越境ワーキングをゲーム理論で考える
2019年12月に中国で発生したとされる新型コロナウイルスの影響により、2020年以降の私たちの生活は大きな変化を迫られることになった。外出自粛や移動制限、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションが制限されることなどで働き方も変わった。それまではオフィスなどの物理的空間における対面型の働き方が一般的であったが、テレワークなどのリモートワークを導入する企業も増加した。しかし、リモートワークにも現在は課題がある。たとえば、森川(2020)では在宅勤務はオフィス勤務と比較して生産性が約70%となることが示されている。また川口(2020)では仕事のタスク特性によりテレワークの実施確率に差があることを示している。このような課題もある一方で、リモートワークの導入によりこれまで働くことが出来なかった人材が労働市場へ参加できる可能性も考えられる。そのひとつが、日経COMEMOが募集している #越境ワーキングが救う人材 である。たとえば、海外に在住する日本人や外国籍の人材が日本国内にある企業で働く、反対に、日本国内に在住する日本人や外国籍の人材が海外にある企業で働く。リモートワークはこのような働き方も可能にすると考えられる。
本稿では、越境ワークにおける組織の課題や越境ワーキングが変える労働市場などについて考えてみることとする。
1 越境ワークにおける組織の課題
越境ワークにおける課題を考える上で、経済学のゲーム理論を用いてみることとする。ゲーム理論とは、経済社会では人々が一定のルールの下でそれぞれの目的を実現しようとする一つの「ゲーム」であり、人々の意思決定は互いに影響を及ぼし合うという意味で相互依存的であるという社会認識を持つ。
このゲーム理論を用いて、越境ワークにおける組織の課題を考える。
まず、ある企業において方法A(リモートワークを実施できる)と方法B(リモートワークを実施できない)という仕事のやり方(労働環境)があると考えてみよう。メンバーは非越境ワークと越境ワークによって構成される。非越境ワークと越境ワークの両方のメンバーが方法Aを選択すると両方のメンバーは10の利得を得ることができ、両方のメンバーが方法Bを選択すると両方のメンバーは0の利得を得る。異なる仕事のやり方が選択された場合、(非越境ワーク、越境ワーク)=(5,0)または(0,5)の利得を得る(下の表を参考)。
(オフィス勤務も認められる)リモートワークを実施できる労働環境が整備されていると、リモートワークを実施することが労働者にとってマイナスの評価とならず、労働者の負担やリスクを軽減したり、オフィス勤務とリモートワークを選択できることで非越境ワークと越境ワークの利得は増えると考えられる。しかしリモートワークを実施できない環境であれば、越境ワークの利得は0の利得(あるいはマイナスの利得)となるであろう。柔軟な労働環境を整備することは、越境ワークだけでなく非越境ワークの労働者にも大きな恩恵をもたらすと考えられる。
続いて、企業文化についても考えてみることにしよう。たとえば非越境ワークの信念は(β11、β12)と表され、仕事1に関する状態がXとなる確率はβ11であり、越境ワークが担当する仕事2に関する状態がXとなる確率はβ12であると信じている。また越境ワークの信念は(β21、β22)で表され、越境ワークと同様に考える。
さらに、(β11、β12)=(β21、β22)として、非越境ワークと越境ワークが同じ信念を持っているケース(一致信念)、および、(β11、β12)≠(β21、β22)として、非越境ワークと越境ワークが異なる信念を持っているケース(不一致信念)のそれぞれを考える。
また、パラメータp1、q1、p2、q2を以下を満たすように定め、
0<q1<1/3<p1<1、0<q2<1/3<p2<1
経営者は(β01、β02)=(p1、q2)という信念を持つと仮定しておく。
βi1=p1である場合、メンバーiは仕事1に関する状態がXである確率はp1であると信じていることを表す。p1>1/3であることから仕事1について必要とされるスキルはXである可能性が高いとメンバーiは信じていることを意味する。同様に、βi1=q1である場合、メンバーiは仕事1について必要とされるスキルはYである可能性が高いと信じていることを表す。
これらを表したものが下の表である。
ここでは非越境ワークの労働者が多く働く企業を仮定し、越境ワークの労働者を雇用するかどうかを考える((β01、β02)=(β11、β12)=(p1、q2)とする)。経営者が信念(p1、q2)を持った越境ワークを雇った場合には、ナッシュ均衡において、p1+(1-q2)の利得を得ることになる。また、経営者が信念(q1、p2)の越境ワークを雇った場合には、ナッシュ均衡において、p1+q2の利得を得ることになる。仮定より、q2<1/3であることから、経営者は自分と同じ信念を持つ越境ワークを雇うことが最適となる(これは越境ワークが企業に応募する場合も同様に考えられる)。
企業の経営には多様性が必要とされるが、企業文化や労働者の意識を変えていくことなどは大変難しい。本稿の仮定では経営者の信念と一致する越境ワークを雇う方が望ましいとしているが、経営学では「両利きの経営」と呼ばれる「知の深化」や「知の探索」がイノベーションに寄与するのではないかとの考え方もある。森川(2020)では在宅勤務による生産性の低下も指摘されているが、リモートワークを活用した越境ワーキングの増加が労働者のパフォーマンスや企業文化を変え、本稿で仮定したパラメータを変化させて企業の経営を大きく変えることも考えられる。しかしながら将来が不透明な現在、企業経営におけるパーパスや文化が重要であることも間違いないだろう。
