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読書記録|アーモンド


「ばあちゃん、どうしてみんな僕のこと変だって言うの?」
「おまえが特別だからだろ。人っていうのは、自分と違う人間が許せないもんなんだよ」


装丁の少年の目。
じとっとしたその深い瞳は、私のその後ろ、私を見透かして向こう側をみているような、焦点が定まっていないようにも見える。
そんな不気味さや寂しさや孤独を感じながら、そっと本を開く。


偏桃体(アーモンド)が人より小さく、怒りや恐怖を感じることが出来ない高校生、ユンジェ。そんな彼は、十五歳の誕生日に、目の前で祖母と母が通り魔に襲われた時も、ただ黙ってその光景を見つめているだけだった…。


「複雑なものまではわからなくても、基本はしっかり覚えておきなさい。そうするだけでも、ちょっとは愛想がないと言われることはあっても、正常の範囲に入るわ」
 本当のところ、僕にはどうでもいいことだった。僕が単語の微妙な違いを感知できないのと同じように、人から正常に見える見えないかなどということは、僕自身に何か影響を及ぼすようなことではなかった。

P38


感情を捉えて、察して予測して行動する、というのは、たいがい自分以外の他者に向けて行うことであり、そういったことをしなくても生きていられるというのは案外楽なのではないか。一瞬はそう思えたものの、ユンジェの母が、「喜」「怒」「哀」「楽」・・・など基本を暗記させ、集団生活で目立たないよう教育していたように、この世の中で相手の感情に共感することが難しいことは多くの危険を孕んでいるのだ。


感情が豊かであっても、それ故苦しく傷つくこともある。
感じられる力を持っていても、それを他者へ使わないこともある。
一人ひとりのアーモンドの大きさは違う。それに自分のアーモンド、相手のアーモンドがどれだけの力を持っているかなんて分からない。
“相手の気持ちになって――“というお決まりの諭し文句があるが、果たしてこれが効く子ども、大人はいるのだろうか。効くというのは、問いかけ側の思った通りにその人も想像し考えた、という意味で。


本をパタンと閉じた後、また表紙の少年と向き合う。
読む前とは違う感情がむくむくと湧き上がる。
彼の瞳は、私に問いかけてくるようだった。
人の本質とは何か、心とは何か。
何をもって他者と協和するのか、通じ合ったといえるのか。




キャベツのあとがき

ユンジェが少しずつ扁桃体が大きくなっていったのって、本当に愛による変化だったのだろうか?
この物語にはいくつもの愛があったけど、それらを理由にしてしまうには…。フィクションの結末に、あれこれ言うのは無粋。
ではあるけれど、あまりの分かりやすいハッピーエンドに少し煮え切らない感覚がする。
この物語が、ドライでカラッとしているからこそ、“愛“という不確かなもので、身体に変化をもたらすという結論には少しだけ首を傾げた。

“本“に関する肯定的な表現がたくさん散りばめられていて、読書好きには堪らない言葉をいくつか見つけられるだろう。

本は空間だらけだ。文字と文字の間に隙間がある。僕はその中に入っていって、座ったり、歩いたり、自分の思ったことを書くこともできる。意味が分からなくても関係ない。どのページでも開けばとりあえず本を読む目的の半分は達成している。

P50

韓国文学、一冊目。
これは海外文学あるあるなのだけど、登場人物の名前が覚えられない問題。馴染みのないカタカナの名前に慣れなきゃなあ。
同作家の『三十の反撃』も本屋大賞を受賞しているらしい。そちらも読んでみようかな。



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