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逃げてはいけないという呪い

早期退職するにあたって、参考にした本が2冊ある。

『魂の退社』稲垣えみ子著(2016年 東洋経済新聞社)と『幸福な退職―「その日」に向けた気持ちいい仕事術―』スージー鈴木著(2023年 新潮新書)である。

稲垣氏の『魂の退社』は、私の退職したいというはやる気持ちを一旦収めてくれた。退社後に自分に起こることがリアルに想像され、自分の覚悟や退職後の生活の試算等の甘さを痛感させてくれた。結果的にこれを読んだ年は、退職の申し出を見送ることとした。スージー鈴木氏の著作もやはり自分にブレーキをかけた。本当にいいのか、よく考えたのかと。ただ、『魂の退社』でいったんは思いとどまったのち、またこの『幸福な退職』を手にとるあたり、もはや私の心は大きく退職に傾いていたのだろう。『幸福な退職』を手にした3ヶ月後、私は校長に退職を申し入れていた。

他の県のことはわからないが、私の勤めていた県では退職の申し出は9月初めであった。4月に新学期が始まり、怒涛のように日々を過ごし、ふと気がつけば7月の後半となり、学校はようやく夏休みを迎える。
夏休みって先生も休みなの?と幾度となく聴かれてきたが、そんなことはない。地方の公立高校、特に進学校では夏期講習が全生徒を対象に行われる。夏休みとは名ばかりで7月中はほとんどの生徒が登校する。7月の末から8月にかけては全国大会。私も、とある文化部の顧問としてこの全国大会にほぼ毎年参加していた。そのほかに、各種研修や会議、大学入試問題の研修会や、夏休み明けのテストの検討会など普段できないことがぎゅうぎゅう詰め込まれる。そして山の日を境に学校の会議はなくなり、夏季休暇をとりやすい時期が来る。6日間の夏季休暇が与えられ、このあたりで何日か消化する教員が多い。全国的にはどうなのか知らないが、私の県ではお盆が明けたら学校が再開する。8月末には学園祭が待っている。自分のことなど考える暇などないままに9月がやってくるのだった。

しかし、去年の夏はいつもと違った。東京での全国大会を終えた私は、コロナをもらってきていたのである。高熱を出し一週間寝込んだ。後半の3日間くらいはただただだるかった。熱は下がったもののベッドに体が張り付いて、天井ばかり見つめて過ごした。退職について考えていたわけではない。たぶん何も考えていなかったはずだ。それなのに、コロナから回復した後の私は、つきものが落ちたように退職の覚悟が定まっていたのである。

校長に退職の意向を伝え、離れて暮らす子どもたちにも連絡した。のちに息子が、「祖父母宅の畑の管理とかやめられないの?自分の抱えている荷物の何を下ろすかってことなんだと思うけど」というようなことを言った時には我が子ながら成長したなあと感慨深かった。しかし私が下ろしたい荷物は、実家の畑ではなく、教師という仕事だった。

こうして退職を決めた私は、少しずつ書類をシュレッダーにかけ、心も机上もすっきり軽やかになっていくはずであった。

それなのに、である。

なぜか時折、なんとも重たい気持ちに襲われたのである。
長く学校現場にいた私には、逃げてはいけないという呪いがかけられていたのだった。

学校には、「辞めること」を否定する文化がある。
辞めること=逃げること
これは学校ではあるまじき姿として糾弾される。

例えば、部活動をやめたいと生徒が訴えたとき、辞めることをすぐに認めてもらえることは少ない。それを見越して生徒は「もっと勉強したいんです」などと言う。学校では勉強したいと言えばそれが否定されることはないと知っているからだ。

ここでお決まりのセリフがある。
「部活動を辞めて成績が上がった者はいない。」

実際は、いないことはないのだが、不思議なことにほとんどの教員がこの言葉を放つ。辞め癖がつく、なんて心配をする教員もいる。職を転々とするような人間を育ててはいけないと真剣に考えているのだ。
職員室のどこかからこの会話が聞こえてくるたび、私は心の中で、いつまで同じこと言っているんだか、と心の中で毒づいていた。

ひとつのことをコツコツ続ける。途中で投げ出したりしない。
もちろんそれは美徳だ。

でも、その時々に自分の適性を考えながら、新たな選択をしたっていいじゃないか。私はいつもそう思ってきたはずだった。

それなのに、途中で辞めることを否定する文化が自分の中に根付いていただなんて。
もはやこれは呪いである。

とはいえ、私は無事3月に退職した。こうしてnoteに文章を書いているのは、スージー鈴木氏の本のおかげである。また、退職後の生活の方向性は稲垣えみ子氏の本が大いに参考になっている。

呪いから完全に解き放たれたかはわからない。
ただ、こうして言葉を紡ぎ出しながら、日々暮らしている。



#創作大賞2024 #エッセイ部門

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