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ゲームと私[番外篇]:ゲームセンター今昔

近頃Twitter(現”X”)でちょっとした話題になっている
投稿がある。
ゲームセンター(以下ゲーセン)の有り様についてだ。

当記事の見出し画像をご覧頂きたい。
かつてのゲーセンのイメージは,画像左側のように
ビデオゲームを中心として成り立っていた。
それが現在だと画像右側のように、プライズマシンや
プリントマシンがフロアの大部分を占めている店舗が
ほとんどだろう。

何故ゲーセンのビデオゲームはこのように
”絶滅寸前”にまでなってしまったのだろうか。

これはそもそも論として
『ゲーセンに何を求めて遊びに行くのか』
という、目的そのものに直結していると私は思う。

ゲーセンを含めた娯楽施設に人々が足を運ぶのは
『そこでしか出来ない体験を求めて』だろう。

映画は公開から数ヶ月もすれば配信等で自宅でも
気軽に観られる時代だ。
それでも劇場に足を運ぶのは、大きな迫力のある
スクリーンや音響で作品をより楽しむためだろう。
これは劇場でしか体験出来ないことだ。
ボーリングもボーリング場でしか出来ない。

かつてのビデオゲームも同様だった。
”スペースインベーダー”はゲーム喫茶やインベーダー
ハウスと呼ばれるような所でしか遊べなかった。
(これらの店舗は後にゲーセンになっていく。)
LSIゲームやゲーム&ウォッチ、そしてファミコンを
始めとする家庭用ゲーム機が生み出され、そこへ
かつてのアーケードゲームが移植されていくように
なっても、ゲーセンの勢いは衰えなかった。

なぜなら、ゲーセンで稼働しているゲームこそが
『当時の最先端のビデオゲーム』だったからだ。
家庭用ゲーム機の性能が徐々に上がってきても、
その傾向は変わらなかった。

アーケードゲームの基盤にはその当時では最新の
映像や音源を司るチップが搭載されていた。
一般家庭向けに販売するゲーム機にそのような
高額なものは当時では搭載出来なかった。

アーケードゲームの基盤の一例。
家庭用ゲームソフト1本の価格が数千円~1万円程度、
それに対しこれらは最低でもゲーム1本に十数万円~だ。
性能が段違いなのは当たり前の話なのだ。

目の肥えた、あるいは腕に自信のあるゲーマーたちは
こぞってゲーセンに通い、クレジットを投入して
こうした”最先端のゲーム”を遊んでいたのだ。
ヘタをすればほんの数分で100円が飛んでいく。
それでも、それだけの価値がそこにはあると
プレイヤーたちは思っていたのだ。

よくよく思い返してほしい。
ファミコンやスーファミ等で百万本を超えるような
大人気作の中に、アーケード作品の移植作があるか
どうか。『スーパーマリオブラザーズ』のような
ある種の”特異点”ともいうべき作品を除けば、
それらのヒット作はRPGやシミュレーションといった
アーケードゲームには向かないジャンルばかりだ。

アーケードゲームはさらなる付加価値を乗せて
その”特別な体験”をより差別化していく。
その分かりやすい例が”大型筐体”だ。
コックピットなどを模した筐体に乗り込み、
ハンドルや操縦桿を握って操作するそれらは
より高い没入感とリアルな体験を提供してくれた。

大型筐体の一例。
右上の『ファイナルラップ』は複数の見知らぬ人同士が
一緒になってレースで競い合うというドライビングゲーム。
この「見知らぬ人同士が競い合う」という構図、
のちの対戦格闘ゲームのブームに近しいものがある。

さらにゲーセンが一大ブームに見舞われる。
”対戦格闘ゲーム”の登場だ。
このブームの火付け役となったのが所謂
『対戦台』と呼ばれるものである。
2台のゲーム筐体を背中合わせに配置し、映像と
音声、そして操作系統の配線を各筐体に分配する事で
生まれたこのシステムは、これまで友達同士でしか
同じゲームを遊ぶことがなかったゲーセンに
『見知らぬ人同士で遊ぶ(対戦する)』という
まったく新しい”文化”をもたらした。

スーパーストリートファイターII。
なお、欧米だと格ゲーに限らず気軽に「一緒にやろうぜ」と
見知らぬ誰かが”闖入”してくるのは日常茶飯事なのだが(笑)

家庭用ハードはPlayStationやセガサターンなど、
さらに高性能なものが発売されていったが、
まだ今のような高速ネットワークなど存在しない
当時、こうした”見知らぬ人同士が競い合う”という
体験はやはりゲーセンでしか出来なかったのだ。

ここがゲーセン文化の頂点でもあり、そして
限界点だったのかもしれない。

格ゲーブームののち、ゲーセンでは音ゲーや
ネットワークを利用しトレーディングカードの
要素も盛り込んだゲームなど、次々と新しい
試みが導入されていく。

しかし残念ながら、この辺りでゲーセン文化は
行き詰まってしまった。
音ゲーやカードゲーム筐体はとにかく大型だ。
そして設備投資も非常に高額になる。
これらが主流になり始めたことで、設置面積や
投資額の限られた小さな店舗から徐々に廃業へと
追い込まれていってしまうのだ。

また家庭用ハードの進化も止まらない。
ビジュアルもサウンドも、もはやアーケード作品を
上回っていく。
ネットワーク環境も整い、見知らぬ誰かと
対戦あるいは協力して楽しむのも当たり前になった。
もはや最新鋭のビデオゲーム体験はゲーセンに
行く必要性などなくなってしまった。

こうなるとゲーセンに残された『そこでしか
出来ない体験』はプリクラとUFOキャッチャー、
これらだけに絞られてしまう。
これが今のゲーセンの姿の正体だ。


ゲームセンターでしか味わえないプレミアムな
体験。今のゲーセンから失われてしまったもの。
だからといってそれらに価値がなくなってしまった
わけではない。

映画や音楽、小説やコミックが時代を越えて
愛されているように、ビデオゲームも世代を
超えて伝えていくべき文化のひとつであると
私は信じてやまない。


※メダルゲームについては触れていないが、
そもそもメダルゲームコーナーはゲーセンにとって
「ゲームに興味のない人をゲーセンに繋ぎ止める」
ための役割程度しか果たしていない。
ゲーセンにおけるメダルコーナーの売上の割合など
たかが知れているのであえて割愛させていただいた。

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