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『道』:1954、イタリア

 少女のジェルソミーナが浜辺にいると、4人の妹が来て「母さんが呼んでる。ローザが死んだんだって」と伝える。ジェルソーナの姉であるローザは、旅芸人のザンパノに助手として同行していた。母はジェルソミーナに、ローザの後釜としてザンパノと一緒に行くよう提案した。
 貧しい一家にとって食い扶持が減ることは大助かりであり、既に母はザンパノから4万リラを受け取っていた。ジェルソーナは承諾し、「ローザみたいな芸人になる」と喜んだ。ザンパノは移動手段であるトレーラー付きバイクに、彼女を乗せた。

 ザンパノの持ち芸は、鎖を胸に巻き付けて筋力だけで留め金を外すというものだった。彼はジェルソミーナに、太鼓を叩いて宣伝する仕事を命じた。それだけでなく、ザンパノはジェルソミーナに情事の相手も強要した。
 ある町に入ると、ザンパノはジェルソミーナに道化の化粧をさせて一緒に軽い喜劇芝居も演じた。彼は集まった人々に、ジェルソミーナを妻だと紹介した。酒場に入った彼は赤毛の女を口説き、トレーラー付きバイクに乗せた。彼はジェルソミーナに「ここで待て」と告げ、置き去りにして去った。

 翌朝、ジェルソミーナは近所の住人から、町外れにトレーラー付きバイクがあったことを知らされる。彼女が現場に行くと、ザンパノは外で眠り込んでいた。目を覚ました彼は、ジェルソミーナをトレーラー付きバイクに乗せて次の仕事先へ向かう。
 ジェルソミーナが「ローザも置き去りにしたの?」と尋ねると、ザンパノは「うるせえな」と面倒そうに言う、「女遊びする人なの?」と質問された彼は、「俺と一緒にいたけりゃ口をつぐんでろ」と怒鳴った。

 ザンパノとジェルソミーナは結婚式の余興に呼ばれ、芸を披露した。場所を提供した未亡人が中で食事を取るよう促すが、ジェルソミーナは子供たちに「付いて来て」と誘われる。案内された部屋にジェルソミーナが入ると、ベッドに1人の少年がいた。
 子供たちは病気で部屋に閉じ込められているオズヴァルドだと紹介し、笑わせてほしいとジェルソミーナに頼んだ。ザンパノは未亡人を口説き、関係を持った。ジェルソミーナはザンパノに「もう貴方には懲り懲り。故郷に帰るわ」と言い、その場を去った。

 キリスト教の祭りが開かれている町に入ったジェルソミーナは、イル・マットという芸人が綱渡りの曲芸を披露する様子を目撃した。車に乗り込んだイル・マットは、ジェルソミーナに気付くと笑顔を向けた。
 夜中にジェルソミーナが一人ぼっちで佇んでいると、ザンパノがやって来た。彼がトレーラー付きバイクに乗るよう要求すると、ジェルソミーナは「もう一緒にいたくない」と嫌がる。しかしザンパノは逃げようとする彼女を捕まえ、トレーラー付きバイクに押し込んだ。

 ザンパノがジェルソミーナを連れて赴いたのは、ジラッファという男が仕切るサーカスの興業だった。ジラッファから支払われる金は無く、芸人の報酬は客からの投げ銭という制度だった。同じ興行にイル・マットも参加すると知り、ジェルソミーナは喜んだ。
 イル・マットはザンパノと旧知の間柄で、彼を見ると冗談を飛ばした。ザンパノは再会を歓迎せず「口をつぐまないと痛い目に遭わせるぞ」と苛立つが、イル・マットは気にする様子が無かった。

