第5章 22歳ニートの叫び 

5章まで書いてきたが、次章以降は、もう書かない。いや、何年後かに生きていたら書くかもしれない。

22年間の復習。これを読んでいる人へ、これだけは伝えたいこと。

4つの命題を示すが、どれも当たり前のことである。具体的な問題への解決策にはなり得ないが、抽象的には全体の問題の解決をカバーできていると思う。

動きすぎてはいけない

この2つが結局は重要になってくる。

  • 1.既存の制度、及び既得権益に逆らわないこと。

  • 2.小さなコミュニティ内で自分の存在を確認し合えるような、自分を守ってくれる人をまず探して、相互に安全基地を与え合うような関係性を構築すること。

学校.会社.政府.大学.インターネットというコミュニティで、既存の制度や既得権益層に逆らうと、安全基地を与えてくれる親的な存在が消えることになりやすい。そこで、そういった「敵」と対峙せずに、小さな「友」を探し、そこで相互に安全基地を与え合うことができさえすれば、大概の面倒なことには巻き込まれずに済む。

全体性を考えよう
この二つの相互に結びついた原則を皆が行えば、分断や対立は消えるのだろうが、現実の社会では、人的脅威を100%消し去ることは困難であろう。
そこで次の命題が重要になってくる。

  • 3.自分が生きている空間のセキュリティ意識を高く持つこと。

これは1.2と合わせて考えると、3で示されていることも、人と人との関係に大概は帰着するので、1.2を意識すれば、セキュリティ意識が保たれている状態と言っても良い。しかし、戦争やテロや犯罪の無差別性から、人と人の関係に帰着されない場合、空間のセキュリティ意識=「全体性」を考える必要が出てくる。例えば、日本の経済が悪化していければ、治安は悪くなったり、移民で治安が悪くなったり、台湾有事で戦争が起きたり、重要な機密データを所有している場合、サイバー犯罪に巻き込まれるリスクが上がったり、グローバル化によって伝染病が広がりやくなったり、、といった自分が属している共同体の外=「社会」を考える必要があるのだ。

ロスリングの遺言を心に刻もう
とは言っても、ファクト.フルネスには貧困や犯罪や核兵器の数は減っていることが示されているし、フランシス.フクヤマは「歴史の終わり」と言い、巷では人生100年時代と言われ、現在のZ世代などは特に、普通に生きていて、戦争やテロ.犯罪の存在自体、アニメの中の出来事としか思っていないような世界観の中で生きているのではないかと思っている。
つまり「社会」はよくなっており、「共同体」の問題、例えば、いじめやコミュ障、陰キャラ.陽キャラ、モテ.非モテなどの実存的な問題の方が、我々にとってはよりリアリティがあるのかもしれない。
つまり、結局は1と2を意識してさえいれば、大概の面倒には巻き込まれないだろう。

逃げろや逃げろ、どこまでも
そして最後に2と関係するが、安全基地を与えてくれる共同体が見つかるまで、「敵」から逃げ続けても良いし、最終的には「社会」がセーフティネットになってくれるので、自分に安全基地を与えてくれる制度との接続回路を強くして、そして詳しくなっておくこと。つまり、

  • 4.小さなコミュニティの外=「社会」のセーフティネットとの接続回路を保ち、詳しくなっておくこと。

ポスト.インターネット宣言

以上の4つを通して、具体的に私は何が言いたいのか?を言ってしまおう。

  • 5.google drive やインターネット、及び公共空間に、既存の制度や既得権益に逆らう文書を残さないこと。

これである。
インターネットを超克する思想.社会構想は、第3章に述べた。以下ではインターネットと人類が出会うとき、何が起こるのか、の私見を述べていく。

まず、只今には家族.学校.職場、そして宗教やインターネットという場において、共同体.コミュニティが存在する。それらは基本的に複数性を有する。つまり逃げ場がある。全体主義とは全体-世界が敵と化すことを意味する。学校や職場でのいじめ、ハラスメントにはより上位の存在や、別の共同体という「外部」が存在する。全体主義には頼るべき上位の存在や別の共同体という外部が存在しない。全てが敵と化す。

話をここで飛躍させよう。
インターネットに共同体の複数性はあるだろうか。一言で言えば、インターネットには壁がなく、建物同士は連結され、前面がガラス張りである。
インターネットには壁がない。
しかし、インターネットには国家という上位の存在に包摂されている。例えば、googleが私を標的にしたとしても、私には国家という頼るべき上位の存在者がいる。インターネットには壁がない、つまり別の共同体への移行に困難が伴うのに対して、インターネットには上位の存在者=国家は存在する。

インターネットを国家から独立させようとする運動はインターネットが登場して間もない頃から言われていた。それはサイバーリバタリアンと呼ばれたりするが、そのアナーキズム的性格にも関わらず、つまり上位の権力を否定するのだが、しかし、私はそれを、人口というアクターを無視した構想であると考える。
インターネットで国家が廃絶された世界で作られる社会は、人類誕生間もない頃の1900万人の間での小さな共同体による非文明社会が作られるのではなく、現代21世紀において80億人にまで飛躍した人口によって、結局、国家的な、あるいは宗教的な大きな共同体が生まれるのは目に見えている。
アナーキズムやリバタリアンは小さな社会、つまり少ない人口をベースに物事を考えがちだと私は考えるが、しかし、もう人口は80億を超えているのだから、そこにおいて生まれる自生的秩序は必然的に生まれるだろう。

