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本棚にいる、たくさんのグッド・アンセスターたち。 |小関優さんとのグッド・アンセスター・ダイアローグ

『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(ローマン・クルツナリック著/松本紹圭訳)を巡る対話の記録。
 神谷町 光明寺のテンプルモーニング(朝掃除の会)に参加してから近くにある企業に出社していた小関優さん。ポッドキャスト「Temple Morning Radio」の熱心なリスナーであり、「音の巡礼」の活動についても感想や意見をおくってくれる、音を通じて仏教の実感を深めている仲間のひとりです。
 そんな小関さんに「グッド・アンセスター」にまつわるおしゃべりをお願いしました。言葉をとても大切にして暮らしている小関さんらしさにあふれたお話しを聴くことができました。(インタビュー・構成:遠藤卓也


文学は、日々の「いろどり」であり、人生の「おまもり」

ーー小関さんにとっての "過去から受け取っている恵み" とはどんなものでしょうか。

小関 そうですね、、、最初は「言葉」か「本」だと思ったのですが、やっぱり「文学」かなって。それがなかったら、自分がしんどい時にどうしていたんだろう?と思うので。 なくてはならないものという意味で、私にとっての "恵み" だと思います。

ーー言葉、本。そして、その中でも文学っていう。考えていくうちに具体化していった感じなんですね。

小関 私の中で、文学から受け取っている "恵み" は大きくわけてふたつあります。ひとつは  自分はこれがあれば大丈夫 と思えるような「おまもり」としての文学。
 もうひとつは「いろどり」のようなイメージ。例えば、朝起きたら窓越しに外が薄明るくて開けたら雪が積もっていた、というような静かな冬の風景が好きで、そんな風景を見た時に『百人一首』の冬の歌を思い出します。

朝ぼらけ有り明けの月と見るまでに吉野の里に降れる白雪

坂上是則『小倉百人一首』

小関 「月の光かと思ったら雪だった!」っていう。そういう歌です。風景とともに、この歌が大好きです。
 あとは、唐の李白による『静夜思』という詩。

床前(しょうぜん)月光を看る 疑うらくは是れ地上の霜かと 首(こうべ)を挙げて 山月を望み首を低(た)れて故郷を思う

李白『静夜思』

小関 これは 「まるで一面霜がおりたかのような月明りだ」というような意味で、さっきの歌と月光と雪霜の関係が逆なのですが、時代や文化や国を超えて、みんな何か同じような気持ちがあるんだなって感じるんです。
 自分も朝にそういう景色を見たときに「ああ、これだな」って。きっと昔の人も同じ気持ちだったんだってわかる。千年前の歌が残っているって、本当に奇跡のようなこと。なぜ残ってるのかわからないけど、やはり "途中の人たち" が共感してきたから、古典として残っているんですよね。
 それは、私にとって日々の「いろどり」という意味で、文学の大事な一要素です。

小関さん撮影「ある雪の朝」

ーー「おまもり」っていうのは?

小関 例えば宮沢賢治の作品はもう、そこにその人がいる。本なんだけど、単なる活字なんだけど。それは賢治でしかない、と思えるんです。太宰治も私にとってはそうなのですが、作家が自分の存在そのものを投げて、そこに出したみたいな作品が、、、。

ーー「おまもり」なんですね。

小関 はい。自分の言葉にならないしんどさとか。悲しい気持ちだったり、そういう時に、本屋に行くと ここがあれば大丈夫だな と思うんです。ひとりじゃないというか。
 私は生きていく上で、もし文学がなかったらと思うとちょっと想像できない感じ、、、それくらいの "恵み" です。

あえて言葉をつかって表現するということ

ーー「おまもり」と「いろどり」という言葉が出てきましたが、その前に小関さんにとっての "過去からの恵み" は言葉であり本であり、その中でも文学ということに至ったわけですよね。文学だからこそ、「おまもり」になったり「いろどり」になったりするのですかね。

小関 文学って、言語による芸術作品なのかなと思います。言語表現だから言葉なんですよね。先日ある知人と "過去からの恵み" について話しているときに、彼は「絵画」や「音楽」が "恵み" だと言っていたんです。理由は、言葉では語りえないものを表現しているから。私も、本当にそうだなと思うんです。でも、そこであえて私は言語表現である文学を選ぶ
 実は自分自身が使う言葉をあまり信じていなくて、なにか言葉にした瞬間に「あれ、言いたいことはこれじゃない」と思うことばかりなんです。言葉にすると、どうしてもこぼれてしまうものがあって。だから、言葉で表現するということはすごく難しい。でも、それを、言葉をつかってやってくれている人たちがいる。自分の存在を投げ出すようにして紡がれている言葉を読むと「これが私が求めていた言葉だ」と思えるんです。
 言葉では語り得ないものの方が多いけれど、そこをあえて言葉にしてみせてくれて、その言葉が私にとっては「おまもり」になる。「これがあれば大丈夫」って思える表現に昇華してくれているんです。
 もちろん私は絵も好きだし、絵を見ることで言葉では語り得ない何かを感じることはあります。でもやはり私は、言葉が私の中で作用して、化学変化が起こることを実感する、そういう「文学」という表現が、とても、大事。