 その夜のサーカスでイル・マットは観客の喝采を浴び、ザンパノは不快感を露わにした。イル・マットは出番が終わってもテントに留まり、観客席でザンパノの芸を見物する。イル・マットが芸の邪魔を繰り返したので、ザンパノは激怒した。
 イル・マットはテントから逃亡し、ザンパノに見つからないよう姿を消した。ジェルソミーナが「恨まれてるの?何かしたの?」と訊くと、ザンパノは「何もしちゃいない。なのに、いつもコケにしやがる。いつか借りは返す」と告げた。

 翌日、ザンパノが町へ出掛けている間に、イル・マットはジェルソミーナに芸の手伝いを持ち掛けた。「出来ないわ。ザンパノが怒るわ」とジェルソミーナが難色を示すと、ジラッファは「ここでは皆が一緒に働くんだ」と告げる。
 しかし町から戻ったザンパノは、「こいつとは絶対に仕事をさせない」と激昂した。イル・マットがバケツの水を浴びせると、ザンパノはナイフを持って追い掛け回した。イル・マットは逃亡し、ザンパノは駆け付けた警官たちに連行された。

 ジラッファは警察沙汰になったことに憤慨し、別の町へ移動することにした。一緒に来てもいいと誘われたジェルソミーナだが、ザンパノのトレーラーで待つことにした。夜になってイル・マットが姿を現すと、彼女は「貴方が悪いわ」と指摘した。
 イル・マットは悪びれた様子を見せず、「ナイフは彼の手にあった」と述べた。「あの人たちに誘われた。ザンパノと離れるかも」とジェルソミーナが言うと、彼は大笑いして「いい気味だ。何の恨みも無いが、顔を見るとコケにしたくなる」と語った。

 ジェルソミーナが「誰の役にも立たない。何のために生きてるの?」と泣き出すと、イル・マットは「役に立たないなら、ザンパノは君を手放すはずだ。もしかして君を思ってるのかも」と告げる。「君じゃなきゃ誰がやれる?信じられないかもしれないけど、この世の全てが役に立つんだ。君だって役に立ってる」という彼の言葉で、ジェルソミーナは前向きな気持ちになった。
 イル・マットはトレーラー付きバイクを運転し、ジェルソミーナを警察署の前まで送り届けた。彼はネックレスをプレゼントし、ジェルソミーナの元を去った。次の朝、釈放されたザンパノはジェルソミーナの前に現れ、2人での旅に戻った…。

 監督はフェデリコ・フェリーニ、 原案&脚本はフェデリコ・フェリーニ&トゥリオ・ピネッリ、台詞はトゥリオ・ピネッリ、翻案はエンニオ・フライアーノ、製作はディノ・デ・ラウレンティス&カルロ・ポンティー、撮影はオテッロ・マルテッリ、編集はレオ・カトッツォ、美術はE・チェルヴェッリ、音楽はニーノ・ロータ。

 出演はアンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ、リチャード・ベースハート、アルド・シルヴァーニ、マルチェラ・ロヴェル、リヴィア・ヴェンチュリーニ他。

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 『青春群像』でヴェネツィア国際映画祭のサン・マルコ銀獅子賞を受賞したフェデリコ・フェリーニ監督が、翌年に発表した作品。前年に続いてヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞した他、アカデミー賞の外国語映画賞やニューヨーク映画批評家協会賞の外国語映画賞などを獲得した。
 ザンパノをアンソニー・クイン、ジェルソミーナをジュリエッタ・マシーナ、イル・マットをリチャード・ベースハートが演じている。

 ジェルソミーナはザンパノからセックスの相手まで強要されるが、それでも彼に付いて行く。それは決して、セックスが良かったからではない。恋愛感情があったとも思えない。ただ、ザンパノに認められたいとか、そこに自分の居場所を見つけたいという思いはあったのかもしれない。
 何しろ彼女には、もう故郷に居場所は無いのだ。母は決して冷酷な人ではないし、別れる時には泣いているが、ジェルソミーナは実質的に「食い扶持を減らすために売り飛ばされた」という状況なわけで。

