところで、良房の使いで宇佐に行った行教とは何者だろう。『石清水祠官系図』によると、行教は大安寺の和尚で、紀夏井、益信(石清水検校、園城寺僧正)の兄弟となっており、また、『紀氏系図』では御園(真済僧正の父)と益信の兄弟となっている。紀氏の系図は幾通りかあり、混乱があってどれが正しいのかよくわからないが、いずれにしても行教は紀氏の出身である。
 その行教が、良房の代理として宇佐八幡宮に向かっているのは興味深い。しかも、その目的が、惟喬親王のライバルであるはずの惟仁親王の息災祈願なのだから、これは不思議というほかない。

 という事は、紀氏は惟喬、惟仁の両方に二股をかけていたという事になる。結果的に、惟仁親王が帝位を継ぎ清和天皇になるのだが、どうして紀氏は敵に塩を送るようなことをしたのだろうか。
 そのことに答える前に、八幡神とはなにかを探ってみたい。


石清水八幡宮

【宇佐八幡宮と秦氏】
 宇佐八幡宮(宇佐神宮)は、全国に二万四千社ある八幡神社の総本社である。祭神は八幡大神、比売大神、神功皇后の三神。八幡大神は応神天皇(誉田天皇)のこととされている。
 その創建については諸説があり、はっきりとして結論は出ていない。

 では「ヤハタ」とは何だろうか。まず、地名説。「ヤハタ」という場所が宇佐にあり、そこに宮を作ったというもの。(小山田与清)しかし、宇佐に「ヤハタ」という場所はない。そこで、中野幡能は豊前国築城郡綾幡郷の「矢幡」(矢幡八幡宮がある)が、発祥の地であろうと推定している。
 次に、「八幡=たくさんの幡」という説。「八」は例えば八百万神などのように、大きいとかたくさんという意味で、八幡の神を祀るときに、たくさんの幡を立てたので、八幡神と呼ばれたからだという説である。この説には、固有信仰によるという説と、仏教の灌頂幡に結び付ける説がある。
 仏教説の方は、安鎮法を修するときに八方天を描いた八流の幡を立てるが、それのことだという。(松本栄一)確かに、八幡宮は仏教との結びつきが強い。しかし、幡そのものが信仰の対象になるわけではないので、これが八幡信仰と結びつくとは考えにくい。
 もう一つの固有信仰による説というのは、幡そのものを神の依り代として祀ったのではないかという説である。『宇佐託宣集』に、欽明天皇の時代に修験者の大神比義おおがのひぎの前に八幡神が出現し、「辛国からくにに初めて八流の幡を天降ろして、吾は日本の神となれり」と託宣したという。この八流の幡こそ八幡なのだという。
 この説は、現在の八幡宮の祭りに、幡をたくさん立てる風習が残っていないので、残念ながら確かめる術はないが、「ハタ」を奉る祭りが他に無いわけではない。例えば、『日本書紀』神功皇后紀に、神功皇后が神主になって「千ハタ高ハタ」を置いて、神を降ろしたというが、山上伊豆母はこれを、「数多くのハタを高々と掲げたと考え」て、「ハタとは降神の巫儀に必要な呪具」と書く。また、対馬の天童信仰ではたくさんの幣を立てるが、このような風習が八幡信仰にもあったのではないかという見解もある。(三品彰英)

 八幡の名前の由来のもう一つの説は、「ヤハタ」の「ハタ」は「秦氏」のことというものである。確かに、八幡信仰と秦氏は関係がある。だが、これでは「八」の説明はできないが。
 八幡神宮を秦氏と結びつける証拠に、放生会という祭がある。この祭りの由来は、神亀元年[724]大隅の隼人が反乱を起こし、豊前の国司が大隅の隼人征伐を八幡神に祈願し、禰宜辛島氏が神軍を率いて隼人を征伐した後、その隼人たちの霊を慰めるために祭りを行ったのが始まりという。
 放生会は香春岳で採れた銅から作られた鏡を、香春の古宮八幡宮から宇佐の和間浜まで十五日かけて運ぶ行事である。大隅の隼人征伐は、社伝に伝えられるように、大和朝廷の命令によるものか、それとも八幡神を信仰する豊前の人々の自発的な行動かわからないが(おそらく自発的な行動だろう)、ある時八幡神を信仰する集団が、豊前から大隅に大量に移住したことは事実のようで、鹿児島には大隅正八幡宮(鹿児島神宮)が建てられた。
 それにしても、神鏡を運ぶ祭が、なぜ隼人の霊を慰めることになるのか。この祭りは、元々隼人征伐とは関係はなかったのではないだろうか。香春岳の祭が先にあって、後に大隅に八幡信仰が伝わったことで、それを記念する行事が加わったのではないか。
 そして、この香春岳こそ、秦氏が信仰した山なのである。どうやら、八幡宮は最初は香春岳にあって、後に宇佐に移ったようなのだ。先に紹介した『託宣集』には、八幡神は現在の社殿がある亀山(別名小倉山、菱型山)に欽明天皇の時代に出現したとされるが、『太政官符』弘仁二年[824]の条によると、辛島郷の西北隅に出現し、次に瀬社に移り、最後に鷹居社に移った。瀬社も鷹居社も辛島郷内にある。そして、初めて宮柱を立てたのは、この鷹居社なのである。辛島郷で八幡神を祀ったのは辛島氏だった。辛島氏は秦氏である。また、大隅に集団移住したのも秦氏だった。