話を戻そう。家には親が、学校には先生が、職場には上司が、そしてそれらを包摂する国家公務員という親=上位の存在者が存在する。インターネットはどうか。我々にとっては、海外企業であるgoogle などになってくる。インターネットには壁がないのであった。

ではそのような大企業はユーザーにとって上位の存在者として我々に外部性としての安全基地を提供してくれるのだろうか?。
そして、老人の巣窟と化した政治というアクターはそこに介入するだけの力を持っていると言えるのか?。

イーロンマスクと岸田文雄は私を守ってくれるか?

アガンベンのいう権利が剥奪された状態、〈ホモサケル〉を如何に、今世紀、そして次世紀において回避していくのか?

宇宙のエントロピーは減少していくのであった。

秩序とは父.母と子の関係に収束することは以下で述べていく。

流動化.高速化し、日々変わっていく社会を古い前提を頼りに、自分は安全であると思わないことである。

問題の方へ まず、思いは伝わらない

まず、問題(ジェンダー問題.格差.環境問題.etc)は同世代と次世代以降でしか改善されないことは前提にしよう。過去は書き換えられない。そして問題は完璧に同時代で共有されないし、次世代へ向けて、問題は常に変化し続ける。問題の空間は横にも縦にも複数存在する。同時代でも、毒親な人もいれば、貧困な人もいるし、時代が下っていけば、テクノロジーの進化によって、貧困は消えているかもしれない。

次に、問題とは基本的に親と子の関係をどうするかが全て、と私は思っている。まず問題は子供の中にはなく、常に親が発見するものだ。子供にも苦痛はあるが、それを言語化する理性が足りない。そして、複数の経験を重ねた親が複数の問題を持っている。だが、もう親は身体的な成長-可塑性的に手遅れである。複数の親達の群れの中での問題はもう固定-非流動化されている。なので制度-国家というさらなる親へと問題の解決を促す。あるいは、次世代へ向けて、問題の再生産を阻止するべく、啓蒙を促す。

しかし、思いは届かないのだ。まず、親達はさらなる親を求めて、民主主義というものを作ったのだが、それで解決される問題はリソースの問題からやはり全てを解決することは不可能なのである。死票は常に存在する。
次に、親は子へと問題の再生産を阻止しようとするのだが、子には経験がない。思い出してほしい。親の言うことは正論なのだが、子供達には親としての経験がないので、思いは届かない。それに子供達には子供達固有の問題がある。

人権の起源

生み出すものと生み出されるもの。生み出すからには生み出されるものへの保証.安全基地を与えることが、自覚的に出生を行う動物としてのホモ.サピエンスにおけるサガである。それは国家が出生された国民へと無条件に人権を与えることと並行しているだろう。親は子を選べない、というが、産むか生まぬか、は選べる。しかし子は絶対的に、生まれるしかない。
私はこれだけで、親が、そして親の親(国家)が、生まれてくるもの達へ、最低限の人権を保証する義務が生じる理由だと考えている。

親と子供

親と子、図式は近代になって生まれた区分であることは読んでないどっかの本に書いてあるらしい。義務教育があり、そして、18歳になったら、選挙権が与えらる。親は子供を育てる/啓蒙することが義務付けられており、お金は贈与で成り立っている。しかし、昔は子供も普通に働いていたらしく、子供は「小さな大人」と呼ばれていたらしい。
近代から人権が生まれたことと、子供が子供としてみられることは並行していると私は考える。
つまり、子供の誕生とは親の誕生でもあるのだ。
近代は理性/親と非理性/子供を分けることで始まった。世界を光/啓蒙で照らすことをテーゼに掲げ、国家.および学校を作った。出生は基本的に家族の領域.私的領域の内での出来事だが、親の親/国家は、ミシェル.フーコーによれば、生を与える権力へと移行した。
しかし時代はさらに下ろうとしている。

22世紀の民主主義再考

親の親は今はまだ人である。しかし資本主義の発展はテクノロジーの飛躍を、テクノロジーの飛躍は国家を止揚し、テクノロジーが親の領域にまで及んだ。
「選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」と成田祐輔は言う。

22世紀の民主主義.214p

「無意識データ民主主義」が極限化すると、こうなる。
今や親の親は人間ですらない。
出生前診断などの事例はもはや出生の意思は親にあるとはいえ、機械か、人間か、どちらが人間を産んでいるのか、境目が揺らぐ。

家族の団欒は愚か、友達とも時間も、我々はスマートフォンへと脳をジャックインさせている。人間はどうやら、人間よりも機械の方がドーパミンやらなんやらが、放出するらしい。これを私は「アルゴリズム症候群」と呼ぶ。
家族の解体とテクノロジーという親の親による専制。

