さみしさを感じられるようになって久しい 悲しめるようになってまだ日が浅い

あり得たかもしれない人生

「意識的に生きる生」がわたしに見せるものが変わった。
気がつけば、自転車の母子が楽しそうにおしゃべりしている。嫌というほど見てきた、子を、親みずから害う、子どもがきょうだいや友だちを害う「非道劇場」が幕を閉じていた。どうしてこれほど見えるものが変わったのだろう?と思った。
もちろん、非道は散見されるが、見たときの受けとめは変わった。
泣きじゃくり、だっこー!と、やさしくだっこされることを必死で求める幼い人を、心底からうんざりだという目で見つめ、置いてきぼりのふりをして、効果がなければ手荒く引っ立てる──そんなふるまいをする人が、まずはじめに、やさしくだっこされる必要があるんだろうなと、わたしにもある修羅のこころが教えてくれる。
もし、わたしが、うーんとおばあさんだったら、この人のこころを少しでも軽くしてあげられる声かけができるのかもしれない、そんなことを思う。
そして、祈る。

仕事帰りスーパーで、あの日は3歳と5歳くらいの子どもたちが、それは楽しそうにおかし選びをしていて、お父ちゃんが一切急かさず、子どもたちをこれまた楽しそうに見守っている光景に出合った。ガン見しないように少し離れて、しあわせの波紋は届く辺りでわたしは胸震わせていた。
ちっちゃい方の子が、迷うんだ、決めたと思ったら、戻るんだ。3人ともにっこにこなの。
彼らを見ていてしあわせになったわたしは思った。

こんなふうに子どもと生きる人生があったかも知れないんだ✨

いままでわたし、そんなこと考えたことなかった。
子どもを生まなくて本当によかった、救われている。
子どもを生んだら虐待したかもしれない、
虐待して殺したかもしれない、
からだは殺さなくても、その子を破壊し尽くしたかもしれない、
だからよかったんだ、

そう、思ってきた、疑いもなく。
疑いが出た。
そうだろうか?
必ず虐待したなんて、決まってないよ。
ゆたかな──子どもと生きるゆたかな人生を歩んだかも知れないじゃない?

ああ、悲しむことができなくて、合理化して自分の本当のこころが泣き出さないように、合理化して自分を騙していたのか!

悲しめるようになったんだね、わたし。

うちに帰って泣いたら、「あの人は、」が出てきた。



じねん自然  ⒉なんにでも時がある  ⒊見る ということ
⒋あり得たかもしれない人生  ⒌ぞうさん
⒍何度もわたしの前に現れたふたり

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