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一人ひとりがあっての全体、そして、全体の中で生かされるわたし。Mihoさん|グッド・アンセスター・ダイアローグ

『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(ローマン・クルツナリック著/松本紹圭訳)を巡る対話の記録。今回お話を伺うのは、テンプルモーニング仲間であり、今は、日本海に浮かぶ島に通いながら暮らし方や生き方について考えを深めている、Mihoさん。お寺や仏教に関心を寄せ合い、一方でキリスト教的な思想が感じられる友人。そのあたりも聴けたらと思いつつ。Mihoさんの感性が受け取る “過去からの恵み“、そして、“グッド・アンセスター”とは。

(インタビュー・構成:小関優)

生も死も、等しく「生」の恵みのひとつ

ーーまずは、Mihoさんにとっての “過去からの恵み” を教えてください。

Miho なんていうのかな、私は全体の中の一部として生かされているような感覚があって。たとえば、今、100年前と較べて良い生活が送れているとしても、それは日本にいるから受けられている恵みかもしれませんし、日本にいてもそれぞれの環境がありますから、一概には言えませんよね。もし、100年前に生きていたら、今より寿命が短かかっただろうし、女性はもっと差別されていて、勉強したくてもできなかったり、人生で出会える人の数もずっと限られていたと思います。でも、私がその時代に生きていたとして、不幸を感じていたかというと、それは違うような気がするんです。だから、何かが“ある”から恵み、ということではなくて

ーー生かされていることが、恵み?

Miho:そう。自分で生きている、っていう感覚があまりないわけです。生かされているいのちだから。それが終わるときは、それもそのとき。生きていることも恵みだし、それが終わっていくことも生の恵みの一部
もちろん、今まで触れられた人がいなくなることは寂しいけれど。生きていることが恵みで、生が終わることは罰だとか、生きているいのちの方が重要だとか、そんなことは何もなくて。生きていることと等しく、死ぬことが、ただある。私にとっては、そこに重みの差はないのかもしれません。

私に備わるものはすべて借りもの・賜りもの

ーーどういう流れでそういう感覚に至ったのでしょうか。

Miho:振り返ると、中学高校とキリスト教の教育に触れてきたから、ということはあると思います。とは言っても、「キリスト教とはこういうものです」と教わった覚えはあまりなくて。学校はそういう教育をしていたのでしょうが、ほとんど耳に入っていないわけですね(笑)。
私の通っていた学校は、わりと自由で、ほかの学校より驚くほど校則が少なかった。「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と。だいたいのことが、これでカバーされていた印象です。

ーー仏教の、自灯明法灯明、みたいですね。

Miho:そう思います。院長先生の入学式のお話を今でも鮮明に覚えていて。「あなたがたは、自分が頑張って試験に合格したからここにいる、と思っているかもしれない。けれども、そうではない。招かれてこの場にいるのです」という内容でした。「招かれる」という言葉に違和感を覚える人もいるかもしれませんが、当時の私はただただ素直に、へぇそうかぁ、と。

神様はすべての人に、その人にとって最良の道を与えてくださっている、ということだと理解しています。どの道も、その道がその人にとって一番の道なんだと。どの道でも等しく、自分は神様の御用のために使われる器なのだというイメージです。少なくとも、毎朝の礼拝を通じて身に染みたのはそういうことでした。私はキリスト者ではありませんが、その発想には違和感がなかったんですね。能力も才能も、私が持っているものは何もなくて、すべては借りもので、賜りもの。その装備で、自分の目に映るものに対してどうアプローチすべきか、ということを考えているように思います。

自分の知覚は、過去や未来世代とつながっている

Miho:母校の初代院長は矢島楫子という人でした。学校の歴史を勉強するときに出てくるので知っていましたが、数年前、三浦綾子さんが書かれた『われ弱ければ』という伝記小説を読んで、出会い直しました。
当時では奇抜と思われることも少なくなく、人生も穏やかとは言えないものだったようですが、それでも悩みながら、苦しみながら、求めて歩みを止めないその姿が、私に力を与えてくれました。

この本に、同校で学んで教えた人の言葉が書かれていて。矢島楫子の教育方針は「一世紀近くも進んでいた」と。校則がほとんどないことも、その一つなのかもしれません。楫子自身が、「みんなが良いと言うことは本当に良いことなのか、みんなが悪いと言うことは本当に悪いことなのか」と自分で問い、判断して行動するエピソードがいくつか出てくるのですが、どれも大切だなと感じます。

グッド・アンセスターとして顔が浮かぶ人って、異端、と言うか、少数派の人なんです。時代に合わず、ときに弾圧の対象にすらなるような。でも、そういう人たちの行動が、確実に新しい道を拓いてくれたと思いますし、その存在に私はすごく励まされるんです。

これまで私は、自分が思ったり感じたりすることにあまり価値を見出せていませんでした。でも、今回、『グッド・アンセスター』を読んで、もしかしたら私が知覚していることは、私一人のものではなくて、先人や未来の世代を代表して感覚しているのかもしれない、と思うようになりました。それなら、私は世界をこういうふうに感覚して、こういう気持ちで生きているということを、率直に言ってみてもいいのかなと。「変わっている」と言われるのは嫌だし、怖いなと思うこともあるけれど、それは仕方がなくて。私も少数派の存在に励まされてきたのだから。もし「変わっている」なら、それも私に備えられた才能というか、賜物。だから、それをどう使っていくかということに、知恵を絞らなくちゃいけないなと。

なので、私にとってグッド・アンセスターは、すごい何かを発明した人とか、すごい何かを残した人とかではなく、身近な人という感じがします。こういう人たちがいたから大丈夫とか、こういうところにシンパシーを感じるとか。生きていない人たちだけど、会話しているというか。本を読んでいるときとか、そういうふうに思いませんか?

