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六歌仙のなぞ(5)

◆六歌仙の活躍時期◆

 六歌仙はいつ頃活躍したのだろうか。

    僧正遍照(弘仁七年[816]~寛平二年[890])
    在原業平(天長二年[825]~元慶四年[880])
    小野小町(生没年?820年頃の生まれか)
    文屋康秀(弘仁一年[810]?~?)
    喜撰法師(生没年?)
    大友黒主(生没年?830年代の生まれか)

 六人のうち、生没年がはっきりしているのは二人だけだが、ほぼ活躍した時期は重なっている。小野小町は僧正遍照、文屋康秀と歌を交わしているし、大友黒主は貞観一年[859]に園城寺別当になっているのをはじめ、仁和、昌泰、延喜に歌を残しているので、大体その活躍時期がわかっているのである。ただ一人、喜撰法師だけはまったく資料が無いが、この人物については後で詳しく検証してみたい。だが、喜撰法師も他の五人と同時代の人と考えてよかろう。

 次に六人それぞれのプロフィールを、もう少し詳しく追ってみよう。

【僧正遍照】
 遍照は俗名を良岑宗貞といい、父安世は桓武天皇の皇子で、良岑姓を賜って臣下に降った人である。仁明天皇のときに蔵人頭として仕え、左近衛少将を兼ねたので、良少将ともいわれた。仁明天皇には従兄弟にあたる。仁明天皇は宗貞を重用していたという。
 血筋がよいだけでなく、容姿風采にも優れて、嘉祥二年[849]には、渤海国の使者の接待役に選ばれている。
 翌年、仁明天皇が崩御されると、宗貞は比叡山に上り、出家。慈恵の弟子となり、名を遍照と号した。その後、貞観年間、雲林院に住んで権僧正に任ぜられ、また光孝天皇のときに、元慶寺の座主となった。元慶寺は別名花山院といい、そのため花山僧正とも称した。

 将来を嘱望された蔵人頭であった宗貞は、なぜ急に出家してしまったのだろうか。実は、道康親王(文徳天皇)に宗貞のことを讒訴する者があったらしい。たぶん、藤原氏かその縁者だろう。宗貞は藤原氏とは無縁なので、その出世を阻もうとする輩がいたのに違いない。道康親王も、宗貞のことを疎ましく思っていた。
 宗貞もそのことに気付いていたのだろう。信任してくれた仁明天皇が崩御して、出世の前途に望みを無くした宗貞は、藤原氏に切られる前に、自分からさっさと身を引いてしまったのだ。何しろ、崩御して初七日で、にわかに比叡山に上ってしまったのだ。しかも、大喪の運営の任をすっぽかしての事だから、よほど切迫した事情があったとしか思えない。
 これを、『文徳天皇実録』は、「左近衛少将従五位上良岑宗貞。出家為僧遍照。先皇之寵臣也。先皇崩御後。哀慕無己。自帰弗理。以求報恩。時人愍焉」と記し、忠臣ゆえの出家といっている。もちろんそれもあるだろうが、もっと悲痛な理由が他にあったと思われるのだ。

 しかし、出家したことは、その後の遍照の生涯には、むしろ良い結果をもたらしたと言える。清和天皇の皇太子貞明親王(陽成天皇)の護持僧に任じられたのだ。陽成天皇の次に皇位に就いた光孝天皇は、遍照を重く用いた。光孝天皇の乳母は遍照の母だった。つまり、乳兄弟の関係にあったのだ。遍照が古希を迎えたとき、天皇は内裏で七十の賀を催してくれたほどだった。
 また、僧としての出世も目覚ましく、天台宗で初めての僧正位を与えられた。寺院の運営にも腕を振るい、多くの法令を発布した。
 歌道では、雲林院にて遁世者らのサロンを作り、独自の「わび」の趣向を作り上げていったという。

