「光る君へ」のための平安準備情報⑬

七夕は秋

今日は七夕ですね…。
平安時代に既に七夕は親しまれていました。
万葉集にも七夕の歌はたくさんあるので、もっと言うと奈良時代に既に親しまれていたということになります。
古典の世界は季節区分がはっきりしており、
1~3月は春、4~6月は夏、7~9月は秋、10~12月は冬と暦によって
季節が決まっていました。
したがって七夕は秋の行事、景物になります。
月の運行で暦が決まる太陰暦なので、現在より1ヶ月くらいあとにはなるものの、現在なら8月初旬。昨今の猛暑ではとても秋とはいえませんが、
平安時代はもっと涼しかったのだと思います。
織姫は「織り」姫なので、裁縫や織物の上達を祈ったりしたようです。

源氏物語の七夕

源氏物語にも七夕の例がありますが、それは紫の上を亡くした光源氏が、星達でさえ年に1度は会えるのに、もう自分は紫の上と会うことはできないのだ、というものです。
あとはこんなに素敵な人だったら七夕みたいになってもいい(年に1回でも会えるならいい)、というような使い方も見られます。

公任の七夕の歌

公任には、個人の家集として『公任集』があります。
百人一首で有名な
「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど名こそ流れて なほ聞こえけれ」なども収載されています。そのなかには七夕を詠んだ歌もあります。

七月七日女をとこに物いひたるけしきしたる所
311
わが恋はたなばたつめにかしつれど猶ただならぬ心ちこそすれ
(新編国歌大観)

「7月7日の日に、女に床で物を言ったところ」という詞書(和歌の前にある説明文のようなもの)なので、なかなかセンシティブなシチュエーションであるといえます。

が、しかし、この「かしつれど」の解釈がとても難しい…。
私の恋はたなばたつめ(織姫)に貸してしまったけれど、やはりあなたを思って普通ではいられない気持ちがするなぁ、というところでしょうか。
なんでたなばたつめに心を貸してしまったの?というところがいまいちわかりませんが(これは私が勉強不足でわからない、の意です)、
あなたを思うと普通でいられない、とっても好きっということだと一応解釈しておきます。

自身を仮託する歌

『公任集』の290番歌~298番歌には、自分の身をものに仮託する歌が並びます。
おそらく、習作として作られたものだと思いますが、
「水の月のよう」「まぼろしのよう」「いなびかりのよう」などなかなか
繊細で情緒的な世界が広がっています。

此身水の月のごとし
290
水の上にやどれる夜半の月かげのすみとくべくもあらぬ我が身を

此身かげろふのごとし
291
夏の日のてらしもはてぬかげろふのあるかなきかの身とはしらずや

この身ばせを葉のごとし
292
風吹けばまづやぶれぬる草のはによそふるからに袖ぞ露けき

この身まぼろしのごとし
293
此身をばあともさだめぬまぼろしの世にある物は思ふべしやは

この身ゆめのごとし
294
つねならぬこの身は夢の同じくはうからぬ事をみるよしもがな

この身かげのごとし
295
世中にわがある物と思ひしは鏡のうちの影にぞ有りける

この身ひびきのごとし
296
ありときくほどに聞えず成りぬれば身はひびきにも増らざりけり

この身雲のごとし
297
さだめなき身をうき雲にたとへつつはてはそれにぞ成りはてぬべき

この身いなびかりのごとし
298
稲妻のてらすほどには出づるいきいづるまつまにかはらざりけり

和歌には「とっても幸せだーーーー!!」ということはあまり詠まないのが基本のようで、恋の歌がたくさん収められている『古今和歌集』などを見ても、幸せだー!!という直接的な歌はありません。
幸せの絶頂、でもこの幸せもいつかは…と必ず陰りを含んで詠むかんじです。

その点において、これらの公任の歌も、「月の光のように澄んではいない(達観しきれない)自分」「あるかなきかの身」「露けき袖(泣いていることを示す表現)」「あともさだめぬまぼろしの身」…という、はかない自らを詠む歌が連なります。
仮託するものの素敵さとあいまって、美しい響きとなっています。

これらの先に、1000年後、『舞いあがれ』でも着目された短歌の世界があると思うと、やっぱり和歌って短歌ってエモいなと思うのでした。

思うのですが…
和歌、難しすぎる!
特に平安時代の和歌は掛詞縁語など、かなり技巧的になっているので、一筋縄では全然訳せません…。
今までで一番時間がかかって書いたうえに、ちょっとこれはあとで直すところが出てくるかもしれません。
そういうものをさらさらとしていた、あるいはしなくてはいけなかった平安の人々、なかなか大変そうです…。









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