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推し、好きな人、次元について。

私にはこれといって恋愛経験というものはないのだけれど、現実に「好き」と思っていた人は二人ほどいる。
それとは別に、好きなキャラはずっといる。その時々で変わるけれど、好きなキャラクターや、いわゆる推しのいなかった時期はない。ただ、二次元に限ってである。

ここでひとつ思うのが、実際に親しくなれないならば、相手が二次元だろうと三次元だろうと同じではないか、ということだ。

会えない、好きだという本音を伝えられない、私たちの関係が変わることはない。
ようは叶わないということ。
それは二次元への想いでも三次元への想いでも、変わらないことだと思う。

叶う可能性が見えないのならば、フィクションも現実も同じ。
もっと言ってしまえば、叶わないのに想いを寄せ続けるのは、相手を自分の想像の形にしてしまうということ。
本物の相手ではなく、自分の想像した相手の姿を追うことになる。
想像の姿ということは、変わらないものということだ。それは時の流れに左右されない存在になる。
つまり、相手をフィクションの存在にしてしまうということではないか。

人間が生きていれば、その日の感情や体調がある。相手にも生活がある。当然、他者には分からない考えや悩みや感情を持って「生きて」いる。

分かりえない部分を排除して、盲目的に愛する、恋する、というのならば、それは相手が生きた人間であってもフィクションに恋するのと同じであろう。
例えるならば、アイドルの「恋愛禁止」だとか、「トイレに行かない」だとかいうことだろう。
アイドル、偶像、ということだ。
彼、彼女たちは、生きながらフィクションにされた存在であろう。

しかし、好きな人が二次元の存在であった場合。
その相手にも見えない生活があって、見えない悩みがあって、日々を生きていると考えるならば。
自分のような他人には理解できないものを抱えて生きていると捉えるならば、それは現実の人間を慕うことと同じではなかろうか。

だから私は、二次元の存在を慕うときは、人間のように捉えるようにしている。フィクションだからといって、私の思うような人間でない可能性も常に考えるように意識している。私のような経験の浅い人間に理解できる程、薄い人間ではないと思うからこそ、そう考える。

…とはいえ、フィクションなのだから変わらないでいてほしいと思う。そう思わないと言えば嘘になる。
私の知るあなたでいてほしい。私の知らない一面なんていらない。私だけが、あなたの全てを知っていたい。
そうは思うけれど。
でも、それでは平等ではないから。私は人間だから。生きながら、変わる存在だから。
現実をリアルタイムに生きている私には、自分の全てを打ち明けることなどできない。たとえ相手がフィクションの存在であっても。
そんな私が、私だけが、彼の全てを知ることができるなんて、ズルいから。
だから私はフィクションの彼にも、分からない部分があると思いたい。

これは二次元と三次元の間のことではあるが、今は亡き人への想いでも同じことが言えるように思う。

昔に生きた人、今はもう亡き人の生活など、私には分からない。それでも作品を通してその人が生きていたことは知ることができるし、考えたことも多少は分かる。ただ、本当に考えていたことや感じていたことは、本人の言葉が聞けない私たちには分からない。分からないなら、本当の言葉が聞けないのならば、フィクションと同じと思える。

長々と語ったけれど、私が言いたかったのは、現実とフィクションと、どちらが大切なのだろうかということだと思う。たぶんだけど。

基本的には片足をフィクションの沼に突っ込んだまま生きている人間だし、その足を沼から引き抜いたら生きていけない気がするから。
きっと、フィクションのほうが大切なのだろうな。

彼らが私にとって如何に重要か、大切か。
それを語るのはまたの機会にしようと思う。

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