【在原業平】
 平城天皇の皇子阿保親王の第五子として生まれた。母は、桓武天皇の皇女伊登内親王。在原姓を賜った。貞観のころ左近衛中将、元慶年中に蔵人頭と相模美濃権守を兼ねた。五位で中将だったことから在五中将、または在中将ともいう。

 業平の妻は紀有常の娘で、有常の妹の生んだ惟喬親王(文徳天皇皇子)とは従兄弟の間柄。業平、有常、紀有朋、紀友則らは、惟喬親王のもとで一つのグループを作っていた。

 兄在原行平が、まじめで温厚な政治家なのに対し、業平は奔放な性格で、藤原の権力の風下にいることを良としなかった。美男で風流な生き方をした人で、多くの恋もした。特に、斎宮恬子内親王(惟喬親王の妹)、藤原高子(二條后、清和天皇の皇后)との恋愛で、世間を騒がせた。藤原氏にとっては目の上の瘤のような存在だったが、藤原良相とだけは仲が良かったらしい。
 『伊勢物語』の主人公は、この業平をモデルにしている。彼が藤原氏に対してどのような気持ちを持っていたかがよくわかるエピソードがある。


 ある日、行平が酒宴を開いた。その席に見事な藤の花が花瓶に生けられてあった。そこで一同は早速藤を題にして、歌を作ることにした。そこへ行平の弟(業平)がやって来たので、客たちは彼にも作らせようと言い出した。弟は言い訳をして断ったが、みんなが許してくれないので、次のような歌を作った。
 「咲く花の 下にかくるる 人を多み ありしにまさる 藤のかげかも」
 意味は(花の下に隠れようと集まる人が多いので、ますます藤の花は素晴らしく見えます)である。
 客は「どういう意味なのか」と尋ねると、業平は「太政大臣、藤原良房公の繁栄ぶりを、祝ってみたまでですよ」と、けろりとして言った。誰もがそのことに納得して、歌に文句を言うものはいなかった。


 歌は良房の栄華を褒めたつもりで、一方で権力に蟻のごとく集まる人々を揶揄しているのである。これほど痛烈に藤原体制を批判した歌はあるだろうか。業平というと、軟派なプレイボーイのイメージがあるが、なかなかどうして気骨のある人物だったようである。

【小野小町】
 在原業平を平安時代の美男子の代表とするなら、小野小町は美女の代表だ。後の時代になっても、美人の代名詞に「――小町」とつけるほどである。しかしその実像となると、『古今集』に残した歌のほかは、何一つわかっていない。

 では、手掛かりとなる『古今集』の歌を見てみよう。


                           安部清行朝臣
 「包めども 袖にたまらぬ白玉は 人を見ぬ目の涙なりけり」

    返し                     小    町
「おろかなる 涙ぞ袖に玉はなす 我は堰きあへず たぎつ瀬なれば」

    文屋康秀が、三河掾になりて、「あがた見にはえ出て立たじ     
    や」と言ひやれりける返事によめる                              
                           小 野 小 町
 「わびぬれば 身を浮き草の根をたえて 誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」

                           小 野 小 町
 「今はとて わが身時雨にふりぬれば 言の葉さへにうつろいにけり」

     返し                    小 野 貞 樹
 「人を思ふ こころ木の葉にあらばこそ 風のまにまに散りも乱れめ」

 以上が『古今集』の中で、小町と歌のやり取りがあった人たちである。また『後撰集』には、次のような贈答歌がある。

     石上といふ寺に詣でて、日の暮れにければ、明けて帰らむとて、
     かの寺に遍照ありと聞きて、心身にいひやる
                           小     町
 「岩の上に 旅寝をすればいと寒し 苔の衣を我にかさなむ」

