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また来た、眠れない夜


眠れない夜のことについてnoteに書いてから、どのくらい時計の針が進んだのだろう。もうずっと昔のように感じる。体感と実態は相入れるものなのか否か。あれから4ヶ月経った間にも感傷に浸る夜は幾分かあったかもしれないけど、覚えてないということはよく眠れてたということだろうね。




頻繁でもない。だからと言って、しばしばでもない。"それなりに"が似合う間隔を経て、眠れない夜がやってくる。都合のいい女みたいな使い方するなよ。
眠れない夜の前兆は、自分が今どこにいて何をしているのか見失ってしまったとき、かつ家族や友達において現実で起きてほしくない(死とか別れとか…)想像をしてしまうときに見えてくるものだ。常日頃から嫌な出来事の「もしも」を考えてしまう癖がここぞとばかりに溢れ出してしまうターンがそれだ。



つまりは多分、思考停止機能が役立たずになってしまう。そんな夜は油を注したばかりのギアぐらいぐるんぐるん思考が駆け巡る。また来た、眠れない夜は雨音が静寂な部屋に響き渡る夜だった。風が強すぎて、役目を果たせなくなった傘の後ろめたさを感じたのがとても印象的だったと思い出す。



夜更けと言いたいところだけど、そこまで更けてない。だがしかし眠い、眠いが眠れない。やれはて、どうしてこうも困らせるのか私の脳みそ!
明日は一限から授業があるのだから、眠れない夜を存分に興じることはできんのだ!と叫びたいのに一度動いてしまったギアは止まることを知らない。



永遠の問い、人生のテーマと言っても過言ではなさそうな「なんのために生きているのか」という疑問が頭をよぎった時点で早々に諦めてしまえばよかったのに。思いっきし助走をつけて思考の渦に飛び込んでしまった。(漏れ出るため息)
今までは、「私が死んだら悲しむ人がいる限り生きる」を私の答えにしてた。けど、これだけじゃ生きるための必要最低限要素は補えないと知ってしまったから再考するほかなくなってしまった。



アンパンマンマーチの歌詞が大人になって響くものがあるとか言うけど安直すぎやしないかと思えてくる。世間が囃し立てる話題に乗れるよう、できすぎた相槌をして「今私世間の波に乗ってる!」みたいな、私は世間一般の意見と同じみたいなある意味自信に置き換えてるだけのように見えてしまう。




「なんのために生まれて。なにをして喜ぶ。わからないまま終わる。そんなのは嫌だ」



、なんて言葉をそのまま受け止めてしまったら、そんな戯言口に出せないくらい混沌とした世界に陥って眠れない夜が両手で数え切れないくらいやってくるのだよ...
今日も生きてて偉いって自分を褒めるのも大事だけど、やっぱり生きることを最高地点で止まらせたくない贅沢な考えを持ってしまう。
願わくば、生きるという延長線上に何かを見つけたい。





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