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この空間のつくり方を忘れてしまわぬように

今週は自分が関わっている企画が連続的にありました。

勉強会、哲学対話、読書会 という3つでした。

すべての共通点は自分1人ではなく、参加者がいることです。


めちゃくちゃ当たり前のことをそれっぽく書いただけですけど笑

でも、立て続けに企画があったことで、改めて他者の意見や気持ちを聴きながら自分自身でも考えて、それを言葉にして、そしてまた他者の言葉を聴いて…という営みの連続から、”場”をつくることの難しさと面白さを感じました。

場として、空間として、そこになにかが立ち現れてくるということは、当然のことながら私と誰かという二者が最低限いなければならないはずです。

もちろん、これを書いている私1人がいるこの場(部屋)は空間であって、ここにあることは確かな事実です。でも、それはただの事実であって物質的なただの場であり、空間です。

やはり、人と人とが交わり、インタラクティブな関係によって現れる空間は、物質的なただの事実としての場とはちがって目には見えないが、温度や匂い、質量をもつだと私は感じます。


ただそこにある(Be)場や空間 と つくる(Doing)ことによって生まれる場や空間 この2つはちがいます。

もちろん、物質的に場がないと始まりません。なにもないところで哲学対話、読書会をやるわけにいかないので。というより、やっていい場がなければできないので

じゃあ、できる場があったとしてそこで哲学対話、読書会という空間をどうつくるか?

言い換えれば、空間としての温度や匂い、質量をどうやってもたせていくか?

そのためには、そこで一人ひとりから紡がれる言葉やストーリーを大切にしていくことが必要なんだろうと思います。

「大切にする」ということは自分自身では難しいです。そもそも言葉にできないこともあります。だから、だれかが必要でだれかがいないと空間はつくれない。

一人ひとりから紡がれる言葉やストーリーを大切にし合っていく。それは互いに聴いて、自分の考えを言葉にし合って、また聴いてという連続の中でしか成り立たないと思います。


だから、私はだれがいるのかわからないSNS上やだれかの意見や気持ちが見落とされ、それを見て見ぬふりをしているのは、そもそも場や空間をつくろうとしていないんじゃないかと思っています。

どこか今の社会は”つくること”をめんどくさがっているような気がしています。

私自身も今週の連続した企画をやる中で、めんどくさいな、難しいな、うまくいかないなとやっぱり思いました。

それでも

一人ひとりから紡がれる言葉やストーリーを大切にし合っていく。それは互いに聴いて、自分の考えを言葉にし合って、また聴いて・・・

それをつづけて空間をつくることをしないと、いつかつくり方を忘れてしまうかもしれないです。


きっと空間のつくり方を忘れてしまったら、多様性のある社会は消えてしまうかもしれないので、これからもつづけていこうかなと思います。


今回もお読みいただきありがとうございました。

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