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『オーバー阿佐ヶ谷』30〜36(まとめ読み用)

30.

 昨夜は俳優に格の違いを見せつけられてしまった。西麻布という立地的優位性、隠れ家的バー、高い酒、金払い。全ての点で負けていた。一刻も早く怪物を捕まえて、私も救ってもらわなければならない。メジャーシーンへの殴り込みの準備はとっくに整っている。あとはきっかけさえあればーーー。

 朝の陽光は台所から差し込み、部屋全体を明るく照らしていた。そのせいで四畳半は一層にみすぼらしさが目立つ。ここは私の居場所ではないように思えてきた。昨日、小牧の話を聞いたせいかもしれないが。『スカーフェイス』のポスターは土壁に居心地悪そうに貼られ、トランペットは剥き出しのまま畳の上に転がっている。あらゆるものが「ここじゃない」と叫んでいた。

 太陽光で透過された紫色の煙越しに『PIMP』の表紙の文字が光って見える。ーーー女を使って商売をするスキルはどうやら私にはないらしいぜ、アイスバーグ。
 手の内に残されたメイクマネーのカードについて考えてみる。ラップとラッパともの書き業。どれも未だに芽の出ない不良種ばかりだった。
 ”野菜”直送便のアルバイトは胴元から根こそぎ警察にガラを攫(さら)われ、頼みの綱(ジョーカー)の怪物は行方知れず。
 ということは何もなかった。手持ちの札で作れる役はポーカーで言う”ノーハンド”というやつだった。


 S53はラッパーの当たり年で豊作だったが、それより数年下った年に産まれた私には何の実も実らず、根腐れだけを起こしていた。

 ーーー全ての経験はアートに還元され、メイクマネーに絡みつく。この悔しさ、泥を舐めたその味、集大成。もはや俺の存在こそがアートだ。

 私は”ジョイント”を消して、シケモクにした。

          *

 メロウな気分に浸りたかったので、Lil Robの『Neighborhood Music』を流した。真っ黒なギャングスタ・ラップとはまた違い、水彩画のパレットを思わせる色彩豊かな感覚を抱かせるチカーノ・ラップ。スペイン語訛りの英語が混ざっているせいかもしれない。

 あまりにも哀しいと人生は人に文章を書かせる。そうして自殺者の枕元には遺書だけが残る。薬瓶と共に。幸いまだ死ぬつもりはなかった。ラッパーは殺される以上に華々しい死に様はない。ドライブ-バイをされようにも車すら持っていなかった。
 マシンガンの代わりにペンを取り、ノートにリリックを綴った。

精神異常
木洩れ日こそ無双
令嬢の指にはめた結束バンド
手錠以上令状getta-out
『ライン引いて鼻から吸引』
これが俺のパンチライン

 そこまで書いたところでスマートフォンが振動を始めた。悪い知らせしか伝えない現代の恐怖新聞が。画面には非通知の文字。つのる嫌な予感だけは外れたことがない。

「もしもし?」切迫の極みのような声だった。「今どこにいますか?」と真妃奈は言った。
「俺 in da House.」
「驚かないで聞いてくださいね」
「オーケー。今度は誰が死んだんだ?」
「ワタシ、見ちゃったっぽいんですよね」そこで大きく息を吐くような音が聞こえた。「怪物」



31

【小石川真妃奈の場合①】

 あー。面倒くさかった。ダルいダルい、そしてダルい。おっさん二人相手にコンパニオンみたいな真似事するなら時給欲しいわ。怪物?馬鹿くさい。いい歳した大人が何信じてんだろ。大人になれ、って話だよホント。

 寒いなぁ。あのバーで何か食べさせてもらえば良かった。何か買って帰ろうかなー。でも、この時間に何か食べたら絶対太るだろうな。ただでさえ、脂肪が落ちにくい年齢になってきたのに。お肌の曲がり角、出産適齢期、「結婚はまだなの?」。あーうるさい。セクハラセクハラ。

 でもマジ友達はみんな結婚していくなー。そういえば、この前の式の料理サイアクだったな。お花の飾り付けもケチってたし。どんだけ金ねーんだよ。御祝儀三万なんてぼったくりもいいとこだよ。でも、あの目。勝ち誇ったようなあの目が忘れられない。負け組女達を見下したようなあの目。ウザッ。あのデブ、ウザッ。ちょーし乗んなよマジで。