ーーなるほど、、、昔の人たちの言葉が、今を生きる自分に伝わってきていて、そこに感じているものがあるのだけれども、その言葉もただの言葉ではなく「これは文学である」という認識がある。世の人たちが、「文学」というラベルを貼ることで、本という形になる。そうやって伝わってきているんですよね。
 言葉というのは無限に表現できそうだけれども、実際に表現しようとすると、表現したいこととの完全一致はなかなか難しくて、ともすればもう最初からこぼれ落ちているような感覚がある。日々そんなことを感じながら生きている中で、でもそこに「表現しよう」として言葉を紡いできた文学者たちがいて。彼ら彼女たちに対する敬意もあるのですかね?

小関 そうだと思います。私が欲しいのは、よくできたストーリーではなく、その人がもうそこにいることが伝わってくる感覚。もちろん会ったこともない人だから、わからないはずなんだけど、でもやっぱ、、、わかる、、、。
 そういうのあると思う。文学に限らず。それは自分にはできないことだから、敬意を表するとともにありがたいと感じる。その人の存在がそこに立っているから、いろんな時代のいろんな人に違う形で届くんだろうなと思うんですよね。

まるでその人の存在のように感じられる「文学」

小関さん撮影「大英図書館(本のタワー)」

ーーその人の存在が、そこに 「立っている」と表現されていましたが、その人は例えばもう亡くなっていたりとか、生きていたとしても今ここにはいないけど、まるでそこにいるように感じられるということですか?

小関 そうそう。私がすごく信頼している作家にジュンパ・ラヒリという女性がいます。その方はまだ50代で活躍されていますが、ここにはいません。でも彼女の本があれば、そこにいるって感じられるから、心強いし「私だけじゃないな」と思う。

ーーまさに「おまもり」ですね。ラヒリさんの作品だって、もちろん現実にあったことを参考にはしてるかもしれないけれども、フィクションですよね。完全に忠実にその人自身をそのまま言葉にしたというわけではないのに、まるでその人の存在のように、感じられるっていうことですよね。

小関 はい。それは私の妄想や勘違いかもしれない(笑)でも、そうとしか思えない。

ーー例えば目の前にラヒリさんが現れたとして、そこで肉声で言葉を交わしたとしても、それが本心を言っているかどうかもわからないですしね。

小関 もしかしたらそっちの方が、希薄なコミュニケーションと感じてしまうかもしれない。

ーー今の小関さんの話からすると、文学ってやはりその人の表現したいと思ったことを言葉を尽くして、あらわすこと。それは、単なる「言葉」とも違うし「本」と言えば色々な種類があるし、小関さんにとっての "恵み" としてはやはり「文学」である、必要性があるわけだ。

小関 いや本当にそうだな、って今思いました。その「文学」を成り立たせるために、やはり「言葉」が必要になります。
批評家であり随筆家の若松英輔さんは「苦しい時や悲しい時、人は言葉によって救われる」とおっしゃっていて、私もその実感の積み重ねで今があります。でも今の時代、特にSNSでは分断や攻撃や、そういう言葉ばかりが飛び交っているようで、言葉で救われるより傷つく人の方が多い。だから、、、悲しい。悲しいなって思います。とても。
 本当に、比喩ではなくて、言葉ひとつで命を救われることもあると思うんです。それは文学じゃなくても、誰かからかけてもらった言葉とかで救われることがある。でも、逆に誰かの何気ない一言で生きる意欲をなくしちゃうことだってある。そこが、言葉って難しいなと思います。

ーー確かに、人それぞれの縁もあるというか。人から良い言葉をかけてもらうといっても、やはりそういう縁がなければ、ひとりぼっちになってしまう可能性だってあるし、周りにたくさんの人がいたとしても、縁がよくなければ、良い言葉をかけられることもなかったりとか。
 その点、文学はいつでも誰にも平等というか、本屋さんに行けば、図書館に行けば、手を伸ばせるところにたくさんの美しい言葉がおさまっている。そういうのは、ありますよね。

小関 ある。

ーー人に何か伝えたくてもうまく伝えられないときに、本を渡して代弁してもらうとか。そんなことだってあるし。文学が誰かの「おまもり」になったり、誰かの「いろどり」になったりする。それは確かにすごく大きな "恵み" ですね。

読書は自分に問いを持つことのできる時間

小関さん撮影「太宰治記念館 斜陽館」

小関 あとは自分に問いを持つことのできる時間というか、例えば「世間はこうだけど、本当にそうなのかな?」って、考えてもいい時間になるというか。

ーーそれは読書の時間ということ?

