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多様性を尊重しすぎて社会が壊れる

公衆浴場はどうする。
トイレはどうする。

生物学上の女性で、性自認も女性。
この方が、生物学上の男性で、性自認が女性だと言う方を尊重してはいるものの、同じトイレは嫌だと言う。

これは、

  1. 生物学上の男性で、性自認が女性だと言う人を尊重する。

  2. 生物学上の女性で、性自認が女性だと言う人を尊重する。

どちらが正しいのか。

間をとって、心と身体の不一致の人用のトイレを作る。
そうすると、

そこを使用すると、心と身体の不一致の人なんだと知られることになるから嫌だ。と言う。

尊重とは、我慢しなくていい、と言うことなのか?

世の中は、互いに常に我満をするから成り立っている。

我満をしたくないという感情を、多様性という言葉で正当化しちゃいないかい?

生物学上の女性で、性自認が女性。
生物学上の男性で、性自認が女性だと言う人と同じトイレに入りたくないという気持ちを尊重する必要はないのか?これを我慢しなければならないことなのか?

我満と尊重は、どこかで線引きすべきこと。

こらは差別ではなく区別。

見た目が明らかに女性。コミュニケーションの中で、好きな男性のタイプは?と聞くことが、そもそもの差別だと、指原莉乃が言った。
男性を好きだという思い込みなんだと。好きな男性は?と質問することがダメなんだとさ。

もし、生物学上の女性で、性自認が女性だと言う人だが、これがはっきりとわかっていない場合は、こう質問するのだろうか?

好きな人間のタイプは?と。

もはや、コミュニケーションをとること自体が悪になってくる。

そして殺伐とした社会が作られていく。

好きな霊長類は?って聞いたら差別じゃないのか?

あなたはトイレはどっちに入る派?って聞けばいいのか?

もしかして、相手のプライバシーに関係する質問自体がダメなのか?

そして殺伐とした社会が作られていく。

答えがないのではなく、答えると叩かれるので曖昧にする、というのが現実。

男と女は、男と女。


そんな感じ。

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