2 越境ワーキングが変える労働市場
続いて、越境ワーキングが労働市場へ与える影響を考えてみる。
たとえば、リチャード・ボールドウィン氏は「遠隔移民」(テレマイグランツ)という概念を用いてリモートワークを説明する。これは、オンラインを利用すれば、海外に在住する優秀なITエンジニアやウェブデザイナーを雇い、日本国内にある企業のプロジェクトに参加してもらうというようなことである。この遠隔移民をさらに拡大させると、日本国内の地方に住む労働者が都市にある企業で働く(この反対も考えられる)という「遠隔住民」という概念に発展させることもできるだろう。コロナ禍における働き方としてワーケーションも提案されているが、「遠隔住民」はワーケーションより広義の概念であると捉えられる。越境ワーキングは海外と国内だけでなく、国内における越境ワーキングが遠隔住民であると考えることができる。移住した定住人口でもなく、観光に来た交流人口でもない「関係人口」と呼ばれる考え方があるが、遠隔住民の増加による社会関係資本の蓄積は地域の課題解決や生産性向上に寄与する可能性もあるだろう。
次に、このような越境ワーキングが増加した場合の労働市場への影響を想像してみよう。たとえば、越境ワーキングを実施する優秀な人材の獲得競争が国や企業を超えて発生する。オンラインのマッチングプラットフォームを利用することで、越境ワーキングを発掘し、採用し、管理することも容易になる。さらに、プロジェクトに適した越境ワーカーを採用することで仕事の質も向上する。越境ワーキングの採用は内外価格差を利用できるだろうが、越境ワーキングが増加することで、賃金はグローバル競争にさらされることも考えられる。デジタルを活用すれば、言語や文化の壁を乗り越えることもできるかもしれない。リモートワークは過去にあった農村から都市への労働の供給を変え、地理的な制約を解消できることで、ホワイトカラーであれば労働市場のマッチングを向上させる機能を持つことも考えられる。
これまでは都市と地方の対立で考えられていた経済が、地方と地方、都市と都市の中にあるそれぞれの二重経済の格差として捉えられていくことも予想される。テクノロジーが発展する以前、情報格差は都市と地方などの持つ者と持たざる者がひとつの要因であった。しかし現代の二重経済では、気づいている者や企業および気づいていない者や企業との格差になっていくと考えられる(当然、資源等が多い都市の方が気づいている者や企業の存在は現時点で多いと考えられる)。
越境ワーキングは、二重経済における格差で活用度が変わっていくことが考えられる。
3 おわりに
たとえば、内閣府から公表されている令和2年度年次経済財政報告では、「新たな日常」に向けたIT投資の課題として、フロー、ストック共にIT投資が先進国と比較して見劣りしていることが指摘されている。また、中小企業庁から2021年4月23日に公表された中小企業白書でも、事業継続力と競争力を高めるデジタル化がまとめられている。越境ワーキングの活用のためには、企業のデジタル化も課題となるだろう。
ジョナサン・ハスケル氏とスティアン・ウェストレイク氏による著書『無形資産が経済を支配する』では、無形資産にはスケーラビリティ、サンクコスト、スピルオーバー、シナジーの4つの特徴があるとされている。令和2年度年次経済財政報告で指摘されているIT投資の課題を克服するため、無形資産であるソフトウェアなどのIT投資を増加させ、生産性を改善することは求められる。また、IT投資を増やすだけでなく、人材もデジタル時代への対応として固定思考から成長思考へのマインドセットへと変えていくことも重要である。
越境ワーキングのためには新しい企業文化の創造や人材育成を行い、社会の空気が変わっていくことも重要である。私たちは社会的厚生が0となるゼロサムゲームで争うのではなく、富や資本を分配しながら社会的厚生がプラスとなるノンゼロサムゲームを創っていくべきである。
社会は人々の行動の相互依存関係で成り立っている。戦略を変え、利得を増やしていくことで人々の幸福が増え、再び日本の未来が明るくなるのかもしれない。
【参考文献】
■伊藤秀史・小林創・宮原泰之(2019)『組織の経済学』有斐閣。
■岡田章(2021)『ゲーム理論 第3版』有斐閣。
■リチャード・ボールドウィン(2019)『GLOBOTICS(グロボティクス) グローバル化+ロボット化がもたらす大激変』高遠裕子訳、日本経済新聞出版社。
■ジョナサン・ハスケル=スティアン・ウェストレイク(2020)『無形資産が経済を支配する:資本のない資本主義の正体』山形浩生訳、東洋経済新報社。
■森川正之(2020)「コロナ危機下の在宅勤務の生産性:就労者へのサーベイによる分析」RIETI Discussion Paper Series 20-J-034。
■川口大司(2020)「誰がテレワークできるのか?仕事のタスク特性と労務管理手法に着目した分析」リクルートワークス研究所編「全国就業実態パネル調査 日本の働き方を考える2020」Vol.1(https://www.works-i.com/column/jpsed2020/detail001.html)
■内閣府(2020)「令和2年度 年次経済財政報告」
■中小企業庁(2021)「2021年版 中小企業白書」