解釈魔の素人演出手帖(2)ー2 黄昏のボードレール
今回は「解釈」でもボードレールの詩をどう訳すか、の話が中心なので、大学の仏文科、それも19世紀の詩に興味を持つ学生諸氏にしか読んでもらえないかな、と思います。noteにそう都合よく仏文の学生が記事を探しに来ているということもないだろうから、読まれない、読んでも途中で投げ出される可能性大とは見ています。でもここで取り上げる「Harmonie du Soir(黄昏のハーモニー)」には読むものを「解釈」に引き込まずにはいられなくさせる魅力があるように思えます。
この詩は10代のころ(当時は永井荷風の訳詩集「珊瑚集」から)から好きで、大げさに言えば大学で仏文に進むきっかけの一つだったと言えるでしょう。3年時の詩の授業では都合よくボードレールが課題で、試験問題で「以下の詩のどれかを選んで解釈せよ」の中にこれが出てきたときは「lucky!」と欣喜雀躍いたしました。「解釈」の内容は、詩の中の動詞を前から後ろに並べて、「揺らぐ」ものから「静止」に向かい、カトリックの儀式(おそらくは葬式)のアイテムも交えて最後に完全に止まるのは、死に向かう人間の心の動きを映したものではないか、というものでした。当時の年齢相応に幼稚ですが、Aをもらったのはちょっと自慢だった。
さて、この詩もドビュッシーが「ボードレールの五つの詩による歌曲」の2番目として曲をつけています。音域はそれほど広くないので、音はとってみましたが、一行分のフレーズが終わるまで滑らかに音をつなげ、息継ぎをしてはいけないのでかなり辛い曲です。伴奏の独立性の高さはドビュッシーの歌曲の特徴ながら、この曲は特に入りにくい。もし入れても「伴奏」を聞かずに最後まで音符通りに歌いとおす力量がないとできない曲だ、と思いつつ、毎日未練がましく楽譜とにらめっこしております。
以下、原文、訳詞(前回と同じく「歌詞」として日本語に引き付けて訳しました)ー解釈ーを記載します。
-一行目で躓きがちなのが、中間の「où、英語のwhen」を見落として「ゆれる」のが次の行の花々ではなく時と見てしまうこと。現代詩なら、関係代名詞のoùを次の行の冒頭に、現在分詞(英語の動名詞)のvibrantをfleurの次に持ってきて、文法関係を明確にすることも出来そう。が、19世紀にはまだ詩と言えば、一行の音節が決まっていて、韻を踏まねばならないと決まっていたから、その都合で語順や分の区切りがずれる場合も。フランス語の伝統的な詩形では、偶数行で語末は子音と「e(言語学用語でシュワーと呼ばれる唇に力を入れずにだらりと出す母音。日本語で言うと、生返事の「う」のような「ウ」と「エ」と「ア」が混じったような音といえばよいか)」が半々になる。この詩では、連ごとに「e-r-r-e」と「r-e-e-r」が交互に現れる。前の連の行が二行づつ新しい行に挟まれて現れる詩形はかなり珍しい。が、暮れそうで暮れない、と思っているうちにいつの間にか闇が空を侵食していく雰囲気にはよく合っている、と思う。
筆者のイメージでは、この連の光景はモノクロで、花は↓のような感じ。「音」は微風が引き起こす葉擦れと考えられる。香炉と花を関連づけるのはよくありそうだけれど、立ち上る香りが軽やかに空を舞う一方で、(現代風に言えば)車酔いの頭痛に似た重苦しい気分をかき立てる。―
-2行目。原文どおりの「ヴィオロン」はちょっと思わせぶりに過ぎるか。この行は直訳すると「ヴァイオリンは戦慄する心のように震える」。「トリル」も訳しすぎ、かもしれないが、このあたり、曲のフレーズに拍を合わせる都合で、と言い訳しておこう。
4行目。「空は悲しく美しく」は、黄昏時の気分としてそうだよなあ、と同感するが、そこに「祭壇」が出てくるのは非キリスト教徒にはよく分からない組み合わせ。地上はかなり暗く、野の色合いはモノクロなのに、空を見上げると横一直線にたなびく雲がまだ薄く金色に光っている様子を示しているのだろうか?
