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求められて生きるということ。

宗教に厳しい世の中なのは分かっていますが。
特定の宗教がどうという話ではありませんので。


自殺は悪いことだ、と言われているが、その理由を納得できるように説明してくれるものなどないとは思う。
しかし、個人的には、「神が生きろと言って与えた命を人間が勝手に絶ってはいけないから」というのが、いちばん納得できた。
これはキリスト教の考え方である。
(この世には他にも宗教があり、このひとつが正解だとか全てだと言えないのは分かっているし、あくまで考え方のひとつとして語りたい。)

命を与えたのは神で、その生き物に死を与えるのも神だけである。
つまり、自殺は神への冒涜であるとするのである。
自殺は文字通り、己を殺すことだから、殺人と同じとも考えられる。
どちらにせよ、なのだ。

人間が勝手に死ぬな、というのは、生かされている状況を受け入れろ、ということだと思う。

神は無理難題を平気な顔で要求してくる。
人間はそれを受け入れて、実現させようとしながら生きていく。

神は人間に、正しい道を歩むために苦しむことを求めているのだ。
まるで主従関係、SMのようである
…と解釈するのは飛躍し過ぎかもしれないが、私にはそう思える。
そう考えると、ちょっと楽しくなってくる。
つまらない、辛い日常も、そうやって
何者かに生きることを要求されているから生きる
と思うと、納得できる気がするのだ。

…それは、マゾヒスティックな依存なのかもしれない。健全ではないのだろう。
しかし、人間とはマゾヒスティックに生きることを望む生き物なのかもしれないと思うことすらある。
少なくとも私は、何かに己を捧げたい、誰か何かに応えたいと思って生きているから。


自分のような人間が、どうして生きているのか。
それは、人間にはどうしようもない存在が命を与えたから。そして、生きろと命じたから。


誰のために生きるでもない。
何のために生きるでもない。
ただ生きていることを求められている。
それはつまり、生きているだけで、要求のひとつを達成したことになるのではないか。
誰かの要求に答えたと言えるのではないか。

つい、どうして生きるのか、生きていくのか疑問に思ってしまう。
答えなどないのは分かっているが、誰かにそう望まれていると考えたら、生きていくのも良いかもしれないと思える。
それも、人間の欲などではない、もっと大きな存在に求められていると思うから納得できる。
何も返してくれない、欲でしか繋がらない人間の期待など、私は信じられないから。
それなら、見えなくても人間以外のものを信じたい。

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