写真とわたしは一心同体ではない
「みんなのフォトギャラリー」に写真を共有するようになって1か月と半分くらいが経ち、使っていただいた記事は先日120件を超えた。
公開しているのは音楽や育児、猫、料理…と私が好きなものだけを撮った写真なので、使っていただいた記事のほとんどは私の興味を強く引くため、通知が来るやいなやいつも楽しみに全文を拝読している。
そして、noteとみんなのフォトギャラリーのおかげであることに気が付いた。ここからが本題である。
うまく言語化できない感情を写真にのせてシャッターを切るというのは、プロアマ問わず写真家なら誰しも経験していることだと思う。
直感でシンプルに「きれいだ」とシャッターを切る感情に始まり、多灯のストロボを駆使して己の世界観を描いた作品に至るまで、写真に表現できる感情は無限である。
そして極端な話だが、私が「かわいい」と思って発信した写真を、「尊い」という「かわいい」の最高レベルで捉えてくれる受け手がいた。もっと他の例えだと、自分の中ではそれほどでもない写真でも「とてもいい」と褒めてくれる人もいる。SNSのイイネの数が自己評価と比例しないのもそのせいだろう。
時とともに写真自体が変化していくこともある。かつては当たり前にそびえ立っていた熊本城の1枚は、地震で城が崩落した途端「荘厳」なイメージから「つらい」印象を思わせるようになる。
トップフォトに設定したこの写真だってそうだ。地元の神社で毎年開催されている蚤の市の1枚。
たくさんの来場客が掘り出し物を探して楽しそうに歩いている光景も、いま見ると第一に「人ごみ」として見えてしまう可能性だってある。いや、初めて写真を見た人ならそう思うだろう。
作品はわたしであってわたしではない。写真に限らず、歌を作ったり絵を描いたり、または文字を書いたり。発信者であれば誰もが気付いているはずだ。
支離滅裂になりかけているが、ここからの後半 諦めずにまとめたい。
自分と作品がイコールではない、その割に「あなたらしい作風」と作品を個性的なものとして評価されるとちょっと嬉しい。私が撮ったと公表していなくとも第三者が作品から作者-生みの親-を連想してくれるのは嬉しいものだ。
あたたかいタッチの作品ばかりを作り出すひとでも、実はとても内向的で暗い性格である自分を励ますためにあえて真逆の世界を表現しているということもある。作風からてっきり明るくポジティブな作者かと思えば全くそうではないというのもよくある話だ。
ただ、自分が生み出した作品-子ども-が様々な人の目に留まっていろんな感想を引き出して少しずつ変化していく、作家は皆これを楽しんでいるのではなかろうか。
写真を撮ることが楽しいのではない。撮ることで生まれた作品が、私に紐づいていながら少しずつ形を変えていくことが面白いのだ。人によってはこれを苦しいと表現する人もいるだろう。写真はつくづく奥が深い。
私が撮った写真で、私と似ているようで異なる記事を書く人がいる。今月に入ってからは特に、そんなオンラインのちょっとした出会いを楽しんでいる。
さて、明日はなにを撮ろう。私の好奇心が、まだ見ぬ誰かの目に留まることを密かに心待ちにしながら。
使っていただいた記事の一部は無料マガジンにまとめている。このnoteに一見似ているようで全く異なるテイストを楽しんでほしい。
2020/05/05 こさいたろ
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