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『二十四時間の情事』:1959、フランス&日本

 男は女とホテルで抱き合いながら、「君はヒロシマで何も見なかった」と言う。女は「私は全て見た。病院を見た。それは確かよ」と告げ、そこで見たことを詳しく話す。
 彼女が「見ないでいるなんて出来ないわ」と口にすると、男は「君はヒロシマで病院を見なかった。何も見なかった」と否定する。女が「4日も資料館へ行った。人々は写真と模型を眺めていた。平和記念公園は暑かった」と言って見た光景を詳しく説明すると、男は「君はヒロシマで何も見なかった」と告げる。

 「私はヒロシマの運命に泣いた」と女が話すと、男は「君は何に泣いたんだ?」と問い掛ける。「ニュース映像を見た。ヒロシマを前に、忘れないという幻想を抱いた。愛の幻想と同じ。生き残った者も見た。全て知ってる」と女が話すと、男は「君は何も知らない」と告げる。女は「私は毎日、私なりに忘却と戦った」と言い、「貴方はヒロシマにいた?」と尋ねる。男は「いなかった。家族はヒロシマにいた。僕は戦地にいた」と答えた。
 男が「なぜヒロシマへ?」と訊くと、女は「映画に出演してるの」と言う。その前はどこにいたのかと問われ、女は「パリよ。その前はヌヴェール」と告げる。「なせせヒロシマで全てを見たいと?」という男の質問に、女は「興味があった。私なりの考えがある」と答えた。

 翌日、女は男から「フランスで君にとってヒロシマは?」と問われ、「戦争の終わり。完全な終わり。あんなことをして成功して、唖然とした。未知の恐怖の始まりでもある。それに無関心への恐怖」と話す。「君が撮る映画って?」という男の問い掛けには、「平和の映画よ。ヒロシマで撮るなら当然でしょ」と告げる。
 男が「また会いたい」と告げると、女は「明日、この時間にフランスへ発つの」と述べた。「だから昨夜、僕を部屋に入れた?」と男が言うと、女は「違うわ。考えもしなかった」と否定した。

 男が再び「また会いたい」と告げると、女は「ダメ」と穏やかに言う。ホテルを出た女は、ヌヴェールにいた頃のことを問われて「あの頃はイカれてた。荒れ狂うことで人生経験を積んでる気がした」と話す。「その後は無かった?」と男が訊くと、「終戦直後に思ったわ」と女は話す。
 「君の狂気は、いつ消えた?」という質問に、女は「少しずつ消えたわ。子供も出来たしね」と言う。「もう一度、どこかで君と会いたい」と男が告げると、女は「無理よ」と言ってタクシーに乗り込んだ。

 男は映画のロケ現場を見つけ出し、女に声を掛けた。女の出演シーンは撮影が終わり、群衆シーンの準備が始まっていた。「どうしても帰るのか」という男の質問に、女は「ええ。撮影が遅れてパリで人を待たせてる」と告げた。男は広島まつりの行列を見物しながら、女に「たぶん君を愛してる。もう一度、僕と来てくれ」と頼む。
 男は女をの手を取り、見物客の波を抜けて自宅に着いた。女が「奥さんは?」と訊くと、男は「雲仙という山へ行ってる」と答えた。女が「いつ戻るの?」と尋ねると、男は「近い内に」と告げた。「どんな人?」という女の質問に、男は「綺麗だ」と述べた。

 男が「僕は妻と幸せに暮らす男だ」と言うと、女は「私も夫と幸せに暮らす女」と告げた。2人は接吻を交わし、肌を重ねた。「戦時中に愛した男はフランス人だった?」という男の問い掛けに、女は「いいえ」と答える。彼女は相手がヌヴェールで会ったドイツ人兵士だったが死んだこと、自分が18歳で恋人は23歳だったことを話す。
 男は「ヌヴェールのおかげで君が分かり掛けてきた。君の人生に起きた無数の出来事の中で、ヌヴェールを選んだ」と語り、女が「偶然じゃないわ。理由を言って」と告げると「そこでは君がとても若くて、誰の物でもなかった。それが気に入った」と述べた。