 ジェルソミーナはザンパノが次々に女を口説く様子を見て愛想を尽かし、彼の元を去る。そういう態度からすると、「やっぱり惚れていたってことじゃないのか。だから嫉妬心で腹を立てたんじゃないか」と思うかもしれない。
 ただ、ザンパノに恋愛感情を抱くようなきっかけなんて、何一つとして見当たらないのよ。そもそも、ザンパノって好きになる要素が皆無のクソ野郎だし。なので、そんな単純な色恋沙汰ではなく、依存みたいなモンじゃないのかなと。

 ジェルソミーナにとってザンパノとの生活は、決して幸せで満ち足りたものではなかった。辛いこと、悲しいことの連続だった。だから逃げ出そうとしたのに、すぐに捕まってしまった。自分は逃げることも出来ないのだと、すっかり諦念に入ってしまった。
 そんな彼女にとって、わずかな心の安らぎを感じることの出来る存在がイル・マットだった。ところが皮肉なことに、彼と親しくなったことによって、ジェルソミーナは苦痛しか無い人生を選ぶことになってしまうのだ。

 イル・マットはジェルソミーナが「誰の役にも立たない。何のために生きてるの?」と泣き出した時、最初は皮肉めいた言葉も吐く。だが、「信じられないかもしれないけど、この世の全てが役に立つんだ。君だって役に立ってる」などと、無責任な弁舌をする。
 それは軽薄でありながら、いかにも含蓄のありそうな言葉なのだ。そのせいでジェルソミーナは、「自分はザンパノの役に立っているし、それが私の生きる道」という厄介な思い込みに落ちてしまう。

 ただ、イル・マットにしても、決して立派な人間、好感の持てる人間というわけではない。ザンパノとは全くタイプが異なるが、こいつはこいつで充分すぎるほどのクソ野郎だ。一言で表現するなら、ザンパノは粗野、イル・マットは邪気だ。
 確かにザンパノは重罪人だが、イル・マットが殺されたことに関しては、ある程度は「余計な言動を取った彼にも非がある」と言わざるを得ない。バランスを考えれば「殺すのはやり過ぎ」ってことになるが、自業自得だし、イル・マットに対する同情心は湧かない。

 ザンパノの元を去ったジェルソミーナがキリスト教の祭りが行われている町に辿り着くシーンがある。そこでキリスト教の祭りを描くのは、ストーリー進行だけを考えれば、何の必要性も無い。何の祭りでも構わないし、いっそ祭りじゃなくたって構わない。
 ジェルソミーナとイル・マットを会わせておけば、それで事足りる。ただ、実は地味に重要なシーンではないかと思っている。「これがキリスト教的な概念に基づいた作品ですよ」ってことを、そこで示しているのではないかと。

 キリスト教だと、「どんな罪を犯したとしても、それを認めて懺悔し、悔い改めれば赦される」ってのが基本理念だ。この映画も最終的に、そういう所へ辿り着く。
 ただ、実際にザンバノが犯した行為は、クリスチャンではない人間からすると、幾ら「悪いことをした」と認識して泣いたところで、もはや贖罪なんて絶対に無理な悪行なのだ。なので、その辺りはキリスト教信者が決して多いとは言えない日本だと、欧米人とは捉え方が異なるかもしれない。

 ジェルソミーナはイル・マットの言葉をきっかけにして、「ザンパノに対する献身こそが、無償の愛こそが、自分の使命なのだ」と完全に信じ込んでしまう。だからザンパノがどんな人間であろうと、全身で愛を捧げようとする。しかしザンパノはホントにクズなので、彼女は精神を病んだ上に捨てられてしまう。
 無償の愛ってのは、それを理解し、感謝できる人間にこそ与えられるべき物だと個人的には思っている。しかしキリスト教の世界では、そんな器の小さい考えなんて通用しない。だから、ザンパノは最終的に「赦されるべき人間」として描かれることになるわけだ。

(観賞日:2020年1月10日)


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