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於岩さんが生きてた頃━━江戸時代始めました④

 桜田濠が完成した慶長十八年[1613]、駿府にあった銀座を江戸に移します。場所は現在の銀座二丁目。そして銀座の地名の始まりになります。

 同じ年、傾城屋の主人庄司甚右衛門が幕府公認の遊郭の創設を陳情します。
 この頃江戸の町は急速に人口が増え、幕府は武家地増設のため、町割りの変更を何度もしていました。このため町人が強制移住させられることもよくありました。特に遊郭は度々移転を余儀なくされていました。
 甚右衛門は幕府公認の遊郭を造ることで、安定した経営と、点在する遊女屋を一か所に集めることで風紀上の管理がしやすくなることを訴えたのです。

 しかし、甚右衛門の陳情は受理されたものの、遊郭の設置はすぐには実現しませんでした。その頃幕府は大阪の豊臣秀頼の対応に追われていたのです。

 慶長十四年[1609]京の方広寺を秀頼が再興することになりました。方広寺は秀吉の発願で作られましたが、地震や火災で損壊していました。
 慶長十九年[1614]八月、方広寺の鐘銘事件が起こります。儒学者林羅山が鐘の銘文の「国家安康」が 家康の名を分断していて、これは家康を呪詛しているのではないか。また「君臣豊楽」は豊臣を君主として楽しむという意味があると断じたのです。
 これがきっかけとなり、十月大坂冬の陣が起こります。十二月、一旦は和議が成りましたが、翌年元和元年五月、大坂夏の陣で再び戦になり、秀頼が自害して遂に豊臣氏は滅亡しました。
 
 翌元和二年[1616]四月十七日(旧暦)、徳川家康は駿府城で死去しました。

 こうして一時代が終わった翌年元和三年、日本橋葺屋町(現人形町)に吉原遊郭ができ、庄司甚右衛門が惣名主になりました。

 江戸は相変わらず水害に悩まされていました。そこで江戸湾に注いでいた平川の流れを変えることにしました。
 元和六年[1620]神田台を切り崩し、神田台の東の神田川とドッキングさせ、平川の水が隅田川へ流れるようにました。飯田橋から南に流れていた旧平川は堀留橋まで800メートルほど埋めて分断しました。(現在は三崎橋のところで、川はつながっています)
 現在水道橋からお茶の水にかけて神田川は深い谷の中を流れていますが、この谷は人の手によって作られたのです。


神田川(お茶の水)の谷
聖橋から東方面

 神田台は川によって北の本郷台(湯島台)と南の駿河台に別れました。駿河台という地名は家康の死後、駿河の家臣たちをこの地に移住させたことによります。

 神田台を掘った土はどこへ行ったかというと、江戸湾の埋め立てに使われました。日比谷入江はなくなり、江戸前島も拡張され、平川の氾濫による日本橋一帯の洪水被害も無くなりました。

皇居外苑(皇居前広場)
江戸城西丸下
ここは日比谷入江だったところ
日比谷公園
ここも日比谷入江の埋立地
日比谷公園
日比谷門跡
この石垣は寛永五年[1628]仙台藩主伊達政宗により造られた
仙台藩の上屋敷もその頃は日比谷門の傍にあり、伊達政宗はそこで亡くなった


 また、水道橋から飯田橋間に堤防を作りました。
 神田川の下流には川の南側に柳原堤がありますが、これは太田道灌が築かせた洪水対策です。北側は人家が少なかったので、わざと堤防を造らず洪水の際は水を逃がしました。水に強い柳を堤の上に植えたので柳原と呼ばれ、独特の風景は江戸の名所になりました。
 
 平川大曲、飯田橋、九段下、神田橋をむすぶ旧平川は日本橋川と呼ばれるようになりました。川といっても流れはなく、実質は堀でした。

元和六年頃
国土地理院の地図に土偶子が作画

 もう一つの洪水対策は江戸湾に流れ込んでいた利根川の付け替えでした。赤堀川(茨城県)を開削し、利根川の本流を銚子へ流す大治水事業で、元和七年[1621]に始まり、承応三年[1654]に完成しました。

 元和八年、田宮家の初代伊右衛門が死去しました。戦国時代を生き、そして恐らく実際に従軍した最後の世代と思われます。
 於岩さんは戦の無い太平の世を喜んだでしょうか。

                              つづく 

 


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