 男が「僕はそこで君を失い掛けたと分かった気がする。今の君になり始めたのは、そこだったんだろう」と話し、服を着る。「もうやることは無い。君の出発まで時間を潰すだけだ。離陸まで16時間ある」と男が言うと、女は「長いわ」と漏らす。男は「怖がらなくていい」と告げ、女を近くの喫茶店へ連れて行く。
 ヌヴェールがどんな場所か男が訊くと、女は「そこで私は生まれ育ち、20歳になった」と話す。「君が地下室にいる時、僕は 死んでる?」と男が尋ねると、女は「死んでるわ。どう耐えればいい?地下室はとても狭いの」と口にする。女は男に、「地下室で手は役立たずになる。貴方の血を味わい、血が好きになった」と語った。

 さらに女は、父親が自分を部屋に閉じ込めて死んだように見せ掛けたこと、大声で騒いだら地下室へ移されたこと、ドイツ人の恋人が死亡して人々から丸刈りにされたことを話す。
 女は「貴方を思い出せなくなる。あの愛を忘れるなんて怖い」と言い、恋人と駆け落ちするはずだったこと、川岸へ行くと撃たれて瀕死の状態だったこと、朝まで寄り添っていたこと、気が付くと死んでいたことを語った。女は男に、「私にしって、初めての恋だった」と言う。

 女は再び叫んで地下室に閉じ込められたが、そこで気持ちに変化が起きた。もう叫ばなくなった彼女は、お祭りの日に外へ出ることが許可された。母は夜中にパリへ行くよう勧め、金を渡した。女が自転車でパリへ到着した時、新聞にヒロシマが載っていた。女は男に、「14年が過ぎた彼の手を思い出せない。苦しみは少し思い出せる」と話す。
 「今夜のことは?」と男が訊くと、女は「今夜は思い出せる。いつかは全く思い出せなくなる」と言う。「君の夫は、このことを知ってる?」という男の質問に、女は「いいえ」と答えた。男は自分だけが知っていると聞き、喜んで女を抱き締めた…。

 監督はアラン・レネ、脚本はマルグリット・デュラス、製作代表はサミー・アルフォン、撮影はサッシャ・ヴィエルニ&高橋通夫、美術は江坂実&マヨ&ペトリ、編集はアンリ・コルピ&ジャスミン・チャスニー&アンヌ・サロート、衣装はジェラール・コレリー、音楽はジョルジュ・ドルリュー&ジョヴァンニ・フスコ。

 出演はエマニュエル・リヴァ、岡田英次、ベルナール・フレッソン、ステラ・ダサス、ピエール・バルボー他。

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 カンヌ国際映画祭のFIPRESCI賞(国際映画批評家連盟賞)&映画テレビ作家協会賞や、NY批評家協会賞の外国映画賞などを受賞した作品。リバイバル上映の時は『ヒロシマモナムール』というタイトルに変更された。
 監督のアラン・レネは短編ドキュメンタリーを撮っていた人で、長編劇映画は初めて。脚本は小説家のマルグリット・デュラスが担当している。女をエマニュエル・リヴァ、男を岡田英次、母親をベルナール・フレッソン、父親をステラ・ダサス、ドイツ人将校をピエール・バルボーが演じている。

 オープニングから、男女の会話が延々と続く。女がヒロシマで見たことを詳しく語ると、それに応じた映像が写し出される。会話を交わす2人は冒頭シーンでは情事の最中なのだが、その姿をハッキリと写し出すことは無い。肩や腕など体の一部分は写るが、「会話を交わしている」という形で画面に登場するのは情事が終わってからだ。
 女が「病院を見た」と言うと、入院患者の様子が写る。「資料館へ行った」と言うと、そこの模型や見学者の様子が写る。

 女はヒロシマで見たことや感じたことを、詳しく話す。原爆投下の直後、被爆した人々が苦しむ様子も挿入される。生き残った人々が、後遺症を抱えている様子も写し出される。だが、男は何度も、「君はヒロシマで何も見ていない」と否定する。
 さらに彼は、女が「忘却を知ってる」と言うと「いいや、君は何も知らない」と否定し、「私にも記憶がある。忘却を知ってる」という言葉には「君に記憶は無い」と否定する。女の言葉を、ことごとく否定するのである。

