短編64.65『生き霊の孤独さを偲ぶ』(まとめ読み用)
私はいつの間にか産み出された。(それは全人類がそうなのかもしれないが、私は私から産み出されたという点で特異だ)
その事実に気が付いたのは、私には過去がなく、未来すらない、ということに思い至った時だった。
私には”今現在”しかない。そして、一つの目的の為だけに生きている。これがもし生身の人間であれば、「あれもしたい、これもしたい」と思うのが常だろうが、私がするべきことは決まっていた。
ーーー監視。
それが私の全てだった。
*
それからもう一つ、気が付いたことがある。
どうやら私は透明で、誰からも見えないらしい。
試しに近くにいる人間に触れてみる。私の手は相手の肩を通過し、心臓の鼓動に直に触れていた。またある時は背中から手を入れ、腹側から中指を突き立てるようなこともやってみた。その間、被験者(便宜上、こう呼ぶことにする)は、なんだかとても寒そうにするくらいで特段の変化は無かった。
ーーー見えない。
その事実が私を歓喜させた。透明人間になればやるべきことはただ一つ。全・男の悲願、女湯への侵入のみだ。しかし、頭にそう浮かんだところで行動には移さなかった。いや、移せなかったと言った方が適切だろう。
いざ行く段になると、足は動かず、身体は鉛を巻き付けられたように身動きが取れなくなった。これが、私がただ一つの目的のみに存在していることの証左である。
*
私の目の前には常に一人の男がいる。男が移動すれば、私も自然、移動し、背後一メートルほどを付かず離れず行動している。義務、というより強制。足を動かさずとも、吸い寄せられる。
ーーーこれが女であれば。
何度そう願ったことだろう。男の生活など見たくはない。着替えやシャワー/トイレ時などは地獄である。(何度、この両目を潰そうと思ったことか)
これがもし、イケメンでモテ男のヤリチンなれば、少しは私も良い思いが出来たことだろう。
しかし、私が張り付いているこの男は、女の影すらない四十歳代の独居ニートだ。
趣味はアニメ鑑賞。五歳の少女が好みそうな変身系アニメを飽きることなく繰り返し見ている。(おかげで変身時の決め台詞を空で言えるようになってしまった)。テレビに内蔵された録画装置には、その手のアニメが百五十時間分きっちり詰まっていた。便秘の女の腹の中みたいにな。
部屋の本棚は、ビデオパッケージで埋まっている。そこでは、一つ一つのタイトルを読み上げるのが苦痛になるほど、猟奇的なものがほとんどを占めていた。部屋は足の踏み場もないほど、ゴミで溢れている典型的なオタク屋敷。万年床にはティッシュが散らばり…。止めよう。用途は分かるだろ?(その光景すら見ねばならぬ私の身にもなって頂きたい)
アニメの主人公を表紙とした雑誌はたくさん積まれているが、ただ一つとして生身の人間が表紙を飾るものはなかった。いや、あるにはあったが、その表紙は声優の形がそのまま空虚となり、次ページにある目次が表紙に顔を覗かせていた。切り抜かれた声優は壁に貼られることもなく、丸めて捨てられた。
ーーー私は何故、こんな男を監視しているのだろう。
その設問だけが私の頭を支配していた。
*
季節は夏になった。こうして毎日変わることもない男の生活を眺め始めて一か月が経つ。
この男は何日も部屋を出ることなく、アニメを見続けていた。(そして、私はその光景を眺め続けていた)
ーーー生活費はどうしているのだろう。
どうでも良い疑問ばかりが頭を巡っていた。
*
そんな生活を眺め続けることに辟易していたある日、男は大きなボストンバッグを抱えて自宅マンションを出た。蝉の鳴く暑い日だった。生き霊は暑さを感じないが、男は玉のような汗を滴らせ、焼けるアスファルトの上を難儀そうに歩いていた。やって来たのは、何処にでもある一般的な駐車場だった。休日の昼間なので、月極の駐車スペースには空欄が目立つ。
