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将門を祀る?篠崎浅間神社(江戸川区)

 都営新宿線篠崎駅で下車。新宿からかなり遠く感じた。それもそのはずで次の駅は千葉県の本八幡もとやわた駅。ここは都境(県境)の街だ。

 駅の北側に出て、篠崎文化プラザのわきの通りを北へ向かって1㎞ほど歩く。静かな住宅街。昔は畑が広がっていたのだろう。所々に名残のような小さな農園が点在する。

 篠崎浅間神社の杜が見えたら左に折れる。細長い参道がのびている。

 篠崎浅間神社の御祭神は木花開耶媛尊このはなさくやひめのみこと。大山祇命の娘で、浅間神社は富士山をご神体とする神社だ。
 浅間=アサマは火山のことという。また、アサマとはアイヌ語で火を吹く燃える岩という意味らしい。阿蘇山のアソもアサマと語源は同じかもしれない。岩という意味ではイソ、イセも関係があるかもしれない。

 鳥居の手前で水音がしたのでそちらを見るとちいさな池があり、その奥に辨天社があった。水音はポンプで水を循環させて、パイプから水が落ちる音だった。澄んだ水の中に金魚が泳いでいる。

 鳥居をくぐる。思いのほか広い境内だ。奥の一段高い場所に本殿がある。

 この辺りは江戸川、新中川、中川、荒川と川がいくつも流れている低湿地地帯。江戸時代以前は利根川も江戸湾(東京湾)に流れていた。古代の地図を見ると川幅も大きく流れも多く、江戸湾も内陸へ大きく入り込んでいる。
 現在のような高い堤防も、放水路のような治水対策もない時代、毎年のように洪水や高潮の害があっただろう。

 本殿が建っているあたりは、昔はきっと島のようだったに違いない。境内に柳島稲荷がある。柳島という地名があったのだ。やはり、川が運んだ砂地の中にぽつんと島のように盛り上がった土地があったのだろう。
 祭祀の場はそうした安定した良い土地に造られることが多い。

中央のひときわ高い場所に本殿がある

 本殿の両脇にあるのは向かって左が下浅間神社で大山祇命を、右が下浅間御嶽宮で磐永媛命を祀る。磐永媛は木花開耶媛の姉神。
 二人は天孫瓊瓊杵尊に嫁いだが、磐永媛は不美人だったため、実家に戻されてしまう。磐永媛は長寿の神とされる。長寿の神を実家に帰してしまったため、瓊瓊杵尊の子孫(すなわち天皇家)の命は限りあるものになってしまったという神話。

 磐永媛の社の前に富士講の石碑があった。

御嶽宮と富士講の碑

 石碑の上の方には中央に富士が彫られ、左右に日月がある。中央に「元祖食行身禄価」の文字。その下に見づらいが三猿が彫られている。これはこの手の講碑としては珍しい形式だそう。天保十一年[1840]に建てられた。

 伊藤食行身禄じきぎょうみろく[1671~1733]は伊勢の人で、富士講指導者として教義の体系化を計り、江戸庶民の富士信仰ブームをけん引した行者。富士山で断食行を行い、入滅した。彼の死後崇敬する信者により富士講があちこちで組織され、江戸に多くの富士塚がつくられた。

 この碑は富士講の元祖身禄行者をたたえて建立されたのだろう。碑文の最後の「価」とは富士講独特の使用法で、先師を敬って名の下につけるのだそうだ。

 篠崎浅間神社の創建は承平二年[932]下総国弥山の弥山佐奈比神人ややまのさなひしんとによって奉斉されたのがはじまりという。変わった名前だが、佐奈比というのが名前で、神人は神に奉仕する人といった意味だろうか。
 しかし、創建は天慶元年[938]というから、承平二年というのは弥山佐奈比神人がここに移住した年ということか。
 江戸川区で一番古い神社なのだそうだ。

 天慶三年[940]平貞盛は平将門追討の命を受け、この神社の境内に霧島神社を祀り、金幣と弓矢を奉納して戦勝祈願をしたという。霧島神社の御祭神は瓊瓊杵尊である。

霧島神社

 境内にはたくさんの摂社があるが、その中の霧島神社の祠は比較的新しい石の社だった。武運と国土繁栄の神とされている。

 浅間神社は都内で将門の乱に関係のある寺社の中で、一番東の端にある。神社の近くの篠崎街道は江戸川の堤防に沿って通り、その向こうは江戸川の河川敷。川の向こうは下総国(千葉県)である。下総国は将門が生まれたところとされている。


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