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高校時代の担任が卒業式の日、黒板に書いたメッセージの意味とは?

 第二弾のnoteとして、私のこれまで、そして最後に僕の心の中に残っているMessageを書くとする。

1.ゼロから始まった友達作り

 前回の投稿からしばらく時間が経ち、話題をイランから離れ、過去の振り返りを書くとする。そう言えばやっていなかった自己紹介を少し。僕は年齢は現在23歳で今年24歳になる代(ちなみに誕生日はニートの日(2月10日)で覚えていただきたい)。

 出身は鹿児島県。幼少期を牧園町という火山が近い温泉街(実はバブル時期はかなり賑やかだったと聞いているものの、最近は過疎化している)で育ち、親の仕事の関係(父はこの道40年の料理人)で、小学生になる前に志布志市という街に引っ越した。実はこの街に来る前、調理長をしていた父の元には熊本行きの話があったが、その時期に高校時代のバイト先であった店の先代が高齢のため、後を譲りたいとの話があったため、急遽父は家族を連れ、この街に帰ってきた。この街はこの街で「志」という文字が一番つくということで、バラエティ番組をざわつかせた街。詳しくは以下のリンク等を見ていただきたい。

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 この海と山で囲まれた街で私は高校時代までを過ごし、卒業後は福岡の専門学校に1年、それから東京出た。東京では4年勤務し、今年7月から海外勤務のためイランに在住中。この国では今後約3年の予定で勤務、そしてこの国の任務を終えたら、僕はまた別の国へと勤務地を移す予定だ。

 私自身のこれまでを振り返ると、小学校〜中学校は義務教育とのことで特に何も考えずに生きていた。やりたい事、好きな事をただ一生懸命やるだけの小僧だった。高校を選ぶときは「直感」というか、二つ上の姉が在籍していたこともあってか、「必然的」に同じ高校を選んだ。

 この選択が後の自分の人生を変えることになるとは当時15歳の自分にはまだ想像すらできなかった。同じ中学からその高校に進学した友達は多数いたが、僕が選んだ普通科には僕の他に1名、それも中学でそこまで絡みがない子がいるくらいで、その他の子たちは初見の同級生たちであった。0から始まった友達作り、まさに異国の地に一人で突っ込んでいったことを今でも思い出す。最初は苦労したものの、だんだんと仲良くなっていくのがとても楽しかった。その頃だ、自分自身の人見知りな性格が次第に変わってきたのは。

2.個性あふれる集団

 僕が進学した高校は地元では少し有名なスポーツ校で、ちょうど僕たちの一個上の野球部が春の選抜に出場。それも大隅半島(鹿児島は桜島を囲んで左側が薩摩半島、右側が大隅半島)からの甲子園は今まで一度もなかった。地元の有力選手は薩摩半島の甲子園常連の強豪校に引っ張られるので、「大隅半島から初の甲子園」という目標は、僕の高校だけでなく、大隅半島の野球部のある高校の共通目標だったのである。ちなみにこの大会では大隅半島初の勝利も掴み、私自身も2回全校応援で甲子園まで連れて行ってもらった。当時の野球部の先輩方、同級生の活躍は今でも確かに覚えている。

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 この高校には、僕が住んでいた街からではなく、隣町や大隈半島全域から生徒が集まってきていた。クラスは三年間変わらず、担任もそのまま持ち上がり。僕が在籍した普通科は27名クラスで男子21名、女子6名とほぼ男子校のイメージだった。その中でもひとり、ひとりに個性があり、特に授業中はふざけてしかなかった、しかし、テスト前になるとみんな真剣にテスト勉強に取り組むなど、ONとOFFのメリハリがしっかりあり、ここぞのときの「集中力」だけはかなりあった。話せば長くなるような「〇〇事件」も多くあり、今後同窓会が開催された時は間違いなく話題に上がるだろう。