小関 そう、読書の時間。文学や宗教や哲学も。「世間はこうだけど、本当にそうなの?」とか、そういうの考えてもいいよって。読書は、そういうのが許される時間をくれるもの。
 例えば、仏教にはヒントがすごいたくさんあって、その問いに答えてくれる予感がある。なんかそうやって「問い」を持つ時間がないと、無理じゃない?って思うの。
 少し前に 、人間の価値を生産性ではかるというようなことが話題になりましたよね。「そんなわけない」とわかっていても、そういう言葉を聞くだけで傷つく人がいるんです。私も含めて。
哲学対話という場を作られている永井玲衣さんは、『水中の哲学者たち』の中で、たとえばそういう人間の価値について「本当は違うよね?」「じゃあ何が価値なの?」と考えていく時間が哲学だよね、と書いています。

問いはわたしの影のように、そばにいる。そのときに気がつく。問いは、時にわたしを苦しめ、時にわたしをはげます存在であることに。

永井玲衣『水中の哲学者たち』

小関 人って「これまで自分なりに一生懸命やってきたつもりだけど、なのに、なぜこういう状況になってしまったのか」とか、自虐的になったり、ネガティブな方向に問いを立ててしまうことが結構あるんじゃないかな。そういう時に、この本の言葉に「そうだな」って頷くんです。

あきらめがわたしを喰い破りそうになるとき、問いがわたしを心配そうにのぞきこむ。わからないと投げ出したくなったり、早急に答えを決め込みたくなったりしたとき、まだわからない、まだわからないよ、と問いは言う。

永井玲衣『水中の哲学者たち』

小関 「ああ、もういいや」とか「もうよくわかんない」ってすべて投げ出したくなった時も、読書が「でも本当にそうなの?」「本当に駄目なの?」とか、そういう問いをもたせてくれる。普通に生活しているとなかなか難しいけれど、その問いをもつ時間こそ豊かというか、必要な時間だと思う。
 「今、早急に答えを出す」とか、逆に「待つ」とかでもなく、文学も哲学も宗教も長い歴史の中で色んな人が色んなことを考えてくれていて、問いに対する色んなヒントがあって。それも "過去からの恵み" だなって、私は思っています。

ーー広い意味での文学、それは哲学書とか、仏教書もあるかもしれないけど。自分にとって必要不可欠な、問いに対してヒントをくれる存在であるわけですね。

バッグに1冊「おまもり」を入れておく

ーー今日、持ってきている本は「おまもり」?

小関 これは「おまもり」。宮沢賢治の『春と修羅』の序文がずっと私の「おまもり」の言葉。

わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

宮沢賢治『春と修羅』

小関 ことあるごとに思い出します。思い出すというか、立ち返る。
 私は現象でしかない、風景とかみんなとか、そのときの条件とか、縁とか。もうそれだけで、次々に入れ替わってて。だから今つらくても苦しくてもそれがずっと続くわけじゃないし、別に私がつらいとかじゃない、今そういう現象としてあらわれているだけ
 「風景やみんなと」というのもすごい好きで。「青い照明」も好きだし。仮定されたものでしかない。でも因果で、ずっとともりつづけている。
 「ひかりはたもち、その電燈は失はれ」というのは、肉体がなくなっても、魂のようなものはずっと保たれてどこかにある、ということかなと。この序文の冒頭は、忘れてしまいがちな、本来の「在り方」のようなものを示していて。そうだよね、と思う。
 だから「おまもり」なんです。

ーーいいですね。

小関 すごく仏教的な言葉だなとも思います。賢治自身も法華経を信仰していたし。

ーーもう一冊は、太宰治?

小関 太宰はどの言葉が「おまもり」っていうよりは、ただ好きだから(笑)本を開けば太宰に会える、みたいな感じで元気をもらってるっていう。

ーーそれはすごい "恵み"!

