小じさん第十一話「砂地の小じさん 1」

 川面が反射する光の粒に、僕は心を奪われていた。それは僕の視界の中できらきら、ちろちろと、無邪気な小人のようにせわしく動き、僕に何かを語りかけようとしているみたいだった。それはほとんどこの世の景色とは思えなかった。僕にとってそれはあくまでテレビや映画のスクリーンの向こうに見る景色であり、それを見る僕はいつも自宅の椅子(脚の長さが不揃いでガタガタいう)、または映画館の座席に腰を落ち着かせているはずだった。
 しかし今、僕はこの景色の一部としてここに立っている。
 長らくスランプにある風景画家が、そのままであれば一定の評価を得られるはずの風景画に、誤って描き足してしまったひとりの男――僕は、ここでの自分自身の存在をそんなふうに感じた。
 僕はこの景色に歓迎されていない。

 川の流れる音が静かに、しかし途切れることなく僕の耳に届く。ときおり風が吹き、木々の葉がこすれる音が聞こえる。鳥の鳴き声がする。何かの虫が鳴いている。自然の呼吸が常に僕の周りを取り囲んでいる。

 僕は思い立ってある週の平日5日間仕事を休み、前後の週末を合わせて9日間の連休をとっていた。そして、避暑地の安いペンションに宿泊予約を入れ、自然に囲まれた環境に身を置いている。
 何かきっかけがあったわけではない。ただ本当に何の前触れもなくふと思いついただけだった。精神療養とか仮初めの現実逃避とか、そんなつもりもなかった。ただ、本当になんとなく。
 何も計画していなかった。周辺の観光スポットもろくに調べもせず、ただ来た。宿の周辺の自然を、とにかく歩いた。あてどもなく歩いた。
 川沿いに上流へ向かって歩く。どうせなら、普段僕が身を置いている“人が住む場所”から離れた方へ向かおうと思った。
 歩くにつれて足場は悪くなっていった。自然のままに茂る草木や、ごつごつとした大きな石に何度も足をとられた。ここは普段、人が踏み入れる場所ではないのだということがよくわかった。僕は構わず進んだ。
 自然に対して正面から立ち向かうような気持ちで歩いた。それでも、部外者としての居心地の悪さは消えなかった。

 少し開けたところに出た。小学校や中学校の校庭くらいの広さで、およそ円形に樹木も草木もなにも生えていない砂地が、僕の眼前に現れた。
 川の流れはいつの間にか見失っていた。
 ここは人の手が入ってこうなっているのか、或いは何らかの地形上の理由で生命を宿すことができないのか。そんなこと、わかるはずもなかった。僕にとってそれは、不自然なただの砂地だった。

「こんにちは」

 僕は挨拶した。
 何もない空間に向かって挨拶したのではない。
 身体を砂色にして、周辺に擬態するように小じさんが立っていたのだ。
 いつも思うのは、小じさんの中途半端な擬態。まるっきり周囲に溶け込むのではなく、少し目を凝らせば判別できる程度の擬態。小じさんは本気で擬態するつもりなどないのだろう。
 例によって全身単色、顔はのっぺらぼう。

「おう。元気しとうか?」

 でも喋る。不思議。

「元気といえば元気ですし、元気じゃないといえば元気じゃないです」
「了解や。元気そうでなによりや」

 人の話を聞いていないのだろうか。

「まあ、人の立ち入らんこんな山奥に分け入ってくるゆうことは、平常心ではないんやろうけどな」

 小じさんはだいたい、ズレた反応をしたあとに軌道修正する。

「言われてみれば普通ではないかもしれません。でも、僕はわりと平常心でここまで来ました。なんとなく動いていたら、ここにいました」
「まぁ、そういうやっちゃなお前さんは」

 小じさんはいつも僕のよき理解者のように振る舞う。不思議だけれど、たしかに、よく理解しているようだ。

「けど、あんまり平常心を気取っとったら、あかんで。気ぃついたら元のところに戻れんくなってまう」
「元のところ?」
「そおや。心の中の大事な場所や。そこにぽっかりと穴が空いてまう。ちょうど、ワイらが立ってるここみたいにな」

 僕は改めてあたりを見渡してみた。
 自然のままに木々が生い茂る一帯の中に、ぽっかりと空いた円形の砂地。ここに至るまでに何度も僕の足を阻んだ、ごつごつとした大きな石もない。ただ、平らな砂地。
 ここだけまるで、世界から取り残され、時間の流れからも取り残されているみたいだった。ただ、“ある”だけの場所。

「ここにも昔は草木が生えとった。生き生きと生命が躍動しとったんや。草木だけやなく、この大地もな。けど、お前さんのように何かを取り繕ってるうちに、全てから置いてかれてもうたんや。もう、ここに生命は戻らへん。ここは決定的に死んでもうたんや」

 決定的に死ぬ……。

「ええんやで。平常心も大事や。いつもいつも動じとったら疲れてまうわ。ただ、ときどき心を生かしてやらんと、いずれお前さんの心はここみたいに、山奥で人知れず死んでまうことになるで。ワイは、それはあかんと思う」
「なるほど」

 小じさんの言うことはときどき、とてもまどろっこしい。でも、直截的に言われるより、妙に納得感がある。たしかに、僕はこのままではいけない気がする。

「まぁ、幸いここは、普段お前さんが住んどう街より、時間の流れがゆっくりや。どうせ長い休み取ったんやろ? ゆっくり考えたらええ」

 そして小じさんは消えた。音もなく。前触れもなく。すっ、と。

 
(つづく)

■これまでの小じさん


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