 さっきの小牧なんとか、って芸能人、パパ活してくんねーかな。お茶は一回二万、カラオケ二時間五万、一日デートで十万、その先はーーー。うーん。アタシの値段って今いくらが相場なんだろ。もうJKじゃないしなー。エンコーやってた頃が懐かしー。またプラダの財布とかグッチの鞄とか持ちてー。

 あの変な名前の三つ編みクソラッパー、「電車で帰ろうぜ」なんて随分舐められたもんだなアタシも。女相手にタクシー代もケチるようじゃ先が見えてるね。きっと夢を追いかけるとかなんとか言って、ずっと独り身で最後は孤独死すんだろーな。社会の迷惑。ホントさっさと死ねって感じ。

 てかケータイ番号とかいらないっつーの。下心見え見え。マジキモいからホント。LINEとか教えなくて良かったー。なにが「場所が分からなかったら電話くれ」だよ。掛ける訳ねーじゃん。何の為のスマホだよ。Googleとか知らないのかな。やだやだ。歳は取りたくないねー。

 んーーーーー。

 ーーー潮時、かな。演劇にもそろそろ見切りつけよーかな。実家を出る口実に始めただけだもんな。ホントは演技とかキョーミないし。それに演劇界って全然イケメンいないし、みんな貧乏だし、サイアク。ファンはいちいちダメ出ししてくる口うるさいキモいオヤジばっかだし、趣味悪い差し入れもらって笑顔で「ありがとー♡」なんて、何やってんだろアタシ。クッキーなんかより金よこせっつーの。アタシとチェキ撮りたかったら一回壱万円だろ馬鹿野郎。五百円なんて今どき何買ぇやいいのよ。

 早くいい男見つけて結婚してー。私を愛して養ってくれて贅沢させてくれるような男、どっかにいないかなー。港区のタワマンとか住んで、ママ友とフレンチでランチして。あー働きたくねー。てか、さみぃー。喪服薄着過ぎ。

 …あったあった。ここか。『ソルト・ピーナッツ』。全然お洒落じゃない。汚ったねー店。イスにケツつけたくねー。でもって、トイレとか最悪そう。未だに和式かな。コンビニ寄ってくりゃ良かったー。

 中にいるおっさん引っ掛けて二、三杯奢らせて早く帰ろー。あー生理痛ー。ハラ痛ぇー。



32.

【小石川真妃奈の場合②】

 随分前に取り壊され、長いこと空き地になったままのスターロードの一区画。夏に繁った雑草はまだ子どもの背丈くらいの長さを誇っていた。一面の緑は画角の切り取りようによっては草原を思わせる。
 その草むらが揺れている。風はない。何かの物体が動くことで草むらの一部が生き物のように揺れている。

 ーーー誰?何かいるの?猫…かな。

 と真妃奈は思った。微かに鈴の音が聞こえたような気がした。

 酔いも手伝ってか「おいでー」と真妃奈は言った。普段ならこんな草むらに見向きもしない。ましてや服が汚れるのを厭って、足を踏み入れるなんてもってのほかのはずだった。でも、今日はなんだか無性に猫を触りたい気分だった。思うようにならない世相や日々のささくれだった心が小さな癒しを求めていたのかもしれない。

 草むらに足を踏み入れ、軽く舌を鳴らしてみる。チチチチチ。チチチチチ。昔、実家で(他の部屋の住人には内緒で)飼っていた猫を呼び寄せる時の記憶がそうさせた。ーーートラ吉はいつも跳ぶように寄ってきた。猫なのにとても人懐っこくて。在りし日の記憶がまざまざと蘇り、真妃奈の心は温かい気持ちと淋しい気持ちのまだら模様になった。

 草むらの奥で、重く鈍い、何かが移動する音が聞こえる。それは真妃奈の前方の足元の方で鳴っていた。

 ーーー絶対、猫だ。間違いなく。

 真妃奈は草むらを分け入り、音のする方へ進んだ。奥に行くに従い、雑草は徐々に高さを帯びてくる。音は右へ移動した。

「怖くないよー出ておいでー」と真妃奈は言った。喪服のポケットを探るも餌になりそうなものは何一つ入っていなかった。真妃奈は指先についた埃を擦り合わせた。埃に覆われた自分の指先の感覚はどこか他人のもののように感じられた。真妃奈は猫が驚かないよう慎重に出来るだけゆっくりと歩を進めた。