     返し                    遍     照
 「世をそむく 苔の衣はただ一重 かさねばうとし いざ二人寝む」

 『後撰集』は『古今集』より五十年後になった勅撰集だが、この歌は有名である。

 この四人を手掛かりにして、小町の活躍時期を推理してみる。
    安部清行[825~900]
    文屋康秀[860刑部中判事~879縫殿助]
    小野貞樹[849東宮少進~860肥後守]
    僧正遍照[816~890]
 これで見ると、小町は816~900年頃に生きたと考えてよさそうである。しかも、歌の感じから相手と対等な印象を受けるし、ろうたけた感じがする。
 遍照の歌は、彼が出家した後のものだから、850年以降になる。安部清行の歌の詞書には「下出雲寺に人のしわざしける日」とあり、これは『古今和歌集註』に、「信濃守藤原朝行元慶七年[883]十月二日 死テノ葬儀スルヲ云也」、とあるので、このときに交わされたものだろう。
 大雑把だが、これで小町がいつ頃の人か、お分かり頂けたかと思う。
 在原業平と交際していたとの説については証拠となるものは一つもない。しかし、二人が同じ時期に生きたことは疑いはない。

 小町の父親については、次の説がある。
    小野良実(良真)。小野篁の子、出羽郡司。
    小野常澄(あるいは当澄)。同上。
    小野篁。(延暦二十一年[802]~仁寿二年[852])
 この中で、実在が確認できるのは、小野篁だけである。一般に、小町の父親は良実といわれているが、篁の子に良実の名はない。当時、出羽に郡司が置かれたことはない。良実の名は、系図以外に見いだせない。また、小町の活躍時期から見て、小町を篁の孫とするのは無理がある。
 一番無理のないのは篁説だが、確かめる術はない。

 小野小町は、仁明天皇の更衣だったという説が有力である。それは、「小町」という名前から推理された説である。小町の「町」は「后町」に由来するもので、「后町」とは内裏の常寧殿の部屋割りを云い、その「后町」に住んでいたのが更衣であるから、小町も更衣だったのだろうというのだ。小町はその活躍時期からみて、仁明天皇の頃に更衣だった可能性があるという。
 小町の「小」は、同時代の更衣「三国町」あるいは「三條町」よりも年少だったからとか、単なる愛称とか、「小町の姉」に対する妹の意だとかの説がある。
 小町の名前については、あとでもう少しつめて考えてみようと思う。

 では、小町の本名はなんだったのか。これについては、承和九年[842]正月に、小野吉子が正六位上に叙せられているので、これが小町のことであろうといわれている。小町はこの時に仁明天皇の更衣として内裏に上がったのだという。
 しかし、吉子が更衣だったことは、記録のどこにも書かれていないし、その後吉子の人生がどんなだったかも分かっていない。吉子が更衣ではなかったかという説のよりどころは、同じ日に同じく正六位に叙せられた藤原賀登子が、仁明天皇の更衣だったということに尽きる。賀登子は皇子を生んだが、吉子には子ができなかったので、記録に残らなかったのだろうという訳だ。
 面白い説だし、一応筋は通っている。これ以上、小町と結び付けられそうな人物はいないので、「小野吉子=小野小町」説は、かなり有力である。とはいっても、よく考えればまことに心細い手掛かりでしかない。繰り返すが、小町が更衣だったとか、吉子が更衣だったとか、まして、二人が同一人物だったという証拠は何一つないのだ。

【文屋康秀】
 文屋康秀についての記録は断片的である。生没年は不明。わかっているだけの経歴を挙げてみる。
    貞観二年[860]刑部中判事。
    貞観中?    三河掾。
    元慶一年[877]山城大掾。
    元慶三年[879]縫殿助。
    寛平五年?[893]是定親王家歌合。
 前述のように康秀が三河掾になった時に小町を誘っているが、その時期については次のように推理できる。刑部中判事から、山城大掾になるまでの間が十七年ある。仮に刑部中判事の任期を四年とすると、三河掾の任官は864~877年の間になる。
 ところで、康秀は二條后(清和天皇の皇后)に次のような歌を奉っている。

