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将門を祀る?阿伎留神社(あきる野市)

 JR五日市線の終点、武蔵五日市駅で下車。ここから先は鉄道はない。
 また、五日市街道も駅前で終わり、その先は檜原街道につながる。

駅の看板は木製
駅前
駅は橋の上にあるような構造
終点近くは何だか遊園地の乗り物に乗っているような気分になる
駅の建物を撮影している人が意外と多かった
終点なので、線路もここまで
駅の中は木材が多く使われている
杉花粉対策のため、東京都は都内の杉材の伐採と使用を推進している

 秋川渓谷は行楽地で、武蔵五日市駅はその入り口でもあるので、平日でも自然を求めて訪れる人は少なくない。外国人のトレッカーもちらほら見かけた。

 檜原街道を進むと途中に広場があり、注連縄をかけた自然石があった。石の根元には御幣がさしてある。市神様だそうだ。
 かつて五日市の市の中心に祀られていたという。五のつく日に市が開かれるので五日市。その始まりは定かでないそうだが、中世の頃の文献には出てくるという。
 道路拡張のため、一時は阿伎留神社に遷されていたが、この広場が整備されて、ここに祀られることになったらしい。 

右の自然石が市神様

 駅から800mほど歩いて、出張所入り口の信号機の所で左の道に入って、秋川の方へ歩いていく。地図で見ると秋川が大きく蛇行している場所だ。
 200mも進むと神社の杜に突き当たる。

この先は谷になり、その下を秋川が流れている

 阿伎留神社の主祭神は大物主神。相殿に味耜高彦根神あじすきたかひこね建夷鳥たけひなとり神、天児屋根命あめのこやねのみことが祀られている。
 鎮座地が松原であることから、別名松原大明神と称され、地元の人には松原様と呼ばれていた。また、春日大明神とも。 

参道
奥に見えるのは神楽殿

 創立年は不詳とのこと。平安時代の延喜式に武蔵国多摩群八座の筆頭とある。
 また、宮司は武蔵国造家の子孫というから、由緒の古い神社であることは間違いない。

この社殿は明治二十一年[1888]に建てられた
それより以前の社殿は天保元年[1830]の五日市大火により焼失した

 五日市町史によると、天慶三年[940]藤原秀郷は平将門を征討しようとした所、山城国乙訓郡小塩山の大原明神(大原野神社)の神霊を、武蔵国内の有勲の大社に合殿すれば、目的が達せられるとの神示があったという。
 そこで阿伎留神社を選び、大原野神社の土を遷して大原明神(天児屋根命)を勧請した。併せて乙津、小倉、入野(何れもあきる野市内の地名)の神を祀り、松や桜を移し、神税一万束を奉納して東国鎮護を祈願した。

神輿殿
神輿殿の彫刻

 阿伎留神社のある場所に小庄という地名があるが、これは阿伎留神社が小塩山の大原明神を祀ったことに因み、小塩宮の別名から小塩→小庄となったのだそうだ。
 また春日大明神とも称するのは、大原野神社が元々奈良の春日大社を勧請したことに起因するのだという。

 天児屋根命は藤原秀郷の祖神だから、この神に戦勝祈願をするのはごく自然なことだろう。

占方神社
祭神櫛真智神
占いの神様
祓戸大神社
本当は社の前にお祓い用の大幣があって、自分でお祓いできる
のだが、残念なことに大幣が無かった

 その後も武将の崇敬も篤く、源頼朝、足利尊氏、小田原北条氏などが社領を寄せ、徳川家康は江戸入府の翌年の天正十九年[1591]十一月に、十石の土地を寄進している。歴代の江戸の将軍たちもそれに倣い、朱印二十通が現存しているという。

本殿脇の謎の穴
松原天神
倭建命神社
菅原神社

 境内にはたくさんの末社がある。小さな祠も森のそこここにあるが、これは近在にあったものをここに集めたのかもしれない。明治時代に一村一社の令があったので、その影響かもしれない。

 神社を出て谷の先端の道で行ける所まで行ってみた。谷底を秋川が流れている。川の中に入って網で何かをすくっている人が見えた。南向きの谷なので、とても日当たりがよく、景色も最高だ。川から涼しい風が吹いてきて、とても心地よい。これから春の花の季節、新緑の季節には、また違った景色が見れるだろう。


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