 真妃奈の足音に反応する様に、草むらの揺れは大きくなる。ーーーもうちょっとだ。と真妃奈は思った。暗闇に光る二つの目。ーーー猫猫猫。にゃんこ。

 真妃奈の胸の高さほどの雑草が小刻みに揺れている。ーーー見ぃつけた。真妃奈は雑草をかき分けた。そこには何もいなかった。ーーー逃げちゃったの?と真妃奈は思った。

 背後で草の擦れる音がした。ーーーそっちか!真妃奈は急いで振り返る。ーーーいない。真妃奈はゆっくり首を戻した。

「あっ」

 目があった。それは同じ目線の高さで目があった。真妃奈には一瞬、何が起きているのか理解出来なかった。ーーーあれ?今って舞台の本番中だっけ?と真妃奈は思った。

 姿を現した”それ”はいつか観たミュージカル『Cats』の俳優が演じる猫人間のようだった。細長い肢体は虎柄のウェットスーツを着ているような肌に張り付く艶かしさがある。その後ろでは蛇のような尻尾が左右に揺れている。どことなくコミカルな顔。ペイントでも施したように”猫らしさ”を強調していた。

 “それ”は一歩ずつ真妃奈の方へ近づいてきた。草が踏み潰され倒れていく音が徐々に大きくなってくる。尻もちをついた真妃奈を見下ろす、縦に細い瞳孔。真妃奈は気を失いそうになるのを必死に堪えた。



33.

 少し部屋が暗くなった。太陽が雲に隠れたのだろうか。それとも私の心が翳っただけなのだろうか。電話越しの声は途切れ途切れで、どこか建物の中にいるような反響音が混ざっていた。

「会えませんか?」と真妃奈は言った。
 通常のシチュエーションなら諸手を挙げて飛んでいくところだが、今日はどうも”その気”になれなかった。
「逆に今どこなんだ?」儀礼的に訊ねる。
「なんだか怖くて。今朝から実家に戻ってるんです。北区の桐ヶ丘の団地なんですけど」
「へえ、団地育ちなんだ。羨ましいね」
「馬鹿にしてるんですか」
「いや、ラッパー憧れの生誕地、それが〈団地〉だよ。誇りを持った方がいい」

 少しだけ沈黙の時間があった。電話を介すると相手が今どんな顔をしているのか分からないのがもどかしい。泣いているのだとしたら、行かなければなるまい。それが昭和の男の矜持だ。
 しかし、今更行ったところでどうなる?怪物はもうその場にはいない。捕らえた、というのであればまた話は変わってくるが。自慢されるか、事細かに会った時の詳細を三〜四時間かけて語られるかのどちらかだろう。それを聞いたところで私が怪物に会えるという保証はない。
 それより今はただ、”ジョイント”によって創り出されたドープなこの気分に浸っていたかった。

「それで…来てくれますか?」
「まー、誰かに原付借りれりゃあ三〜四十分くらいで着くだろうな」
「それじゃあーーー」
「考えとくよ」
「待ってくださいよ!来ないつもりでしょ」
「行くよ。歩いて。多分、夜更けには着けると思う」
「怖いんです。それになんだかとても淋しいんです。馬龍丑。さんの顔が今とても見たいんです」そこで女優の声色が少し憂いを帯びた。「女はね、男より穴の空いてる数が多いから寂しがり屋さんなの」何処かしら色仕掛けを思わせる声のトーンだった。何かにつけ、女は色仕掛けだ。まぁ嫌いじゃない。
「俺も怖いんだよ。外では”マトリ”が見張ってる気がしてならないし、クスリが切れちまって、左右の鼻の穴も随分と寂しそうだ。早く”コーク・ザ・スノー”さんの顔が見たいよ」
「もういいです!マジ使えない!」

 電話は切れていた。いつだって電話は向こうに切らせる。それが紳士のルールだ。アッシーメッシー俺ラッパー。

          *

 かりそめの”やる気”を呼び起こす為に、冷蔵庫から五百ml缶のビールを取り出して、プルトップを起こす。

 ーーーよし。これで原付の線は消えた、と。

「悪りぃ。ビール飲んじゃってさ。今日は無理だな」これで良かった。アーティストの系譜に繋がる言い訳としては抜け目がなかった。ただ、広大無辺な心の片隅に三ミリだけ存在する”良心”と呼ばれる部分が疼いた。もしくは、”下”心が。

