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『コレクター』:1965、イギリス&アメリカ

 銀行で勤務する青年フレディー・クレッグは内気な性格で、蝶の収集が趣味だった。休日、人里離れた田舎で蝶を捕まえていたフレディーは、売りに出ている屋敷を発見した。地下室も付いていることを確認し、彼は計画を実行しようと考えた。
 フレディーは屋敷を購入し、調度品を揃えた。最近、彼はサッカーくじで大金を手にしていたので、購入資金は充分にあった。

 フレディーには、目を付けている女性がいた。美術学校に通う女学生ミランダだ。フレディーはミランダを尾行し、パブで男と話す様子を近くから凝視した。
 ミランダが店を出たので、フレディーは車で先回りした。彼は人のいない場所に停車して、ミランダを待ち受けた。ミランダが通り掛かったので、フレディーは布に染み込ませたクロロホルムを嗅がせて失神させた。

 ミランダが意識を取り戻しすと、そこは見知らぬ部屋だった。ドアには鍵が掛かっており、外に出ることは出来ない。そこはフレディーの屋敷の地下室だった。彼はミランダのために、女性用の調度品を揃えていた。
 ドアが開き、フレディーが食事を持って現れた。フレディーはミランダを愛していることを語り、ここにいて自分を知って欲しいと訴えた。

 もちろん、そんな理不尽な話をミランダが受け入れるはずもない。ミランダは抵抗して逃げようとするが、失敗に終わった。フレディーはミランダに、取引を持ち掛けた。4週間だけ地下室にいてくれたら、それで解放するというのだ。
 ただし、その間は逃亡を図らず、自分と会話を交わしてほしいとフレディーは要求した。ミランダは取引を承諾し、絵画の道具を揃えさせた。

 ミランダが入浴を望んだので、フレディーは両手を縛って地下室から母屋に連れて行った。2階でミランダが入浴している間に、来訪者がやって来た。フレディーはミランダをバスルームのパイプに縛り付け、猿轡をして玄関に赴いた。来訪者は隣に住む老人だった。ミランダは足でバスの蛇口を開き、浴槽の湯を溢れさせた。
 階段から垂れ落ちる湯に老人が気付いたため、フレディーは慌てて浴室に入り、蛇口を閉めて浴槽の栓を抜いた。彼が「恋人が来ている」と説明すると、老人は追及することもなく立ち去った。

 フレディーは蝶の標本を披露し、ミランダは絵を描いた。ミランダの好きな小説『ライ麦畑でつかまえて』やピカソの絵画について、フレディーは激しい態度で否定的な意見を述べた。
 やがて4週間が過ぎ、ミランダは安堵した。しかしフレディーは指輪を差し出し、結婚して欲しいと告げた。ミランダは怯えながら承諾するが、フレディーは納得しなかった。

 フレディーは「僕の勝手だ」と冷徹に告げ、ミランダの監禁を続行した。ミランダは服を脱ぎ、フレディーを誘惑した。フレディーは激怒し、「売女だ」と罵った。母屋から地下室に戻る時、ミランダは隙を見てシャベルを手に取った。彼女はフレディーの頭を殴り付けるが、流れる血を見て激しく動揺した。
 フレディーが車で病院へ向かうのを、ミランダは「死なないで」と本気で心配した。フレディーが治療を終えて戻ると、ミランダは肺炎を患って苦しみながらも、逃げずに待っていた…。

 監督はウィリアム・ワイラー、原作はジョン・ファウルズ、脚本はスタンリー・マン&ジョン・コーン、製作はジャド・キンバーグ&ジョン・コーン、撮影はロバート・クラスカー&ロバート・サーティース、編集はデヴィッド・ホーキンズ&ロバート・スウィンク、美術はジョン・ストール、音楽はモーリス・ジャール。