     二條のきさきのとう宮のみやすん所ときこえけるとき、正月三日   
     おまへに召して、おほせごとあるあひだに、日はてりながら雪の
     かしらにふりかかりけるをよませ給ひける
                             康   秀
 「春の日の光りあたる時なれど かしらの雪となるぞわびしき」

春の日とは春宮(皇太子)のこと。康秀は、春宮や二條の后の恩恵にあずかりながらも、出世できない身のわびしさを訴えているのである。「二條のきさきのとう宮のみやすん所ときこえけるとき」とはいつのことかというと、貞観十一年[869]~十八年[876]のこと。この歌の効き目かどうかわからないが、どうやら二條の后のお陰で、康秀は三河掾になれたようだ。
 とすると、三河掾に選ばれた時期は、仮に任期が四年として、869~873年の頃であろうか。頭に白いものが目立つ歳(かしらの雪)というから、この頃はもう五十をこしていただろうか。寛平の是貞親王家歌合の頃は、かなりの歳だったと知れる。

 その他、『古今集』には、深草の帝(仁明天皇)の国忌の日に詠んだ歌があるので、康秀は仁明天皇の宮廷サロンの仲間だったのかもしれない。もし、小町が仁明天皇の更衣だったとすれば、この頃に出会っていた可能性がある。また、仁明天皇の蔵人頭だった宗貞(遍照)とも、面識があったはずである。


【喜撰法師】
 喜撰法師は、六歌仙の中で一番不明なところの多い人である。歌も、
 「わがいほは 京の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山とひとはいふなり」
の一首しかない。この歌から、喜撰は宇治に住んでいたのが分かる。それ以前は醍醐(山科)に住んでいたので、醍醐法師ともいわれている。
 役行者系の道術師とも、桓武天皇の後裔ともいわれているが、どうも怪しげな話である。真言宗の僧侶という説もあるのは、醍醐に住んでいたからか。
 ただ、紀名虎の息子という説もあって、「喜撰」は「紀仙」の事だろうともいう。(高崎正秀『六歌仙前後』青磁社)
 もし、喜撰が紀氏出身だとすれば、貫之が六歌仙の一人に選んでもおかしくない。
 喜撰法師の正体については、また項を改めて詳しく推理してみたい。

【大友黒主】
 黒主は六人の中でも一番後に生まれただろうと思われる。
 大友村主すぐり氏は、大友皇子(天智天皇の皇子)の子孫と称しているが、これは嘘で、新羅系の渡来人の子孫である。むしろ、大友皇子の名が大友村主氏との関係からつけられたものだろう。たぶん、大友皇子の乳母が大友氏だったのだろう。
 園城寺(三井寺)は、天智天皇、大友皇子にゆかりのある寺で、黒主の家は代々の園城寺地主明神の神職を勤めてきた。黒主の身分は近江国の滋賀郡大領(郡司のトップ)、従八位。地方の役人にすぎないが、滋賀は都に近いこともあって、黒主もたびたび都に赴き、歌会に出席することもあったらしい。
 わかっているだけの経歴をあげる。
    貞観[859~876]中、園城寺神祠別当。
    元慶[877~884]中、滋賀郡司。
    仁和一年[885]光孝天皇の大嘗会に献歌。
    昌泰一年[898]醍醐天皇の大嘗会に献歌。
    延喜[901~922]中、宇田法皇の石山寺御幸の際、国司に代わ  
    って、献歌。
 また、死後は黒主明神として祀られている。
 この経歴から察するに、生まれたのは830~840年頃だろうか。ほかの四人(喜撰は不明なので除く)よりも、一世代下ということになる。また、紀貫之の時代とも重なっている。歌会の席などで、年老いた黒主と出会っていたかもしれない。

 貫之は『古今集』の序文で、黒主のことを「猿丸太夫の次なり」と評している。そのため、後世、黒主は猿丸太夫の第三子だったという説があったが、もちろん採るに足らない。しかし、この地方の一豪族でしかない人物を、六歌仙に選んだのはどうした訳があるのだろうか。



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