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IT業界の民族誌─プロジェクト始動編

なんだか面倒なことになっている。 

会社の上司が急に、チームのメンバーを集めて、次のように言った。 

「俺は会社を辞める。」 

一同、沈黙。 

「俺は自分が幸せになれる方法を知っている。この会社に居続けることは少なくともその方法ではない。」

去年、私と一緒にサーバー保守の仕事を担当していたS先輩が辞めた。そして今度は、そのS先輩の上司が会社を辞めようとしている。 

「この会社は必ずしもいい会社ではない。人が次々に辞めている。皆、「誰かがどうにかしてくれるさ」としか考えていない。仕事を自分で作ることをしない。こんな会社は遅かれ早かれ潰れる。今月は4年目の人間が二人も退職する。既に破滅の太鼓は鳴り始めている。」

一同、沈黙。

「しかし辞める前に、俺はこの会社へ恩を返したい。曲がりなりにも8年間、俺はここでお世話になった。俺は、俺の部下に、俺の知識と技能の全てを伝えようと思う。そこで、あるプロジェクトを思い付いた。突然の話で申し訳ないが、俺に、1年半を預けてくれないか? 決して損はさせない。1年と半年かけて、パッケージソフトをチームで開発し、それが完成次第、俺は会社を辞めることにする。この過程で、お前たちを、どこに行っても通用するSEにしてやる。約束する。」

まさに、青天の霹靂だった。突然の話すぎて、皆どう反応していいか分からず、ただただ沈黙するしかなかった。

◆ 

上司によると、我々の会社は3つの点で危ういのだそうだ。

1、若手が育っていない。新人の8割が5年後にはいない。有能な奴ほど転職してしまう。
2、仕事を創出する能力に長けた人間が3人ぐらいしかいない。どこかの大企業から仕事を委託されて、そこに人を嵌め込むことぐらいしかできない奴らが多すぎる。これでは派遣でしかない。仕事を自ら作り出せないことは致命的だ。
3、仕事ができる人間に、負担が集中し、仕事ができる人間が疲弊する。給料が高くなるわけでもなく、割を食うだけ。

私の上司は、確かに仕事ができる。そして確かに周囲は、彼に頼ってしまう。いや。頼ってしまうというよりも、周囲がいくら一生懸命やっても仕事を完遂できないことが多いので、上司がその後始末を買って出るしかなくなるのだ。仕事ができる人は、仕事ができない人をフォローしなくてはならない。しかし、ついに上司は、このような状況に我慢ができなくなったらしい。 

「いつも俺は言われるのだ。終電まで会社で残って仕事をしているときに、「上司がずっと残ってたら部下が帰りにくいんじゃないっすか~?」と。カチンとくるよな。」 

上司は、自分は報われていない、という。他人ができない仕事を引き受け、終電まで仕事をしても、給料はそれほど他の社員と変わらない。それどころか、上記のような嫌味を言われる。

さらに、周りを見れば、他のチームの幹部達は、部下を鵜飼いの鵜としか思っていない。大手の会社から仕事を委託してもらい、そこに部下を突っ込むことしか考えていない。そうやって稼ぐしか能がない。 

「俺は、仕事を貰うなどということはしない。自分で営業して仕事を作ることができる。その技術をお前らにくれてやる。だから、1年と半年を俺に預けてくれ。」 

いつまでたっても自分を追い抜いてくれない部下たちに彼は苛立っている。しかし彼は部下達に、最後のプレゼントを与えようとしている。 

私はこのように解釈した。 

「ただし、条件をつけておきたい。このプロジェクトは、次の条件が満たされた時に、その時点で取り止めになる。そして早急に私は辞表を提出する。」

チームの主力メンバーであるNとIとAのうち、ひとりでもプロジェクトからの離脱を希望する者が現れた時

上司は上記条件を我々に告げると、いきなりプロジェクトの始動を宣言した。

◆ 

「何度も言うが、我ながら突拍子もないことをしようとしていることは認める。正気の沙汰ではない。パッケージソフトの開発には、普通は5年ぐらいの期間を要する。それを1年半でやろうとしているのは異常だ。はっきりいうならば、パッケージソフトの完成はおまけにすぎない。目的はあくまでもお前たちを一流のSEにすることだ。ビジネスセンスを身に付けさせることだ。今回のプロジェクトは、チームのメンバー全員の能力を向上させることに主眼が置かれている。そこを十分理解してほしい。」 

