表現の不自由展の芸術論と、昭和天皇の肖像を燃やすのに必要な演出方法について


あいちトリエンナーレという芸術祭で、表現の不自由展が行われた。
そこで主に問題となったのは、政治的にデリケートな存在である少女像を出したことと、昭和天皇の肖像を燃やす展示である。

これへの批判として出てきた表現は、
従軍慰安婦の強制性に疑問があることや、昭和天皇含む太平洋戦争の意義などの事実性に関することと、
例えばお前はコーランを燃やすという大切なものを否定するのか、という宗教性や象徴に関わることである。
(もしくは、そんな国の権威を酷く貶めるようなものを、公的資金でやるなということだが、今回はそれは書かない)

それに対する私の考え方は、これは芸術という観点から判断すべきということだ。

芸術である以上、何かしらの真実があり、答えを出さなければならない事実とは違い、その意味が正確である必要がないのが芸術であり、対象が宗教的や国家的に大事なものであるとはいえ、その芸術が人間や世界の一面を抉りだすのに必須であるとするならば、私はそれを認めるということである。

で、これが芸術として、どうであるかだが、私はそれが最低であり、批判食らって無くす羽目になるのも、無理はない代物であると思っている。

どういうことか?

これはちょっと距離を置いてみれば、簡単にわかることだ。
ただでさえ内容が陛下や少女像という事実や政治が絡むものであるから、芸術とは何かがちょっとわかりにくくなっていると思う。
だから私はもっと単純に、誰かが好きで私が嫌いなものをわざわざ嫌いと表現することに価値はあるのかということを、問いたいと思う。

好きなものであるならば、それを作った人の人格を絡めて褒めることは、褒める存在も大抵よく思われるものであるが、その逆として、嫌いなものを、それを作った人の人格を絡めて貶すことは、それをした存在の人格をも疑われるだけのものになるから、嫌いなものを表現することに価値などない。
所詮、幾らジャニーズやAKBやディズニーが嫌いでも、それを否定することは、どこまでいっても、好き嫌いの問題でしかなく、あなたと私は違うのねで終わる話なのだ。

そこに何か価値を持つとしたら、皆が好きなその存在を否定することにより、何か優れた公的な価値を抉り出した瞬間しかありえない。

で、燃やした昭和天皇の肖像であるが、本当にそれはただ燃やしただけであり、そこに公的な価値があると皆は感じなかったし、それを書いた作者も津田大介アートプロデューサーも公的に語れるものがなかった(日本や陛下ディス語りなら見つかるが)。
だから皆、それは本当に嫌いだから、否定しただけと思われた。

公的に僅かでも納得させる理由がないのならば、
便所の落書きの私的な好き嫌いでしかなく、
私が好きなものを嫌うあなたのことが嫌いという、単純な構図に成り下がってしまった。
そうすれば後は、批判の数の大小で取り下げざるを得なくなるだけであり、結果取り下げることとなった。

津田大介はどうするべきだったろうか?
或いは、表現の不自由展をテーマにアートプロデューサーを自分が任せられたとしたら、どういうふうにすべきだろうか?

そもそもアートプロデューサーの大事な役割は何かと考える。


私はそれを、優れた存在を見抜く目と、リスク回避だと思っている。
言い換えれば、優れた哲学を持ち、優れた作品を作る者(そしてそれがどんな批判受けようと、自信満々に必要だと言える意志)に託せることと、
批判を受けるからこの作品は出さないという下らない姿勢などではなく、これは過激だがテーマには確かに含まれるものであるから、排除することはできないと言えるだけのテーマ分析ができていることである。

津田大介には、作品と作家を見抜く目がなく、表現の不自由のテーマを、左派が弾圧されたものだけを集めた(左派による弾圧は入れなかった)という偏ったものにしたので、普遍性と公共性を失い、否定されてしまった。
これでは、アートプロデューサー失格である。

そこで私は、考える。
私が任されたら、どうすればいいかと。
玉石混淆な、個々の作品の是非は置いておくとして、展示すべき普遍的で、仮に昭和天皇の肖像を燃やしたものをそのまま載せたとして、言い訳出来るほどの表現の不自由展で示すべきものは何かという、鋭い指摘は何かと考えてみる。

それを踏まえると、私はこういう演出をするだろう。

まず、入ってきた人にはくじか何かで三つの札と一つのバッジを得てもらう。
一つ目は、若者中年老人という年齢
二つ目は、男女という性差
三つ目は、会社員や経営者や政治家などの様々な職業
バッジは保守のオレンジと、リベラルの青であり、三つの札をそのバッジの中に嵌められるようにする。

それをした後に、『あなたはそのバッジの立場になりきって、この表現は素晴らしい、許せないから消すべきと思うものを、その立場を紙に書いてから三つずつ選んで、その理由を書きなさい』と言われる(できれば、そこでそのバッジの似た立場の人同士で議論できる状況を作れると、なお良い)。

そして見回って、書いた紙を、その紙を自分で撮影して記録させた後で提出した後で、外に出る時に、そのバッジを捨てさせる。
そこであなたは、そこから出た場所に、でっかくこう書かれたものを見るのだ。
『あなたは今、現実のあなたに戻りました。撮影した自分の感想を再び見て下さい。あなたは今その表現を消すべきと思いますか?その感想を踏まえ、ツイッターで議論してみよう』と。

つまり、表現を不自由にするものは、本人の資質よりも社会的立場の方が強いのではないか、という指摘を投げかけたという演出である。

ここまでちゃんとしたならば、あの昭和天皇の肖像を燃やした作品など過激なものを載せたとしても、「やりすぎだとは思ったが、本人の資質や立場両方で、消すべきと思えるものが必要だと思ったから出した」と言い訳することができたと私は思う。

こうすれば、この展示は、鋭いメッセージを投げかけたものになるし、表現を否定するものを書いた紙を、ネットに乗っけるなどにすれば、表現の自由に貢献する知見の蓄積にも繋がる、優れた展示になっただろう。

そう考えれば、酷く勿体ないことをしたなと、私は思う。
この私に任せてくれたら、他の展示でも何かそれらしきものを思いついてあげれたのになと思い、

 追加
特攻隊の旗を乗っけた間抜けな日本人の墓など、日本ディス的なものが目立ったのも悪かったと思う。そこは表現に偏りが出ないように、例えば芸術家だけでなく、様々な立場の哲学者や小説家や学者やジャーナリストに声をかけて、『あなたが思う規制すべき表現を教えて下さい、ちゃんと説明できるもので、他とあまり被らないようなものを出して下さい』と言っておけば、日本ディスが少なくなり、昭和天皇の肖像燃やす作品は日本を貶めたいだけでなく、多様にある表現の一つとして扱われていたはずだ。

追加2
私は歴史も幾らか追ってるので、戦前での昭和天皇の苦悩や決断も知ってるし、皇室へは感情的にも利害的にも大切に思ってるので、この作品はクソだと思ってる。


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