小関 でしょ。もちろん、誰かと会うことでエネルギーをもらうこともあるんだけど。

ーー家の本棚が「おまもり」と「いろどり」だらけって幸せなことですよね。

小関 幸せ。読まなくても、バッグに1冊「おまもり」を入れる。持ってるだけですごくホッとする。

ーー僕も家にたくさんCDやレコードがあるけど、それは「おまもり」かもしれない。

小関 レコードはなかなかバッグに1枚とはいかないですね(笑)

ーー再生もできないし(笑)でも、それが家にあるんだと思うことは、もうそれだけでなんというか、大丈夫っていう。

小関 大丈夫です。

自分の存在そのものを「言葉」にしてみせてくれた人、宮沢賢治

光原社マップ(光原社:宮沢賢治の『注文の多い料理店』を出版し、現在は民芸店)

ーーあえて、最後に聴きます。小関さんにとって "グッド・アンセスター" だなと思う人は誰ですか?今のおはなしの流れの中で思いあたる人でいいのですが。

小関 そうしたら、やっぱ宮沢賢治かな。作品に自分をそのまま投げ出してくれてるというか。童話にも詩にも、もう本当に賢治の存在がそこにあると感じられる。
 私は、詩は言語表現というより非言語表現に近いと思っていて。

ーー言葉をつかっているけど、非言語的であるという。一見、矛盾していますよね。

小関 詩はやはりストーリーではないし、そこで語りきれていないことも含んでいるので、、、。賢治は「心象スケッチ」と言います。

ーーどういうことでしょう。

小関 若松英輔さんは私達が日常的につかっている言葉のことを漢字の「言葉」、心とか魂に通じる深いレイヤーにある言葉をカタカナの「コトバ」として使い分けています。「コトバ」を人に伝える時には心の奥の方からすくい上げて、「言葉」にしていく作業が必要になるとおっしゃっていて。

ーーなるほど、詩は心の奥からすくい上げてきた「コトバ」のあらわれなんですね。

小関 詩って最終的にみんなに伝える「言葉」になっていても、意味を伝えるだけの表現ではないと思うんです。「言葉」そのものの意味として伝えるというよりは、行間とか、色とか、香りとかその全体で「コトバ」を伝えようとする表現で、それを賢治は「心象スケッチ」と呼んでいるのかなと。

ーースケッチというと絵だから、もはや言語表現ではないですよね。

小関 賢治の中にある「孤独」なのか「葛藤」なのか、「修羅」と賢治自身が表すような自分の心を、「童話にしました」、「詩にしました」ではなく、「心象スケッチです」と提示している。小説や物語に留まらない何かが自分の中にあったんだと思う。
 あくまでもスケッチだから「作ったもの」ではないというか、そこにあるものをそのままうつしたということですよね。

ーー小関さんが大事にしていることは「その人の存在がそこにあるか」ということですよね。賢治という人は「心象スケッチ」という、言語だけれど非言語的な手法で自分の存在そのものを丸投げしてくれている人であると。

小関 それを「言葉」にしてみせてくれたから、私の "グッド・アンセスター" なのかもしれません。

ーーより自分の根源に近い「コトバ」を「言葉」にして伝えるのはきっとすごく難しい。でも、だからこそ小関さんは言葉を大切に思って「私は敢えて言葉を選ぶ」のかもしれませんね。

小関 本当に、言葉で表現するのは難しい。伝えたいことが誤って解釈されたり、言った途端に「これじゃないのに」と思ってしまう。だからこそ、言葉を使って表現してくれる人たちへのリスペクトと感謝があります。

ーー小関さんはなんでそんなに、言葉を必要としているのでしょうね。

小関 正直、自分でもまだわからない、、、。ただやっぱり、どうしようもなく作用するんです。体の中で、一番電気が走るものが、様々な表現の中でも特に私は「言葉」であり、「文学」なんです


小関優さんについて

 小関さんと出会って間もない頃、お互いの好きなアーティストや作家の話で盛り上がりました。「(あるアーティスト・作家名)は好き?」と聞いた時に「あの人はいいと思う。転がってるから」と、ビール片手に確信めいた表情で答えてくれた小関さん(笑)「ライク・ア・ローリングストーン」じゃないけれど、僕もそういえば何かと転がってる感じの人に惹かれるナアと妙に納得したのをよく覚えています。
 今回のインタビューでも、それに近い語彙感覚で大いに語ってくれたことが嬉しく、文字起こしや構成も楽しくやらせてもらいました。今回は縁あって僕がインタビュアーでしたが、小関さん自身は文学部出身で、文を書く人。書ける人。小関さんの「コトバ」をもっと心象スケッチしてあらわしてほしいと期待しています。

 小関さんがインタビュアーをつとめたグッド・アンセスター・ダイアローグも、ぜひお読みください。どの記事も素晴らしいです。


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