 出演はテレンス・スタンプ、サマンサ・エッガー、モナ・ウォッシュボーン、モーリス・ダリモア他。

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 ジョン・ファウルズの同名小説を基に、『ローマの休日』『ベン・ハー』の巨匠ウィリアム・ワイラーが監督を務めた心理サスペンス映画。
 フレディーをテレンス・スタンプ、ミランダをサマンサ・エッガーが演じており、映画の大半は2人芝居で演じられる。
 カンヌ国際映画祭の男優賞(テレンス・スタンプ)&女優賞(サマンサ・エッガー)、ゴールデン・グローブ賞ドラマ部門の女優賞(サマンサ・エッガー)を受賞している。

 冒頭、蝶を追い掛けて登場するフレディーは、素朴で純粋な青年のように見える。だが、その後、彼はミランダを拉致監禁し、最後は死に追いやってしまうのだ。
 彼は少しずつ変貌していくのではない。登場した段階で、既にミランダ監禁の計画を企てている。
 では、私が「純粋な青年」という印象を受けたのは、大いなる勘違いだったのか。いや、そうではない。欲望を満たすために真っ直ぐに行動するという意味では、紛れも無くフレディーは純粋なのだ。

 フレディーは、悪意に満ちた犯罪者ではない。悪いことはしていないので、不適な笑みを浮かべるようなことは無い。悪意の不在こそが、彼を犯罪者たらしめ、この映画が醸し出す薄気味悪さに繋がっている。
 彼には、自分が悪いことをしているという意識が無い。愛する女のために部屋を用意し、調度品を揃え、満足な食事を与えている。充分な環境を整え、面倒を見てやっている。それをミランダが受け入れるべきだと、彼は思っている。

 フレディーは、自分がミランダを愛しているのだから、彼女も絶対に分かってくれる、受け入れてくれると信じている。自分が精一杯の誠意を示しているのだから、向こうも自分のことを理解して当然だと思っている。
 なぜミランダが自分の愛を分かってくれないのか、それがフレディーには全く分からない。それが一方的な感情の押し付けだということを、彼は認識していない。

 フレディーの中では、愛と欲が混同されている。彼はミランダを思い通りにしたい、独占したいと考えている。それは欲であって、愛ではない。彼には相手への思いやりなど無い。相手が自分のイメージ通りに動いてくれないと、すぐに怒りの感情を示す。
 フレディーが欲しいのは偶像だ。生の人間を求めていると自分では思っているが、実際には、自分の意のままになる人形を求めている。

 フレディーのイメージは幼稚で薄っぺらいものなので、ミランダが誘惑してくると、怒りでしか対応できない。それはミランダが自分を騙したから怒っているわけではない。想定外のものに対する怯えだ。
 精神的に未成熟な彼にとって、積極的に官能をアピールするミランダは自分のコントロール外にあるものだ。その恐怖は、怒りで誤魔化すしかないのだ。

 フレディーはプライドが高く、常に自分が正しいと思っている。紳士的に振舞っているのに、向こうが抵抗するから荒っぽくせざるを得ない、ミランダがいけないのだと、フレディーは思っている。
 一方で、社会に適応できず他人とのコミュニケーションが下手な自分へのコンプレックスは強いものがある。そのせいで卑屈になり、余計に周囲へ目を向けたり意見を聞き入れたりしようとしなくなる。
 プライドは高いが、彼の持つ自信は脆いものなので、周りを拒絶することで自分を守ろうとする。

 肺炎で苦しむミランダに助けを求められた時、彼は医者を呼びに行く。だが、医者を呼べば、監禁を知られてしまう。そこで彼は医者を呼ばず、薬を貰って地下室に戻る。一応、助ける気はあるのだ。しかし戻ってみると、彼女は死んでいる。
 愛する者の死は、しかし彼を改心させるきっかけにはならない。ミランダの死は彼女自身の責任であり、ミランダのような扱いの難しい女を選んだことが失敗だったとフレディーは考える。
 人が死ぬ程度では、この恐るべき確信犯の正当化を打ち砕くのは無理だったのだ。

(観賞日:2008年10月14日)

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