駐車場の奥まった場所に停めてあるトヨタカローラに乗り込んだ男は東八道路にタイヤを滑り込ませた。景色は暫くののち、西東京特有の景色に変わった。それは広い空と濃い緑に象徴される武蔵野の原風景だった。
ーーーどれほどの距離を走ったのだろう。時間にして六十分ほどか。
男は眺めの良い橋の上で車を停めた。そこからの展望を満喫するかのように暫し佇み、狩りに向かうハイエナのような面持ちで斜面に打ち込まれた不揃いの木製階段を下っていく。私はつかず離れず男の後を追った。(というより、追うしか出来ない)
渓谷には涼しい風が吹いていた。川の冷気を纏った風は、肌を晒した子ども達を開放的な気分にさせている。ピクニックだろうか。しかし、そこにあるべき親達の姿は無かった。
仲間の輪から外れた一人の女児が岩場の影に座っている。花柄のワンピースに麦わら帽子を被り、川に足を浸していた。夏の一幕の情景は油絵具で描かれたように、そこだけ浮き上がって見えた。
男はゆっくりと女児に近づき、二言三言、言葉を交わした。女児は(子どもに出来る精一杯の)神妙な顔をして頷き、男の後をついて行った。私の目の前を歩く、男と女児。
ーーー嫌な気分だった。
これから起こり得ることが容易に予見出来た。
ーーーやめるんだ。ついて行ってはいけない。
いくら叫んでも、私の声が女児の耳に届くことはなかった。
男と女児(と私)はトヨタカローラに乗り込んだ。後部座席のドアが閉められ、そこは密室となった。不安気な女児の気持ちをほぐそうとしたのか、男は「大丈夫だからね、すぐに連れて行くからね」などと不慣れない甘い口調を全面に押し出した声色で話しかけている。それが益々、不安を掻き立てていることには気付いていないようだった。
私は私なりに必死だった。触れず、聞こえず、止めることの出来ない現実を前に可能性を模索していた。もしこれが映画であれば何らかの特殊能力を発揮して間一髪でバッド・エンディングは避けられるのだろう。しかし、生身の生の前に生き霊は無力だった。
その間にも車は走り続け、窓から見える景色は鬱蒼とした林ばかりとなっていく。陽は陰り、空から垂れ下がるようにして掛けられた道路標識には埼玉の地名が現れ始めている。ひと気は無く、蝉の声だけがエンジン音に被さるようにして聴こえていた。
女児は泣き始めた。最初はしゃくり上げる程度のものが、今や割れんばかりの号泣に変わっていた。
ーーー静かにしなければいけない。男を興奮させてはいけない。
指先でハンドルを叩く、男の神経質な心持ちがこちらに伝わってくる。その指先を女児の細い首元に近づけさせる訳にはいかない。窓の外はもう宵闇に包まれており、獣の気配だけが濃厚に漂っていた。道はカーブに差し掛かり、その先は山越えのトンネルになっているはずだった。
フロントガラスから、道を塞ぐようにして停まる一台のワンボックスカーが見えた。その車の横には年配の男が立っており、こちらに向けて手を振っている。ワンボックスが道路を横切るようにして停められている故、車を止めるほかなかった。
「ちょっと手伝ってもらえませんかね」と年配の男は言った。
年配の男が指差す先の路肩には、日産ラングレーが脱輪した状態で停まっていた。そのラングレーのそばには、陰鬱とした雰囲気を纏った青年が俯き加減に立っている。
年配の男に促されるままドアを開け、男は車外に出た。私も慣性の法則に随(したが)い、男の後を追う。三人の男は日産ラングレーの前に陣取り、路肩からタイヤを引き摺り出す方法について話し合った。普段、無口な男は饒舌に喋った。焦りと不安に急かされるように。
結局、年配の男が運転席に乗り込み、ことなきを得た。
*
男がトヨタカローラに戻ると、後部座席は既に空になっていた。
ーーー助かった。
と私は思った。
「助かった」と男は言った。
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