 灰皿で先端を潰されたまま、吸われるその時を待つ”ジョイント”を拾い上げる。

 ーーーこいつで足腰までブリッブリッになっちまえば。

 台所の片隅に転がっていたマッチを手繰り寄せる。それは昨日の西麻布のバーのものだった。洒落た横文字とカクテルのロゴが描かれている。
 ーーー「君たちも東京という怪物に呑み込まれないように気をつけた方がいい」小牧亨のやや低めの声が耳の奥に蘇る。

 “ジョイント”をしまい、煙草に火を点けた。缶ビールを台所のシンクへ逆さまに置く。

「くそっ!」と私は言った。

          *

 私はアイスバーグ・スリム『PIMP』を掴み、バッグに押し込んだ。漂う最後の白煙を見送ってから換気扇を消した。部屋の照明を落とし、ブーツに足を入れる。紐を締め上げ立ち上がる。ふと思い立ち、ディオールの香水を空中散布し、全身で浴びた。これで闘いの準備としては完璧だった。”男”が整った。
 玄関を開け、そして後ろ手に鍵を鍵穴にぶっ刺した。

 女の、小娘の、真妃奈の手練手管にハメられた訳じゃない。ーーー断じて。ハメるのはこっちだ。ーーーいつだって。

 股、おっぴろげて待ってやがれ。



34.

 フッドのホーミーから借りた原付で明治通りを爆走する。後ろからけたたましいクラクションが響く。曲がりもしないのに右ウィンカーを付けっぱなしにしているせいかもしれない。かりそめのメトロノーム。ウィンカーが刻む間欠的なビートに合わせて、ライムをフロウしていく。

          *

曲がるつもりもないのに付けっぱなしのウィンカー
メカニカルに刻むその音メトロノーム代わりに
これが俺のビート/唇はヒート
原付の上のステージ/疾走するメッセージ
グルーヴするぜ言葉の渦潮/リムーブしろよハミ出す単語

右のウィンカーは点滅中
だけど進むぜ、そのまま検問でも
デーモン轢き殺して
遺体に顔射

鳴らされるクラクション
裏拍に鳴るラッパみたいに「パッパー!」
俺はラッパー
お前のパパじゃないぜ生憎

トラック作る時は協力してくれよトラックドライバー
デコトラで突っ込んできてくれよRecブースにドカジャンパー着てさ

明治通りを爆進中
RAPしながらガシマン中
方針はドープに更新中
行進するブレーメンが扇動中

欲動するぜ
その躍動する腰周り
北区中をドサ回り
王子を越えて、それから桐ヶ丘の方へ

          *

 教えられた住所に着いてみると、そこにはもう誰も住んでいない団地群だけがあった。サングラスを外した肉眼で見ても廃墟だった。住所の聞き間違えか、あっちの伝え間違いだろうと思って、もう一度連絡する為にスマートフォンを開く。番号は知らないが、さっき掛かってきた番号に掛け直せば良ーーー。

 ーーーそういえばあいつ、非通知で掛けてきやがってた。

 私はスマートフォンを片手に持ったまま途方に暮れていた。誰もいない廃墟団地群の真ん中で。既に枯れ始めることを選んだ雑草が乾いた音を立てて揺れていた。

 ーーーまぁ次のミュージックビデオの撮影場所のロケハンに来たと思えばいい。何事も無駄がない。【どん底から這い上がるのがサグライフ】だもんな。しばらくしたら業を煮やしてまた掛けてくんだろ、あのbitchも。

 とりあえず時間潰しに指定された号数の団地の中に入ってみる。建物内は暗く、外の青空からは隔絶されていた。そこには冷んやりとした空気がしばらく動いていない澱みとなって充満している。枯葉が階段脇に固まっていた。
 何かの視線を感じた。暗闇の奥に目を凝らす。猫だった。虎柄の猫。その猫は私を射るような視線で見つめていた。しばらく見つめ合ううちにあることに気が付いた。ーーーこの猫は私を見てはいない。私を透過し、私の背後にある何かに目を光らせている。
 振り向くには勇気が必要だった。ゆっくりと振り返るべきか、一挙に首を回した方が良いのか。迷っていた。どちらにせよ結果が同じであれば、迷う必要もないのだが、選択肢によっては”見てはいけないもの”を見てしまう恐れもある。ーーーそれだけは避けたかった。

 私は時限装置付きの爆弾を解除する時の慎重さで首を回した。借金はないから簡単に首は回った。

          *

 見覚えのある顔がそこにあった。”つり橋効果”で危うく惚れてしまうところだった。
「もうちょっと何か登場の仕方は考えてくれよ、Lady」



35.