チームメンバーは6人で構成されている。上司。私。私の同期であるN。4年目のI先輩。5年目のA先輩。そして、新人のU。 

上司は、チームメンバーの中でも、NとIとAを主力メンバーと捉えている。彼らを重点的に鍛えようとしている。だからこそ上司は、この3人にプロジェクトの中止を希望できる権利を与えたのだ。

「嫌ならやめろ。そのことに関して俺はとやかく言わない。3人のうちの1人でもプロジェクトの続行を拒否するならば、プロジェクトは中止になり俺は辞職する。」

上司はこのような覚悟でいる。

◆ 

ここで、チームにおける私の立場について書いておきたい。 

私は現在、某IT企業にてデータマネジメント(DM)として働いている。データ処理専用のソフトを操り、顧客情報を分析し、その内容をグラフや図に落とし込む仕事をしている。 

DMの仕事に従事する以前は、某製薬企業の営業支援システムの保守を行っていた。サーバーの保守というやつである。 

去年の8月から営業支援システム保守の仕事を担当させられ、今年の3月までそれに従事していた。そして4月から、現在のDMの仕事をし始めたのである。つまり私は、4月から仕事を変えたのである。 

私が仕事を変更した理由はひとつ。営業支援システム保守の仕事を覚えることができなかったこと。これに尽きる。いつまでたっても仕事をこなせない私に、上司は苛立っていた。 

「Sに3ヶ月で追いつけ。」 

上司はこのように指示した。Sとは、保守の仕事をして3年目になる先輩のことである。私は、無理だと思いつつも、精一杯努力した。 

しかし、3年従事しているS先輩に、3ヶ月で追いつけという上司の希望に、私は沿うことができなかった。あまりにもシステムが複雑すぎたのである。 

システムの全容が掴めなかったのには理由がある。システムの仕様書がドキュメントの形で一切残っていなかったのである。それは、システム設計者であるT先輩の頭の中にしか存在していなかった。 

営業支援システムの開発に従事したのは、上司とS先輩ともうひとり、T先輩という人物。そしてT先輩は、システムの仕様設計をメインで担当していた。 

しかしT先輩はもうこの世にはいない。故人である。私がこの会社の内定をいただいた年の暮れに、T先輩は仕事中に突然死した。仕様書をドキュメントの形に残す時間が確保できないくらい、業務は多忙を極めていたようである。 

以上の理由により、システムの仕様書は残っていない。T先輩亡きあとも、上司とS先輩はシステムの保守を続けた。システムの大体の挙動を、T先輩と共にシステムの開発に携わった上司とS先輩は把握できていた。このようにして、システムの詳細な設計書・仕様書を欠いたまま、システム保守の仕事は続行されていた。 

そこに、細部にこだわりがちな私という青二才が投入されたのである。案の定、物事を大雑把に捉えることが苦手な青二才は、システムにおけるブラックボックスの存在に我慢できず、勝手に細部を把握しようと試みる。誰もそこまで細かく読まねよーと突っ込みたくなるような仕方で、隅から隅まで、システムを構成する各種プログラムのソースを読みまくる。「お前は仕事せずに勉強ばかりするから勉強禁止」とS先輩から言われるほどに、仕事そっちのけで私はソースの解読に取り組んだ。 

S先輩に質問しても、S先輩は答えてくれない。「その記述の意味はよく分からないけど、その箇所は確かサーバーに送られるデータを生成する部分だ。」という風にしかS先輩は答えてくれない。もちろん、青二才は納得しない。分からないということが我慢できないのである。しまいには、「S先輩はいい加減なやつだ。もしかしたらプログラムを読めないんじゃないか?」と邪推する始末であった。 

もちろん、S先輩はプログラムが読めないわけではない。細部に拘るメリットがないから、真剣に読まなかっただけである。S先輩は、ひっきりなしに起きるサーバー障害の調査や、お客さんからの問い合わせ電話の対応で忙しく、青二才によるどうでもいい質問に答える余裕がなかったのである。 

どのタスクがどのようなプログラムの記述によって起動され、それが今度はどのタイミングでスリープし、いつまた起動するのか。青二才はこのようなことに拘った。しかし、もっと大雑把なレベルでの理解を、青二才は行うことができなかった。「この箇所はデータをサーバーに送る箇所」という風に、プログラムをおおまかに理解することができなかったのである。 

