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文系大学院生の雑読日記

「人文学を研究するとは、自分の言葉をつくること」と、ある講義で先生が言っていました。そこで僕も哲学を勉強している者として、自分の言葉を探求する者として、その第一歩でもある本を読むことをしているつもりです。でも、本の内容や読んだ本のことを忘れていまいます。だから、最近読んだ本をここに残していこうと思った次第です。専門は哲学・倫理学ではあるんですが、雑読の通り、いろんなジャンルを読んでしまっています。

レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』

日本でも教鞭をとった哲学者レーヴィットの大著。初版は1941年。この著作ではその名の通り、19世紀ドイツの大哲学者であるヘーゲルから19世紀末の稀代の思想家ニーチェまでの思想史を描写しています。

19世紀の思想史はヘーゲルを批判し、継承する形で紡がれてきました。そうして思想史に名を残すひとたちがヘーゲルの弟子たちでもある、いわゆるヘーゲル左派と言われるひとたちでした。フォイエルバッハやルーゲ、マルクス、シュトラウス、キルケゴールなどが挙げられます。(厳密には弟子とは言えない人もいますが)彼らはヘーゲルの様々な視点を継承し、批判します。歴史やキリスト教、教養などの点です。

レーヴィットが本書で目指すところは以下の通りです。

ヘーゲルからニーチェまでの時代を真に現代に浮かび上がらせることを、つまり19世紀の哲学の歴史を現代の地平で〈書き直す〉ことを目指している。(序文より)

現代において問題になっている実存主義やマルクス主義などがヘーゲルからどのように発展していったのか、そしてそれらが今日までも注目を集めるニーチェまでどのようにつながるのか。この二点をレーヴィットは軽快で分かりやすい言葉づかいで、表しています。

また、この著書の影響でヘーゲル左派と言われるひとたちの影響力を見直すことになったという影響力が当時ありました。この著書を読めば、当時の影響力も納得のいくものであると言えます。
19世紀の哲学の主要トピックが盛り込まれている名著です。

ルース・ベネディクト『菊と刀』

本書はアメリカの文化人類学者であるベネディクトが、戦争の相手国である日本についての調査結果をまとめた、世界でも有名な「日本論」です。

「日本は~」とか「日本人だから~」など、日本に住んでいると「日本」というくくりで様々なことが前提とされており、当たり前になっていることが多いです。世界から見たら日本は少し特殊な面もあるようです。

そういったことを本書では気づかせてくれます。ただ、ベネディクト本人は日本に来て実施調査をしたわけではなく、本書の内容の真偽は読者にゆだねられています。

日本人は抜かりなく振る舞おうとして、アメリカ人よりはるかに周到な注意を払う。そして、アメリカ人とくらべると、失敗の言い訳をすることが少ない。また、人生に対する不満をだれかに転化することが少ない。さらには、自分を哀れに思うことも少ない。なぜか。日本人はアメリカ人の言う普通の幸福を一向に念頭に置かないからである。日本人は「身から出た錆」に対し、アメリカ人の通年をはるかに上回る細心の注意を払うように訓練されている。(373頁より)

日本人はできなかったことに対して責任をとろうとしすぎてしまうらしいです。それゆえか自分の発表や宿題でぼろが出ないかに注意を払うように訓練されているそうです。正直具体的にどのように教育されているは分からないです。でも、責任を感じ、自身の発表や提出物を完璧なものにしようとしてしまう性分が日本人には備わっていると言われ、そんなことは無いとは言い切れないところがあります。

こういったトピックが散りばめられており、日本人であることを見つめ直すことができる名著です。

ベンヤミン『技術的複製可能性の時代の芸術作品』

ドイツの思想家であり、文芸批評家でもあるヴァルター・ベンヤミンの一つのテキストであり、芸術論やメディア論の文脈で使われることが多い作品です。

本書は『複製技術の時代における芸術』と訳されていることが多いですが、この訳だと原題にある「Reproduzierbarkeit」のbarという可能のニュアンスが出ないため、「技術的複製可能性」という訳が『ベンヤミン・アンソロジー』ではあてられています。また、「アウラ(Aura)」という言葉もベンヤミンが一般語に特別な意味を持たせがちであることから、「オーラ」と普通に訳されています。

芸術作品の複製はずっと行われてきたことでもあります。絵画や銅像では同じものを、制作者の弟子たちがつくっていました。しかし、ベンヤミンの時代には、写真や映画が出てきたことから、技術的に複製が可能となる時代になってきました。このことにより日本にいながら、ケルン大聖堂の全容を知ることもできるようになりましたが、失われたものもあります。

芸術作品が技術的に複製可能となった時代に力を失っていくものは、芸術作品のオーラである(302頁より)

芸術作品には、つくられた場所やその時間と関係する一回性があります。その一回性が、写真や映画によって克服されていきます。その際、芸術作品のオーラが無くなってしまうのです。

例えば、法隆寺の写真を教科書で観たことがあると思います。そのとき法隆寺がどういったものかということは大体分かるとは思います。でも、修学旅行で法隆寺を直接見た場合、写真で見たときとは違く印象を抱くと思います。そこにはオーラが関係していると言えるでしょう。

芸術やメディアに興味があるならば、一読の価値はある名著だと思います。

ヘミングウェイ『老人と海』

アメリカの小説家であり、ノーベル文学賞も受賞したことがあるヘミングウェイの著作です。

物語は主人公であるサンチャゴという漁師の老人が、不漁の中いつものように海に出るところから始まります。そして、久しぶりの獲物であるカジキがかかり、老人とカジキの壮絶な闘いが繰り広げられていきます。

この物語の見どころはたくさんあります。老人とカジキの闘いは当たり前ですが、カジキだけではない海との闘い。そして、海との闘いの果てに老人が感じたことや哀愁。それらが150頁ない中で展開していくという素晴らしい物語だと思います。

「だが、人間、負けるようにはできてねえ。ぶちのめされたってまけることはねえ」(104頁)

これは老人の言葉ですが、この言葉から老人の力強さや、勇気、また哀愁までも感じることができます。さらに、自分ではどうすることもできない現実に対しての力強い向き合い方をできる老人を尊敬してしまいます。

短い物語でありながらも、臨場感を感じる展開や力強い老人の姿など、たくさんの見せ場が詰め込まれている名著だと思います。

まだまだ途中です

一応文系大学院生なので、人並み以上には本を読んではいると思います。でも、大学院生としてはまだまだだし、こんなところにメモしているようではまだまだだと思っています。自分が読んだ本を忘れずに、自分の言葉をつくることに向け、より一層励んでいこうと思います。

こう一部ですが、挙げてみると外国の本が多いので、日本語を学ぶためにももう少し日本人が書いた本も読んでいこうと思います。

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