ーーとてもよくわかります。

Miho:目の前にいなくても、思いを馳せて読んだりするでしょう。そういう感じで、日頃からお世話になっているような気持ちです。

島にてMihoさん撮影(滞在場所近くのお寺裏庭)

できることをして、「時が満ちるとき」を待つ

ーー恵みを未来世代へどう渡すか、についてはどうですか?

Mihoテンプルモーニングラジオで、釈徹宗先生がカイロスとクロノスのお話をされていて。やっぱり、「時が満ちたとき」が、そのときだと思うんです。

自分以外の何かを「変える」なんて、人にしろ社会にしろ、思い通りに操作できるものではないですし、ときを積み重ねれば魔法のようにどうにかなるものでもない。でも、“ベター・アンセスター”という言葉があるように、未来のグッドにつながるかわからなくても、良いと思うことを1ミリでもしていくことが大事で。そうすると、地味に見える一人の行動が、いつの間にか一人の力じゃなくなっている、という不思議が起こるのかな、と。

ドラスティックにチェンジするような行動をした方が、語り甲斐のあるグッド・アンセスターになるのかもしれませんが、それはきっとそういう役割の人がいて。私は、名前があってもなくてもできる、「良いと思うこと」をしていけたらいいなと思います。

ーーとても共感します。名もなきグッド・アンセスター。

Miho:できることをしないのは、私にとって、すごく自分を傷つけること。使える自分を使わなかったことになるから、そういうことはしたくないんです。その行動が何につながるかわからなくても、やれることをやる。私は、自分ができることをしていれば、なにか良い影響を届けられると信じているのかもしれません。それは奇跡にも似たようなものかもしれないけれど。

だから、今回のこのインタビューもそう。せっかくお話する機会をいただいたのだから、届くといいなと思うことをお話したいなと。それが伝わったらうれしいし、伝わらなかったら仕方がない。でも、どうせ伝わらない、と思って引っ込めることは、世界に対して失礼な態度に思えるので、私は私の全体であなたに対峙しています、という、せめて姿勢はそうでありたい。そうすることで、相手が何かを感じてくれたらラッキーですし、いつかどこかで、その人のアクションに繋がるかもしれないですし。

わかり合えない、という前提が恵みになる

ーー私は、思いの共有をどこか諦めてしまっているかもしれません……。

Miho:それで言ったら、私はどこかで深く、人はわかり合わない、わかり合えないっていう前提を持っていて。だから自由なのかもしれません。逆説的に聞こえるかもしれないませんが。仏教の言葉で「独生独死 独去独来」ってありますよね。その通りだなと。

独生独死 独去独来(どくしょうどくし どっこどくらい)
独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来たる。『無量寿経』にある言葉。人は根源的に孤独であるということ(但し、悲観的な意味に留まらない)。

本当に、人と人とはわかり合えない。だって、違う世界を見て生きているから。でも、そんな中に共鳴する何かがあることは素敵だなって。わかり合えないという言葉だけ聞くと、寂しい、絶望、孤独、みたいに聞こえるかもしれないけれど、それは同時に恵みでもあると。そう思って、ここまで生きてこられたのかもしれません。

一人残らず、それぞれの価値観で、それぞれのよかれを一生懸命やっている。風みたいに軽く、変化を続けて、周りを変えていく人もいれば、ゆったり構えて見守って、変化をはぐくんでいく人もいる。だから、みんな適材適所で。それぞれがあっての全体で。一人に備えられているものには限度があっても、みんなの装備を持ち寄ればいろいろなところに行ける。それが、それぞれの人にそれぞれのものが備えられている意義だと思います。

ーー話を聴きながら、ずっと「全体」という言葉が頭にあります。全体の中の一人、全体の中で生かされる私、という考え方が、Mihoさんの中にはあるんだなと。

Miho:そうですね。Yuさんに言われるまで気が付かなかったけれど、すごく、そうかもしれません。発想のスタートに自分という気持ちが元々あまりないのかもしれませんし、人がそれを「利他」と呼ぶならそうなのかもしれないです。私はあまり行動派じゃないけれど、みんなと手を携えてよい潮流を作っていきたいです。ベターなアンセスターを目指したいし、目指そうとする人たちにとって良き隣人であれたらいいなと思っています

Mihoさんについて

Mihoさんと知り合って約3年。神谷町光明寺テンプルモーニングで出会い、2019年6月身延山久遠寺で掃除巡礼を共にしたことで、一気に関係が深まりました。Mihoさんは、自分のことを「変わっている」と言いますが、私はあまりそう感じたことはなく、「自分で感じて、自分で考える」を体現している素敵な友人です。

今回、Mihoさんにお話を伺い、残ったのは「全体」という言葉。全体の中の一人。全体の中で生かされる私。各々に備わっているものを持ち寄ること。それなら誰にでも、その人だからできることがあるはず。私に備わっているものは何だろう。それぞれが自分の賜りものを見つけて、みんなでさまざまな種をまいていけたらいいなと思いました。

◆Mihoさんより
ご縁の網に掬われて、世界のすきまを生きています。最近の興味関心は、「勇気」「拗ね/甘え」「marginalized」など。
日本海に浮かぶ島に通いながら、これからの暮らしや生き方を手探りしているところです。見たい景色を見たい。

今回の対話にも呼応するMihoさんの記事。彼女の思考の軌跡を味わえます。
ぜひお読みください。

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