唐突ながら、見上げた空の広さ、というところから、筆者はシューベルトの「小川の子守歌」という歌曲の最後を連想する。水死した若者を水底で眠らせる小川の歌、という設定で、川面に映る夜空が何と広いことか、という詠嘆で終わる(「小川の子守歌」については、一年ほど前、「狼疾の子守歌」と言う記事にしてみた。が、内容があまりヲタク過ぎたようで、読まれない筆者の記事の中でも閲覧数は最低記録)。-
―2行目。「tendre、英語のtender」は「広く暗い無」、有体に言えば夜を怖がっている、というところから、人に対しての「優しさ」よりは「繊細さ」、踏み込んで言えば「柔弱」と言いたいのだが、これも曲のリズムにはのらなかった。「やさしい」であれば「い」を一音節にとらず、「やさし」と発音すればなんとか。「華奢な」でもよいかな、と思わぬでもないか、この語では壊れやすさや傷つきやすさはともかく、「柔らかさ」は表現できないように思う。
4行目。太陽は「溺れた」。ここは英語で言うと「has sunk」で、既にその姿は見えなくなっている。闇が迫る空に「祭壇」のような鈍く光る雲、が今現在の空の様子なのだけれど、ほんの少し前には、血の色の夕焼けにゆっくりと陽が沈む様子が見られた。このフラッシュバック?で見せるところが心憎い!-
―ここは最終行が難関。「Ton souvenir」というのは英語にすると「your memory」だから、「思い出」は「君」のものであって、「君に関する」自分の思い出、ではない。でもそれは「私の中に(en moi、英語で言えばin(the heart of)mine)」ある?このあたり、幾つかの既訳を参照してみたがはっきりしない。日本語にすると、「思い出」が「君が持つ」ものでも「君に関する私の」ものであっても、「君の」で間に合うから、あまり深入りして考えなくても、とも思われるけれど。
一つ考えられるのは、この「souvenir」は自分のものだけれど、「心の動き」ではなく、「思い出の(品)」のように「モノ」化して捉えられている、ということだろうか。例えば、「dessiner ton portrait、英語で言えばdraw your portrait」が「君の肖像を描く」であるように、この「souvenir」は「君を映した(自分の中の)思い出」である、と。
もう一つ、キリスト教徒でないと分からない単語「ostensoir」。これはカトリック教会の儀式で聖体拝受をするときに掲げられる器具で、日本語では「聖体顕示台」が定訳。形は↓のようなものらしい。厳かでかつ輝かしく、「君」を自分の中で聖なる光として保っていたい、という想いを明確に示してくれるのだけれど、「歌の文句」には乗らず、涙を呑む気持ちで切った。
この連の中で、夕闇はますます濃く、残照もすでに名残を残すのみ。心はそれでもわずかな光を追い求め、そこに昼の明るさを想起しようとする。その回想が、「君の思い出」を呼び覚まし、身も心も夕闇に沈んでもなおいつまでも残る光明として定着させる。若年の私は、ここで臨終の人間が最後に見るという光を想起した。トシ食った今では、そこまで言うのはちょっとロマンティックな思い入れが過ぎないか?と茶々を入れたくなる。でも臨死体験談ではよくこういうイメージが出てあちら側に行こうとすると引き戻される、という話が出てくる。脳が酸欠に陥りそうなとき、花や光のようなイメージが浮かぶ、というのは実際にあることらしいから、「残照の最後の光」と「臨終の目に映る幻光」を重ねる解釈はありかな?―
「ボードレールの詩による5つの歌曲」の生演奏を聴く機会はこの先もおそらくないだろう、と思いますが、Youtubeで公開されている演奏がありました。フランスのラジオ局のライブ録画で、「黄昏のハーモニー」を含む4曲が収録されています。歌い手が英国のテナー歌手Bostridgeで、「低音部体型の高音部」(これも前に書いた記事)代表というところ。筆者にとっては「一度聴き始めると止まらず他のことをすべて忘れてしまう」セイレーン*声なので、時間に余裕がない時は不用意に聴かないように心がけております。筆者には、米津玄師も「低音部体型の…」セイレーンですが、彼の曲はTVや商店のBGMで勝手に耳に入れてもらえるので、ある程度免疫はできている。でもまだアルバムは怖くて買えない…
*英語「Siren」(サイレン)の語源。古代ギリシャの物語「オデュッセイア」で、エーゲ海のある島に住む半人半鳥の怪物の名。航行中の船の漕ぎ手がその歌を聴くとその美しさに手が止まり、船が岩にぶつかって砕け散るまで気づかないという。
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