3.本気で取り組んだ高3の一年間

 高1、高2はとにかく部活にのめり込んだ。もちろん勉強もそこそこ。部活はバスケットボール部。このスポーツに出会ったのは、中学校の時、幼馴染と体験入部に行ったのがきっかけ。中3の最後の大会では「得点王」と「優秀選手賞」を受賞することができるまで成長した僕は、高校でも迷わずバスケ部に入部した。高3の6月に引退し、それからは勉強に専念した。

 将来の夢は、高二の冬くらいから自分の夢は”公務員”になっていた。冒頭でも書いたが、私の父は料理人で経営者。小さい頃からお店の手伝いが好きだった私は、常連のお客さんに料理を運んだりとよく顔を出していた。二人姉弟である以上、必然的に昔から、常連のお客さんたちからは「後継」、「後継」という言葉をかけられ続けた。父自身は「一度きりの人生だし、自分のやりたいことをやりなさい」という考えだったので、自分の人生について真剣に考えることができた。

 公務員を目指したきっかけは、昔から”誰かのため”に行動することが好きだったから。そして奇遇にも担任にも恵まれ、担任は持ったクラスの生徒を歴代数多く公務員として送り出している方だった。また、クラスメートの多くが入学時点から公務員を志望しており、特に3年生の1年間は皆が同じ方向を向いている感覚があった。勉強を始めた初めの時期は、市役所とか県庁とかいいな〜とごく簡単な気持ちで過ごしていたが、当時の自分の学力レベルと合格点数との乖離がありそこで一度断念。そこで公安系の警察官を目指した。

 毎晩試験対策用のテキストを開きひたすら問題を解き続けた。朝のホームルームの時間は、担任の配慮で適性(※公務員試験ならではのひたすら足算していくものや、同じ図形を選んでいくものなど)に変わっていった。夏休みは図書館の学習スペースに通い続けた、また、放課後残って勉強したりして過ごした。あいにく、国家一般職の試験日と体育祭がバッテイングし、僕らのクラスは予行練習が実質的には高校最後の体育祭となった。この選択は今でも後悔していないし、僕らは全力で予行練習を本番以上に楽しんだ。

 試験は警察官採用試験のみ二次試験まで残り、最終合格発表を待つのみであった。少し特殊事情でもあったため、僕の合否は他の同級生より遅く、2月下旬であった。そして最終合格結果が手元に届き、結果は「不合格」、おまけに最終合格順位の一つ下(例:40人合格の試験で41番を叩き出すイメージ)であった。この結果を受け、僕は親に頼み込んで1年間福岡の専門学校に通うことを決めた。

4.卒業式の日

 づらづらと僕の今までの事を書いてきたが、タイトルにもなっている部分について触れたいと思う。「3.」で書いたとおり、僕は高校3年の2月に一つ夢が潰えた。そして、その日の一週間後が高校の卒業式であった。不合格後で、気分もそこまで上がることもなく、ただフワフワした感覚で当日を迎えたを覚えている。

 卒業式の朝、クラスにいくと、担任からのこのようなメッセージが黒板に記してあった。

・勉学・・・勉強に終わりはない。様々な社会の変化に対応するには、常に次への勉強(ステップアップ)が必要である。現状維持は後退と同じである。
・感謝・・・人は一人では生きていけない。多くの人の支えあって、ライバルがいて成長をしていく。その多くの方々への感謝を忘れない。特に自分の親には感謝せよ。
・健康 元気でいなければ何もできない。自分の体を大事にして長生きしていくことが幸せの第一歩である。元気であれ。

 3つのポイント、「勉学」、「感謝」そして「健康」。太字にした部分は当時の僕の心にグサっと刺さった。深くは考えていなかったが、今こうして社会人となった立場からもう一度この言葉たちに目を通すと、あの時に担任がこのようにして、僕たちに伝えたかった事に気づくことができた。

 僕はいつになっても学びを続ける。そして自分の人生に関わってくれた多くの方々に感謝し、いつか必ず形に残る形での恩返しをする。長々と見ていただきありがとうございました。

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