 真妃奈の顔は昨日最後に別れた時より随分と青白くやつれているように思えた。両手で肘の部分を抑え、微かに膝が震えている。その姿は何かから必死に自分を守っているように見える。私は真妃奈を団地の外へと連れ出した。三時過ぎの太陽は土曜二十八時に於けるクラブダンサーのように持てる気力の全てを振り絞って踊っていた。

「何を見たんだ、一体」と私は尋ねた。
「ここ、ワタシが生まれ育った団地なんです」と真妃奈は言った。「四階の402号室」
 どうやら私の質問に答える気は無さそうだった。
「都営団地はペット禁止なんだけど、ママが内緒で猫を飼って良いよ、って。でも他の人たちには秘密よ、って」虚ろな目をしていた。「パパは早くに死んじゃって、ママの再婚相手はどうしようもないクズでーーー」
 突如として始まった真妃奈の自分語り劇場を私はただ黙って眺めるしかなかった。小牧にしろ、真妃奈にしろ、怪物に遭遇した人間は自分語りをしたくなるものなのかもしれない。まだスタンディングオベーションをするには早かった。真妃奈は続けた。
「今はここから五分くらいの新しく建った団地に移ってるんだけど、でも時々こうしてママとトラ吉とーーーあ、トラ吉っていうのは飼ってた猫の名前ねーーー三人で暮らしてた頃を思い出したくて、この場所に来るの」

 ーーー乱雑に繋げられるWord、俺は持ってるぜweed。
「ちょっと落ち着けよ。”草”でも吸うか?」私は煙草の箱に入っていた吸いかけの”ジョイント”を真妃奈に差し出した。「結構、”良いやつ”だから足腰にくると思うけど」
 真妃奈は潰れて黒くなったペーパーの先端に火を点け、ゆっくりと肺に空気を溜めた。ややあって鼻から吐き出された煙は甘く、干し草のような香りがした。

 一連の動作を眺めるにつけ、
 ーーーこいつ、慣れてやがんな。
 と思った。

「ワタシはただ実家を、あの男の元を、離れたかっただけ」真妃奈は親指と人差し指で摘んだ”ジョイント”をもう一度吸ってから、団地の壁に投げつけた。薄汚れた白の壁に当たって火の粉が弾け飛んだ。「別の場所で別の誰かになりたかった」
「それで演劇を?」
「本当は芝居じゃなくても、何でも良かった」真妃奈は自分の煙草を取り出し、火を点けた。パーラメントの1ミリ。ストローみたいに細長いやつだ。「ただ当時付き合ってたカレシが役者やってて、そのアパートに転がり込むような形で阿佐ヶ谷に引っ越したから、なんかそのままズルズルと」
「よくある話さ」ーーーああ、全くよくある話だ。
「ワタシの夢って何なんですかね?」
 私に尋ねている、というよりは自分自身に語りかけているようだった。だから何も言わず、黙っていた。

 真妃奈はパーラメントを何度も何度も口元に持っていっては、結局吸わずに唇から離した。
「今朝、形だけ所属してた事務所から電話があって『ドラマの仕事が決まった』って」
「でも、全然嬉しくなくてーーー」私は真妃奈に代わって後を継いだ。「ーーーだろ?」
「贅沢、ですよね」
「今も底辺を這いつくばっている人間からしたらな」
「ごめんなさい」
「でもきっと人生ってのはそういうもんだと思うぜ?【それを強く望む者は手に入れられない】。なんだか聖書の一節みたいだな」
 私は胸の前で十字を切った。それが正しいのかどうかは分からなかった。

「なんか全部見通せちゃったんです。自分がこれからどんな人生を送って、何歳でどんな風に死ぬのかまではっきりと」
「随分と暗い顔だな。そこにスキャンダルやハードなプリズン生活でもあったのか?」
「平々凡々な人生。それがきっとワタシが望んでいたものなんだと思います」
「これから芸能界入りしようとする娘の台詞にしては随分慎み深いんだな」
 私は両手を眉間の前で重ね合わせた。尼さんが祈るみたいに。