 それは偏屈者の難癖ではなく、ある意味では正しい言葉だ。ここでポイントになるのは、女が見ていないのは「ヒロシマ」ということだ。単なる地名の「広島」ではなく、世界的な共通言語としての「ヒロシマ」なのだ。それは女が言うように、戦争の終わりであり、無関心に対する恐怖を意味する言葉でもある。
 そんなヒロシマを真の意味で「見た」と言えるのは、あの時にヒロシマで原爆投下を体験した者だけかもしれないのだ。それ以外の人は、後から情報として知っただけだ。病院で患者を見ても、資料館で模型を見ても、ニュース映像で映像を見ても、それは「あの時のヒロシマを見た」とは言えないのだ。

 男の「君はヒロシマで何も見ていない」という言葉は、実は自身に対する言葉でもある。彼も当時はヒロシマにおらず、戦地へ行っていた。一方で「家族はヒロシマにいた」と話しているので、詳細は語られないが、きっと家族は犠牲になったのだろうと推測される。
 自身がヒロシマを見ておらず、家族がヒロシマを見たということが、男の心にずっと引っ掛かっている。癒やされぬ記憶を忘却しようとしても、そう簡単に忘れられるものではない。しかも、その記憶は真のヒロシマではないのだ。

 自宅に戻った男の「僕はそこで君を失い掛けたと分かった気がする」という言葉は、何が言いたいのか少し分かりにくい。そこは「女にはドイツ人の恋人がいたので、それが成就していれば自分は出会えなかっただろう」ってのを「そこで失い掛けた」と表現しているのだ。
 そこは理解できるのだが、その前の「ヌヴェールのおかげで君が分かり掛けてきた。君の人生に起きた無数の出来事の中で、ヌヴェールを選んだ」ってのは、ホントに良く分からない。

 喫茶店では女がヌヴェールについて話すのだが、その言葉がおかしな方向へ進んでいく。いつの間にか彼女は、男をドイツ人の恋人と重ね合わせて話すようになるのだ。もしかすると、喫茶店に入った時から既に重ね合わせていたのかもしれない。そんな女の言葉に、男も調子を合わせる。
 ヌヴェールに関する女の説明は時系列順ではなく、反対から喋っている。「地下室での監禁」→「家での軟禁」→「丸刈り」→「恋人の死」と続くが、実際に起きた順番は全くの逆だ。だから恋人についての説明は、なかなか出て来ない。だが、恋人が死んだ後の出来事を語っている時も、女が表現するのは「恋人への愛」だ。

 女の中に、恋人を殺された怒りは無い。恋人を失った悲しみや、今も忘れられない気持ちを彼女は吐露する。地下室で監禁されていた時の苦しさや辛さを語る時も、その状態そのものに対する苦難よりも、恋人がいなくなったことの辛さを強く感じている。
 実は女が恋人と一緒に過ごした幸せな日々は全くと言いほど描かれていないのだが、「幸せから悲劇への急展開」という部分は全く気にしていない。この映画が重視しているのは、恋人を亡くした喪失感と、悲しい過去の呪縛だ。

 女の死んだ恋人に対する愛も、戦争後の体験も、やがては忘れ去られる。だが、いつか同じような体験をした時、それは愛の忘却として思い出されることになるだろう。女は「人生に起きる困難は、時には考えない方がいい。そうしなきゃ呼吸できなくなる」と話口にするが、だから恋人の死や戦争体験が苦しすぎるなら考えない方がいい。
 だが、やはり人間は悲しい生き物で、それを考えてしまう。だから女は男と愛し合うことで、ドイツ人の恋人を忘れようとする。だが、皮肉なことに女は男と愛し合ったことで、恋人を強烈に思い出してしまう。そこから逃れるためにも、女は男を忘れようとする。しかし、そんなことは出来ないのだ。なぜなら、女はヌヴェールで、男はヒロシマなのだから。

(観賞日:2018年10月2日)

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