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将門を祀る?東山藤稲荷神社(新宿区)
東山藤稲荷神社は下落合のおとめ山公園の傍らにある。おとめ山の由来は、江戸時代に将軍家専用の狩猟地で、立ち入り禁止の御留山と呼ばれたことから来ている。乙女ではない。
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妙正寺川の北側の落合断崖の傾斜地にあり、崖から湧き出る水で池を作っている。大正時代には旧磐城中村藩主の相馬家の屋敷があったところで、公園の西わきの坂道は相馬坂という名がついている。現在は新宿区立の公園になっている。
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神社の手前の坂下(注:相馬坂ではない。おとめ山の東側の坂)に東山藤稲荷神社の石標があった。元々はここに社があったというが、太平洋戦争で焼失した。現在よりももっと大きな神域だったらしい。
昭和二十八年[1953]に現在地に社殿ができた。
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石標から少し進んだところで左手の道の奥に赤い鳥居が見えた。稲荷神社の赤い鳥居は目立つので見つけやすい。
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石段を登っていくと、狭い境内に拝殿があった。拝殿に上がる階段には落ち葉がつもり、しばらく誰も来ていないようだった。境内も少し荒れているような気がする。
拝殿のすぐ隣に社務所があるが、無人なのだろうか。誰かいれば掃除をすると思うが・・・。
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なんだか寂しい神社だが、実はとても古い歴史がある。
源経基が延長五年[927]に京都の伏見稲荷から勧請したというのがはじまりだという。
境内に大きな藤の樹があったので、藤稲荷とよばれたとか。(富士稲荷とも)確かに藤棚はあるが、これは後から植えたものだろう。
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経基の父は清和天皇の第六皇子貞純親王で、天皇の孫で第六皇子の息子なので六孫王と呼ばれた。元は皇族だが源氏の姓を賜り臣籍降下した。
武家の棟梁、清和源氏の祖である。
(ただし、清和天皇ではなく、その子の陽成天皇が祖父という説が有力。つまり、陽成源氏というのが正しいらしいが)
経基は武蔵介に任命されて武蔵国に下向した。
武蔵国司の権守興世王と経基は、足立郡司の武蔵武芝と前例に無い検注のことで対立し、兵を率いて足立群に押し入り、武芝邸や周辺の民家を略奪した。
その争いの仲裁を買って出たのが平将門だった。将門は興世王と武芝を和解させることに成功した。
しかし今度は経基が、武芝と将門が結託して自分の命を狙っていると誤解して、京都に直訴した。
将門は周辺の国から証言をかき集め、太政大臣藤原忠平に書状を出して、謀反の誤解を解くことができた。逆に経基はいい加減な讒言をしたということで更迭されてしまう。
以上、『将門記』の内容をかなり端折って紹介したが、これだけ読むと経基は何だかしょうもない早とちりの小心者みたいに思える。そもそも、興世王が前例のない物品や税を要求し、それを郡司武芝が断ると、盗賊さながら略奪に及ぶという、狼藉者はどっちなんだという話である。
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しかしこれは『将門記』の作者が将門贔屓なので、経基には経基の言い分があったのかもしれない。
境内の掲示板にあった由緒の後半部分を引用する。
当時平将門が反逆を企てた折、当東山稲荷の大神様よりその旨御神託あり、経基は早速忍者を走らせ調査した処御神託の通りだったため、帝の許しを頂き、これを平定致しました。この功により、帝より源姓を賜った経基は、以来東山稲荷神社を源氏の氏神様として一族で崇敬することとしたと伝えられております。 やがて時代の流れと共に、武家のみならず庶民の信仰も厚くなり、「知恵と勇気」を御授け下さる福徳の神様として、その信仰者は農商業、芸能方面と広く江戸市中関東一円に増えていったとのことです。
将門はこの一件に懲りずに興世王やら藤原玄明やら悪党に頼られて、今度は本当に謀反を起こしてしまうのだが、経基の方は謀反の誣告は真実だったということで、晴れて罪を許され、将門追討軍の副将に任じられたのだった。
実際、将門を追い詰めたのは平貞盛と藤原秀郷だったわけだけど。
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とまれ将門の乱平定の功績により経基は源氏の姓を賜り、武家源氏の基礎を築くことになった。
ここは無住の神社ということで、御朱印等は下落合氷川神社でいただけるそうだ。
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