 軽く吸われたパーラメントはそれに等しい薄い煙しか出さなかった。
「”怪物”っていると思いますか?」
「そりゃいるだろうね、勿論」私も自分の煙草に火を点けた。雨後の下水のように枯葉の詰まったアメリカン・スピリットに。「そうじゃなきゃ、世の中は良質なエンタメで溢れかえっているだろうからな」

 私の皮肉に気付いたのか、それとも気付くだけの知性と教養を持ち合わせていなかったのかは知らない。真妃奈はただ頷き、寂しげな背中だけを私の脳裏に残して、地獄(じっか)へと続く道のりを帰っていった。

          *

 太陽が沈もうとしていた。空は紅く染まり、世界を巻き添えにして燃え落ちようとしているみたいだ。あれで明日も昇ることが信じられないほどに。

 その日以来、真妃奈から再びの電話が掛かってくることはなかった。



36.

 ーーー世の中に打って出る為の下積みが長過ぎる。いつまで待たせやがんだ、神マザファカ様の野郎は。

 ストリートビジネスでハスリングした金ももうそろそろ尽きようかというところだった。ライブへの出演予定はなく、客演の誘いも絶えて久しい。【RAPするラッパ吹きでもの書き】が今や【ザッピングする真っ裸の三つ編み】に堕ちている。どうしようもねぇ。
 それでも一応、新曲をドロップしてサブスクに挙げたが、無いに等しい視聴回数を叩き出しただけだった。乾燥”野菜”も残りあとわずか。角瓶のウィスキーも底にあと指一本分。全てが裏目に出たサイコロゲームのように世界と反目し合っている。

 ーーー何故、あの二人は怪物に救われて、私だけが取り逃すのか。

 二人の共通点といえば、役者だってことと苗字に【小】が付くことくらいだ。怪物は役者しか救わないつもりなのか。それとも苗字として一生涯付き纏う【小】の字を憐んでのことなのか。
 悩んでも答えは出なかった。いっそのこと役者に転身して【小馬龍丑。】として生きていく覚悟も固めたが、あまりにも小物歌舞伎役者感が凄いので止めにした。

          *

 『Jazz Immortal』をターンテーブルに載せる。クリフォード・ブラウン。馬並みの性慾と象が如き薬物への耐久性を求められた当時のジャズ界にあって、酒にもドラッグにも浸らなかった男。そんな男のペットパイプからは青春最後の炎が散っていくような音がする。ズート・シムズをサックスに迎えたハード・バップの真骨頂。
 シラフ&クリーンな身体であんなプレイをやられた日には、神が命を奪(と)ろうと画策するのも当然だろう。そうじゃなきゃ薬禍に染まった他のジャズメンに示しがつかない。神の差し向けた交通事故。それは一度失敗し、二度目にようやくその目的を達成した。

          *

酒で死に、
クスリで死に、
それらに手をつけなくてもやがて死ぬ。

撃たれたり刺されたりしても死ぬし、
自分の内側が破裂して死ぬこともある。
自分で手首を切る奴、首くくる奴、飛び降りる奴、ガス吸う奴、望んでもいない事故に巻き込まれる奴。
全部ひっくるめてレストインピース。

結局のところ、
皆死に絶えて
残るは塩基配列という古代アート。

          *

 残った金の使い道について考える。一番クールな活用の道を。それがギャンブルでないことは確かだった。ストリートのハスラーではあるが球撞き『ハスラー』ではない。ラッパーとしての使い道を、鉄球転がしじゃない方の”ボウラー”として成り上がる為の使い道を。

 ーーー全国規模、世界規模のアーティストになるには一体、どうしたら良い?

 ワールドワイドウェブによって世界中が繋がった世界にあって、私は何にも引っかかっていなかった。蜘蛛の巣の隙間から落下した哀れな一匹の冴えない虫。喰われることもない代わりにヒリつくスリルもない。生が腐っていくような感覚だけがあった。生きながらにして廃墟。生まれながらにして自転車操業。

 ーーーあともう一度。あともう一度だけ怪物に逢えさえすれば。




#阿佐ヶ谷 #北区 #桐ヶ丘 #小劇場 #演劇 #小説 #短編小説

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