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189. いのちは「砂時計」みたいだと気づいた話

「限りある時間」を表現する意味で、砂時計の絵を描きました。

その直後に、山田太郎さんの『人生は「砂時計」』の図解に出会い、釘付けになりました。

「人生って、『あとどれくらい砂があるのかわからない砂時計』みたいだな」と感じたのでそれを図解にしたものです。

山田太郎さんのnoteより

「目の前のできごと」という落ちる砂を見つめているのが現在、それがたまっているのが過去。未来という砂がどれだけあるかは、わかりそうでわからない。

落ちる砂を見つめるように、目の前のできごとと相対して生きていきたい。

山田太郎さんのnoteより

なるほど、と思いました。

終わりのない「人生」はないから
たしかに「人生」は砂時計のようなものだと思いました。

この図解が頭から離れず、さまざまな考えが浮かびました



娘たちが虫が大嫌いで
家の中に入ってしまったハエを
ハエたたきをもって追いかける。

でも、ハエは逃げ回って退治できない。

困った顔をしている娘たちに
こんな話をしたことを思い出しました。

どんな生き物だって、生まれた瞬間から生きるために必死なんだよ。
ハエだって必死に生きているんだね。

でもね、どんな生き物も必ずいつか死んでしまうんだよ。
ずっと生きていられる生き物はいないんだよ。


どんな生き物の一生にも限りがある。
いのちは「砂時計」みたいだと思いました。


ただ、日々の生活を思い返すと、

「人生」は砂時計であるという実感がない

自分に気がつきました。


1日24時間とか、幼稚園の保育時間とか、
そういう短い単位での「限りある時間」としての「砂時計」は
日々実感しています。

毎日noteを更新したくて
子どもが寝静まった後にかいているので、
毎晩「残りの砂」の量を意識しています。

ただ、「人生」という長いスパンで
砂時計であるという実感していない自分に気が付きました。

もっと歳をとったら、
自分の老いや病を感じたら、
「余命が○○年」とか宣告されたら、
「人生」は砂時計みたいだと実感するのかもしれません。

もっと「いまを生きる」ために、この図解が役に立つと思った

この図解に出会わせてもらったことで、
言葉だけでイメージするよりも
「人生は砂時計である」ということを
より具体的にイメージできていることに気づきました。

いのちは「砂時計」みたいだ。どんな「いのち」にも終わりがあるから。

「いまを生きる」ために
未来でもなく過去でもなく
いちばん大切な「いま」を意識するために
「1日=24時間」というスパンだけでなく、
「一生=人生」としての砂時計というイメージをもちたいと思いました。

そのために、自分でも図解をしてみました。

未来という砂がどれだけ残されているかは分からない

『「人生」は砂時計』であるという図解は、
人生には終わりがあるということに加え、
残りの人生がどれだけかは誰にも分からないことを
改めて私に教えてくれました。

未来という砂はどれだけ残されているかは分からない。
そのことに、怖さや切なさを感じてしまいます。

未来という砂がどれだけ残されているかは誰にも分からない


大切な人にはずっとずっと生きていてほしいと思うし、
大切な人をずっと守っていきたいし、
自分のやりたいこともたくさんあるからです。

でも、未来という砂に限りがあるからこそ、
「いま」を大切にできる、
「いま」を大切にしようと思えるのだと思います。

最後に

『「人生」は砂時計』であるという図解を目にしてから、
いろんな考えが頭の中で浮かび、こんがらがっていました。

文章や図をかきながら、
思考の整理がしたかったんだと気づきました。

整理できたかは分かりませんが、
いまこの瞬間に落ちる砂を少し繋ぎとめることができたのかな
と思いました。

何もしなければ、ただただ今という砂は落ちて消えていってしまうような気がするからです。



図解noteを通して貴重な気づきをくださった山田太郎さん、
本当にありがとうございました。

読んで下さるあなたがいるから、今日もnoteが書けています。 またお時間のあるときに見に来てくださると嬉しいです。