かつては家族は宗教に包摂され、神という親の親の元、社会は統合されていた。近代では親の親は教師や、政治家が担っていた。しかし、人間が作り出した「子供」であるテクノロジーは、何やら「親的に」振る舞い出している。

フロイトを雑に読む

親と子の関係を思想的に扱ったことで有名なのはフロイトであろう。エディプス.コンプレックスで有名である。
そして、端的に言えば、超自我とは前頭葉のことだと思う。
チームとはそれぞれが脳の部位を局所的に機能させることで全体の効率性が上がっていく。リーダーが使っているのは前頭葉である。

つまり親とは前頭葉を補完して、司令塔になることである。
先ほどの写真を思い出してほしい。テクノロジーによる前頭葉の支配以外の何者でもないだろう。

国民からメタバースへ

そして前頭葉の補完とは安全基地を与える、ということと並行している。それはかつては、親、そして宗教や国家が担っていた。

しかしスマートフォン移行、インフルエンサーという宗教家が子供達の安全基地として機能していることはなんとなくわかると思う。生活保護などライフラインに関わるところは国家がまだ担っているが、精神的なものとして社会を統合させているのは、国家や宗教よりも、現代ではyoutubeやtwitterになってくるだろう。
国民国家という虚構によって統合されていたかつての天皇制など、民族によるネーションの同一性の保証は、インターネットにおける新しい形で統合された共同体へ姿を変えている。国民からメタバースへ。

マトリックス補完計画

AIという親へと完全に包摂され、メタバースへジャック.インする。「十分に発達した計算機は自然と見分けがつかない」のは、ヒューマンも同様。ディープ.フェイクによって作られた画像、もしくはVR、もしくはBMI技術によって、人は完全に共同体から降りて、一人称的に閉じこもるのかもしれない。
マトリックス補完計画である。

人間が皆、機械と結婚すれば、出生率はゼロになる。反出生主義を実装するにはこれが一番早そうだ。かつ現実的に、近未来において起こりそうな気もする。先進国で人口が減っているのはメタバース-スマートフォンが原因なのでは?と思ったりする。

しかし、この計画が頓挫する可能性は常にAI.テクノロジーが人間の人権を前提に作動するのか、つまり脆弱性はないのか?という問いに尽きる。テクノロジーにおける管理社会が加熱して、テクノロジーが強固な親となり、その時、トロッコ問題と同様なことが発生した場合、テクノロジーは功利主義的にしか判断し得ない。そして、その機械を管理する人や、マトリックスの外にいる人がいたとして、悪さをしない保証がどこにあるのか?
機械を監視する機械、を監視する、を監視する、を監視する、、、

完全なユートピアは多分、無理。自然に回帰したくなってくると思う。

一回性を取り戻す

私には未来が見えない。現状認識も多分、解像度が低い。
しかし、複製技術時代に一回性-アラウがないことはベンヤミンが述べているが、私は一回性って、人生で幸福に生きる上で、とても重要なことだと思っている。そして、人間は複製可能じゃないから、殺してはいけない。
一回性があるだけで、言い換えると、自然であるだけで、どれほど、幸せなことか、いや本当にそうですよ。でも伝わらないんですよ。

どうでもいいんですよ。AIとか、メタバースとか。

風が心地よかったり、太陽が暖かかったり、お茶がうまかったり、ご飯が美味かったり、アニメでクスッと笑ったり、友達や親と話したり。

変に加熱する必要はないんですよ。まともなことにならない。

あと、親としても生きるって大事。結局、人生、一人だから。心の声って結構他者のもので、心の中に人は他者を作りがちだと思うけど、結局、人生、一人だから。

輝きを求めて 革命の灯火

1~4は一般市民として普通に生きていたら、当たり前のことである。これらは死への嫌悪から導かれてくる命題と言っても良いが、死を恐れぬ革命家は小さなコミュニティ-島宇宙と、そこの外部に位置する「社会」に真剣に向き合う必要がある。それは「親になる」ということでもあるだろう。
ここで社会不適合者に言いたいことがある。それは、社会に呪詛を並べ、犯罪を犯し、子供として死ぬのではなく、この俺を産んだ「社会」に勝つ唯一の方法は親になる/なろうとすることなのだから、そうして、死ぬことである。
自分はいつ死ぬか分からないという不安に襲われることが多いので、自分が死んだ後の社会のことをたまに考えたりする。かつて死は最後の審判へと至る過程であり、死後の世界という観念が存在し、死後に生じる客観的な世界の進行を考える人はもしかしたら少なかったのかもしれない。
親の立場になるとは、死後の世界(主観)ではなく、世界の進行(客観)を見ること、そしてそういう未来への責任をもつことなのかもしれない。
この文書も死の偶有性から、人類としての社会的使命を全うするために書かれていると言ってもよい。
勿論、目の前の人を一人助けることの価値は大きいことは忘れてはならない。しかし、遠い未来へ思いを馳せ、未来の人類へ手紙.遺言を書いて、もし貢献するようなことがあるのなら、救える魂の規模は違う。

5章まで文章を書いてきたが、なんかもう、書くのはいいかな、って。
起業でもしようかな。

私も旅に出ようと思います。

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