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喇叭亭馬龍丑。日記「ウィスキーボンボンとキャバレー」4/6(土)

2024.4.6(土)

「ウィスキーボンボンとキャバレー」

 皆様におかれましては、ウィスキーボンボンなるチョコレート菓子を食べたことがあるだろうか。そう、あの薄いチョコによってコーティングされたウィスキー爆弾である。アレの主体はウィスキーのくせにチョコみたいな丸い顔をしていやがる詐欺師的な奴である。

 御多分に漏れず、僕がそれを食べたのは幼き頃。悪い大人に貰った時である。

「わー。チョコだ!」と何の疑問も持たず、口に放り込んだ。

 噛んだその刹那に口腔内で爆発した。鼻腔は初めて嗅ぐ薫りに混乱をきたし、味蕾を通じ、海馬が痺れた。その刺激は脳内に巧妙に隠されていた前世の記憶までをも引き出すほどであった。

 その苦み、その官能。世界への懐疑と宇宙への信頼を一瞬にして獲得してしまった。眼前には極彩色の光景が広がり、これが涅槃か、と。

*

 子どもが酒を酒と知らずに口にしてしまった時の混乱は罪悪感と共に記憶される。

 幼稚園児時代に(ギリ昭和か平成超初期。きっとバブルだったのだろう)社員旅行に連れて行かれた。どこかの温泉地のホテル。夜。ホテルに併設されたキャバレーの暗がりではしゃぐ大人達に混じってウーロン茶を飲んでいた。なにせ暗い。ふとした拍子にグラスが入れ替わったのだろう。著者は目の前のグラスを掴んだ。疑いもせずに。そして飲み干した。誰が疑うだろう、それを。

「毒、飲んだ」と思った。喉が灼ける感覚。胸が燃え上がる。身体が全てを拒否する。ーーーこれは死ぬやつだ、と。

 皆が楽しそうなのを覚えている。それを僕の死によって壊滅に追い込むことは罪だと思った。誰にも気付かれぬよう、そっと席を立ち、重い扉を押し開いて廊下に出た。眩しい蛍光灯の冷たい光。壁伝いに部屋へと戻り、布団の中で泣いた。幼くして死ぬことの恐怖というよりも、ここまで育ててくれた両親祖父母から断絶される罪悪感から。

*

 次の日の朝、普通に目が醒めた。そして今これを書いている。

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 ウィスキーボンボン。実に昭和を感じさせる一品である。(生誕はもっと古いのかもしれないけど)。ウィスキーボンボンを思い出すたび、このホテルでの一件も想起される。震え崩れるような罪悪感と共に。


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