 ところで、『託宣集』は、宇佐八幡の神職の大神氏の勢力が、辛島氏よりも大きくなった後にできたものである。大神氏は大和の三輪山を信仰する三輪氏と同族で、物部氏である。大和岩雄は、大神氏は秦氏の高度な文化や技術を手に入れるために、八幡宮を管制下に置くよう大和朝廷が工作員として送り込んだと推定している。(『秦氏の研究』大和書房)その後、新たな司祭氏族として宇佐氏が登場するが、その時期は奈良時代の末期で、社殿が亀山の地に造られたのも神亀二年[725]のことである。
 つまり、それ以前は辛島郷で、秦氏(辛島氏、赤染氏など)が八幡神を祀っていたのだ。
 そして、『託宣集』に、「辛国の城に初めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり」とあるように、八幡神は元々日本の神ではなかった。「辛国」とは「韓国」のことで、つまり朝鮮のことらしい。「辛国の城」は『託宣集』によると「蘇於峯是也」とある。この蘇於峯について、三品彰英は、天孫降臨の高千穂のそほりノ山峯と同じであるという。(『増補日鮮神話伝説の研究』平凡社)添ノ山峯は別名摟触峯、または樓日の高千穂の峯、久士布流多気ともいう。この「クシフル」「クシヒ」というのは、加羅(朝鮮半島の南端にあった)の初代王首露が降臨した「亀旨クジ峯」と同じ意味の名前らしい。また「ソホリ」は「ソフル(新羅の首都)」とも重なる。つまり、八幡神は朝鮮半島から海を越えてやって来た神なのである。
 となれば、当然秦氏も渡来系民族ということになる。秦氏は自ら秦の始皇帝の末裔と称し、秦が滅亡した後朝鮮半島に移住し、その後日本に渡来したという。案外、秦の徐福が大船団を引き連れて日本に渡来したという伝説は、彼らがもたらしたかもしれない。
 さておき、『隋書』「倭国伝」に、推古天皇の時代に遣隋使蘇因高(小野妹子のこととされる)と共に隋から使者としてやって来た裴世清が、百済を経て北九州を通るときに、「竹斯国に至り、又、東して秦王国に至」った。この「秦王国」こそ豊前の秦氏が住んでいた場所を指す。また、秦王国の人は「華夏に同じ」であるという。華夏とは、中国人の事である。隋の使者は「ここは夷州(台湾)か?」と首を傾げた。日本に中国風の人が住んでいるとは思っていなかったのだろう。しかし、日本人(大和人)は――少なくとも小野妹子は、豊前に渡来人(中国系かどうかは別として)の国があり、それは秦王国だということを知っていた。

 話がだいぶ脇にそれてしまった。八幡神は朝廷の政策によって、秦氏の氏神から、国家の神へと変貌した。そして、奈良東大寺の大仏建立に銅を献上したり、弓削道鏡託宣事件など、国家と深くかかわる神社になるのである。
 最後に、八幡神は鍛冶神の性格があることを強調しておく。八幡神は鷹に化身するが、鷹は鍛冶鳥ともいう。放生会は銅鏡を奉納する祭りだし、東大寺に銅を大量に献上したのも八幡宮だった。だが宇佐では銅は採れない。銅が採れるのは香春岳である。

【宇佐八幡宮と大安寺】
 大和の大安寺の歴史は古い。推古天皇の時代に聖徳太子が額田部に熊凝精舎を建立し、熊凝寺と号したのが起源といわれる。後に舒明天皇が磯城郡百済川のほとりに移築して百済大寺と改称し、更に天武天皇の時に高市に移して高市大寺と称す。平城京遷都と共に再び移築され、大安寺となった。南都七大寺のひとつに数えられ、多くの学僧を輩出した。空海、最長もここで学んでいる。特に空海は、大安寺の謹操から虚空蔵求聞持法を授けられている。この謹操が秦氏なのである。

