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アーティストCV(日本語) 2024.8最新版

ヤクモタロウ (Taro Yakumo)
-現代芸術家-


板橋区文化国際交流財団「いたばしアーティスト」認定


学歴
2011年9月~                        漢陽大学 (韓国) 長期休学
                                              社会学部 政治外交学科専攻


展示履歴
個展
2024
「本能 ~Instinct~」 埼玉県立近代美術館
2023
「Zero Future」 Art Gallery Umeda 大丸梅田店, 大阪
「Floppy」 between the arts gallery, 東京
2022
「Zen ~Beyond the Pop~」 between the arts gallery,東京
2019
「The World of Taro Yakumo」軽井沢ニューアートミュージアム, 長野
2018
「KARUIZAWA COLORS」 軽井沢ニューアートミュージアム, 長野

グループ展
2024
「PLASTIC LOVE」 LUV Contemporary Art Gallery, ソウル, 韓国
「ブレイク前夜展」  Artglorieux Gallery, 東京
2023
「O.C.S.D.,チャリティ展」バーニーズニューヨーク銀座店, 東京
「ブレイク前夜展」 ASTER Gallery, 金沢
「Signs Of A New Culture Vol.16」Artglorieux Gallery, 東京
2022
「MELTING POT」バーニーズニューヨーク六本木店, 東京
2018
「PARTY PARTY」 ホワイトストーンギャラリー, 東京

アートフェア
2024
アートフェア東京 2024                        
One Art Taipei, 台北, 台湾
2023
大邱国際アートフェア, 大邱, 韓国
アートフェアアジア福岡 2023, 福岡
Osaka Kansai Art Fair, 大阪
One Art Taipei, 台北, 台湾
2022
大邱国際アートフェア, 大邱, 韓国
BAMA Busan Art Fair, 釜山, 韓国
2018
KIAF Art Seoul, ソウル, 韓国
2016
Aqua Art Miami, マイアミ, アメリカ

アワード
between the arts アワード(100人10),  2021

言語
日本語:ネイティブ
韓国語:上級
英語:中級


経歴

ヤクモタロウはアートディーラーの父と彫金師の母をの間に生まれ、家には父親の商売の関係で絵画の在庫が山積みになっているというような、アートが身近にある環境で育ち、幼少の頃から絵画教室で油絵を習い花瓶の花なんかを描いていた。これは未だに数点だけ残っている。この頃には家中の壁という壁は落書きだらけになっていた。

小学生の時代には、一人っ子で、近所の友達も少なかったのもあり、学校が終わればすぐ家に帰り、家で過ごすことが多かった。世の中は週刊漫画コミック誌の人気が絶頂にあり、子供から大人までこぞって読んでいた時代だが、タロウは漫画にはさほど関心がなく、それよりも画集や鉄道の写真集などを好んで見ていた。

早くから父の手伝いで地方での展示会の設営を手伝っていたが、その時に並んでいた絵画はほぼ昭和の日本画であり、子供ながらにそこに面白さを感じることはなく、退屈でつまらないと感じていた。

そこには岡本太郎やピカソなどの画集を見ていた影響も垣間見えるが、この時のアートへの印象が今後の人生に大きな影響を与え続ける。

小学校高学年の頃になると、ウォークマンが世の中に現れて、街中で音楽を聞くことも当たり前になっていた時に、近所の住民からたまたま借りたビートルズを聞き、駅のホームで涙が流れるほど感動し、この時に音楽のパワーというものを経験する。折下、中学に入ると日本は空前のバンドブームに湧いていて、ミュージシャンになる事を目指し本格的に楽器を演奏し始める。この頃には、アートには全く興味がなくなっているが、唯一アートの感性を結びつけていたのが、アルバムジャケットであった。

高校に入ると洋楽の幅広いジャンルに傾倒し、ますます音楽にのめり込み、バンド活動を始め、この頃から真剣に世界的な活動を模索し始め、海外のカルチャーや社会に興味を抱き、集団生活も苦手だったことから高校も中退する。高校を中退してから30代になる頃までは、ただひたすらにバンド活動に熱中し、インディーズで活動するも、泣かず飛ばず、年齢を重ねるごとに周囲の環境や、音楽メディアの変化、バンドそのものへの関心も薄まり行き詰まりを感じていた。

そんな中、2000年初頭、突然父から「村上隆の作品がクリスティーズで高額落札された、革命が起きた、日本美術業界は変わる」との電話を受ける。しかし長年アートに興味もなく、村上隆に関しても名前をうっすら聞いたことがある程度で、父の話をすぐに理解するのは困難だった。

その後、本当に日本の美術業界は変わっていく、その渦中にタロウも飲み込まれていくことになり、日本画中心だったアートシーンは一気に現代アートに移行していく、アジア各国を飛び回りアートフェアやアートオークションに参加をしていた父から、海外のアートオークションやアートフェアを見ておくべきだとの忠告から同行し海外のオークションなどを経験。
そこでタロウが見たものは幼少期に見ていた日本近代美術の様相とは違い、自由で、色合いも明るく、サイズも大きく迫力があり、明らかにセレブリティな世界なものだった。
それはタロウにとって、今までのアートのイメージを根本から覆すものであり、ミュージシャンとしての夢を半ば諦め、表現するということが出来ないことにフラストレーションが溜まってた時期でもあった為に、なお一層心に響くことになった。

リーマンショック以前の200年代のアジア各国では現代アートが大変に盛り上がっており、その中でも頻繁に行き来していた韓国に興味を持ち、そのまま韓国留学を決意し2009年に留学。語学学校に通いながらギャラリー、アートフェア、アートオークションを巡り、韓国で現代アートの世界を学んでいく。

語学学校も終了に近くなる頃には、韓国社会そのものにも関心が高まり、在留を継続したいと思い、韓国で美大に進むことを模索するが、当時の韓国では美大というのは敷居が高く、語学も未熟な外国人を受けいれてはいなかった。
ビザの関係もありこのままでは帰国をせざるを得ないということもあり、一般の大学で政治外交学科に入学することになるが、大学生活を送りながらも、アートの現場には足繁く通っていた。

当時の韓国の現代アート作品はサイズも大きく派手で、日本のアートシーンとは比べ物にならないほど面白く感じていた。
様々な場面でアート関係者との関わりも深くなっていき、マーケットの理解も深まっていくと、長年あまり理解ができてなかったアートの仕事の本質を理解すると、アートに関わる仕事にも魅力を感じ始める。

その後2015年頃に帰国し、東京に小さなアートスペースを開き、アーティストや友人らとニューヨークのアートレジデンシー滞在や、海外のアートフェアの出展を行いながら、キュレーターとしても活動する。
しかし、当時の日本ではまだ現代アートのマーケットはまだ停滞している時代で、海外での活動が主になっていたが、アートフェア参加や思った以上に売上が伸びず、取り扱っていたセカンダリーアートの贋作を掴まされるなど、様々な問題が起こり、ギャラリー運営の継続を断念することとなる。

一度は、このアート業界から身をひこうと思ったこともあったが、生まれてこの方、家族もろともアートに関わり、時代のマーケットの浮き沈みに左右された人生だったことを、運命と覚悟を決め、以前からの表現者としての生き方を再び歩み始めることを決意、40歳になったのを期に、本格的に絵を描き始める。

ミュージシャンが定期的にアルバムを発表するように、その時期その時期でスタイルがサウンドが変化していくのは、環境が変われば人の考えや想いも変化し、内面から映し出されるものも変化する。それは自然なことで、タロウはそれを本能的に表現している。


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