 八幡信仰について、たくさんの幡を立てる風習が、対馬の天童信仰に残っていると書いた。(天童信仰では、幣を立てる)天童信仰も朝鮮半島に由来していて、その原型は太子信仰であるという。太子信仰はそのまま日本にも渡来して、太子は聖徳太子や弘法大師(空海)に置き換えられた。日本のタイシ(ダイシ)信仰は、主に鍛冶屋、左官屋、大工、樵、桶屋などに広まった。これらの職業は秦氏に多く見られるのである。
 そういえば、聖徳太子には秦河勝という側近がいた。秦河勝は、新羅から伝来した弥勒仏を、聖徳太子に代わって太秦の広隆寺に祀っている。この弥勒信仰も、秦氏と大きくかかわっている。聖徳太子の建立と伝えられている寺で、弥勒仏を本尊としているのは、大阪の四天王寺をはじめ六寺にのぼる。(法隆寺だけは釈迦仏)田村圓澄はこのことについて、弥勒仏を安置することによって聖徳太子信仰を支えたのが、この六寺であったと説き、弥勒菩薩半跏思惟像は、元来、出家前の悉達太子像であり、悉達太子が新羅のタイシ信仰に結び付いて、更に聖徳太子に置き換えられたのだと説く。

 大安寺は寺伝によると、聖徳太子が建てた精舎がその起源であった。そして、空海や最澄が唐に渡る前から、密教を伝えていて(虚空蔵求聞持法は密教の法である)、しかも秦氏の僧がいた。その大安寺が秦氏の宇佐八幡と関係があるのは当然といえよう。例えば、大安寺の謹操と親しかった最澄は、唐に渡る前に香春岳に登って、旅の平安を祈願したという。(『続日本後紀』) 
 最澄は弥勒菩薩を信仰していた。そして、当時弥勒信仰が一番盛んだったのが豊前だったのである。また、秦氏が虚空蔵求聞持法を伝えたのは、彼らが虚空蔵菩薩も信仰していたからだった。宇佐八幡宮の弥勒寺は、元々虚空蔵寺といい、九州では最古の寺といわれている。なお、漆器業者や木地屋に虚空蔵菩薩を信仰している人々がいるが、それも秦氏と無関係ではあるまい。
 宇佐八幡宮の分霊を石清水に祀ったのが、大安寺の僧行教だったのは、秦氏に関係があったからなのである。ちなみに、現在大安寺は高野山真言宗に属している。

【なぜ、紀氏は二股をかけたのか】
 大安寺と宇佐八幡宮の関係はわかったが、依然として紀氏がなぜ惟仁親王と惟喬親王の両方に肩入れしたのか、疑問が残る。結論から言えば、紀氏には先が読めていたということだろう。つまり、最初から藤原氏には勝てないことが、わかっていたのである。
 ただ、文徳天皇が惟喬親王を深く愛し、実際に惟仁親王を廃して、惟喬親王を皇太子にしようという考えがあった。紀氏もそれに淡い期待を抱いたのではないだろうか。もし、万が一にも惟喬親王が皇太子になれば、紀氏の血を受けた天皇が誕生するのである。
 しかし、その望みはあまりにもはかない。そこで、連環の計ではないが、安全弁を設けた。もし、惟喬親王が皇太子になれなくても、紀氏がそのことによって没落しないように、もう一つの策を進めたのである。それが行教を惟仁親王のために宇佐に向かわせたのだろう。
 惟喬親王は結局皇太子になれなかった。文徳天皇の行動に危機を感じた藤原良房は天皇を暗殺。そして、紀有常や紀夏井を左遷し、真済を隠棲に追い込んだ。
 しかし、一方石清水八幡宮を建立することで、紀氏は新たに清和天皇とパイプをつなぐことに成功したのだ。紀氏は朝廷内の権力からは遠ざかるが、石清水八幡宮の神主を代々継いでいくことで、清和源氏とも関係を保つことになる。

 なお、近江の木地屋の里、君ヶ畑の筒井八幡宮は惟喬親王を祀る。惟仁親王と石清水八幡。惟喬親王と筒井八幡。どちらも、秦氏のヤハタの神を祀る神社である。秦氏も、惟喬、惟仁の両派に分かれたのだろうか。このことから、秦氏と紀氏が深いつながりがあったことがうかがえるのである。

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