「お前は細かく見すぎる。もっと大雑把に物事を捉えろ。一点を見つめるのではなく、周囲を広く見渡せ。」 

何度、上司にこのように言われたことか。 

私は、自分はやはりSEには向かない、と思い詰めた。このままでは首になるとも考えた。この業界で生き残る自信が全く持てなかった。そこで、去年の1月頃、上司に退職の意思を伝えたのである。 

目を点にする上司。上司は、自分の右腕であるA先輩を電話で呼び出し、私の引き止めを行った。A先輩は私に対し、「お前は逃げようとしているのではないのか? SEは自分には合わないというが、SEの仕事には他にも色々ある。」と諭した。考えたすえ、私は、上司から紹介された別の仕事をしてみることにした。それが現在のDMの仕事である。

◆ 

少し、自分に関する話が長くなった。相変わらず私は物事を大雑把に捉えることが下手だ。どうでもいい細部に拘ってしまう。 

言いたいことはこういうことだ。私は、チームにおいて、言わば蚊帳の外の存在である。チームに所属はしているが、チームのメンバー達とは別の会社で仕事をしている。上司やA先輩やI先輩は営業支援システムの保守の仕事を続けている。また、同期のNや新人のUはその手伝いをしている。私だけが、部外者なのだ。 

蚊帳の外であることは別に悲しくはない。むしろ、自由に動けるので私は気分が良い。一人で出向先に身を置き、そこで勝手に納得行くまで勉強できるのだから(もちろん仕事もちゃんとしている。私の細部に拘りすぎる傾向は、データ分析業務においては功を奏しているようだ。) 

蚊帳の外の存在である私は、いわば傍観者にしかなれない。今回のプロジェクトにおいて、私は「上司に鍛えられる対象」ではない。上司は私に対して次のように言った。 

「お前は同時にふたつのことはできない。だから、今回のプロジェクトに従事しなくてもよい。お前は現在の仕事に注力しろ。ただ、「人間としての力」を貸して欲しい。」 

上司は、私のことをよく分かっていたと思う。

◆ 

プロジェクトの段取りは次のようになっている。

第1ステップ:何を作るかを決める(IT関連情報の収集とアイディアの創出)
第2ステップ:構築する(プログラミング、サーバー設置、データベース構築)
第3ステップ:販売する(展示会への参加など、営業活動を行う)

1年半のうち、最初の6ヶ月が第1ステップである。そして、第1ステップは既に始まっている。この段階においてチームメンバーは、次の課題を上司から課されていた。

新人のU:毎週1回、IT関連の既存の技術をメンバー全員にメールで紹介しろ。

N:毎週1回、IT業界に関するニュースをメンバーにメールで知らせろ。

I:毎週1回、新技術について情報を集めてメールでメンバー全員に流せ。

メンバー全員:毎朝、日常生活で感じた違和を何でもいいから文章化し、メールで全員に流せ。また、毎週1回、IT関連の略語をピックアップして、その用語の説明をメールでメンバー全員に行え。

現在私は、違和感を求めて、日々ネタをさがしている。電車の中、歩行中、仕事中、常に何か違和を感じるようにしている。 

おそらく、上司は、情報を頭に詰め込むことによって、クリエイティブな発想を行うための基盤作りを目論んでいる。クリエイティブなものは、既存の情報をインプットしないことには生まれない。クリエイティブかどうかを判断するためには、既存の商品との比較が必要である。現在我々は、既存の商品に関する情報を猛烈な勢いで頭にインプットしているといえる。 

上司のこのようなやり方は、的を射ていると私は考える。非常に理にかなったやり方だと思う。正道だ。このやりかたは、IT業界における新商品開発のみに有効なのではなく、アカデミックな研究における新理論の創出や、スポーツにおける新技の創出の際にも、効果を発揮するのではないだろうか。 

今回のプロジェクトは、先月から開始された。日々の生活は、メンバー達からの違和感メールをチェックすることから始まる。 

しかし、危機はすぐに訪れた。

◆ 

プロジェクトが開始され、上司の指示に従い、チームのメンバー達は、自らに課せられたタスクを忠実にこなしていた。 

そんなある日、再びチームミーティングが開かれることになった。上司から届いた召集メールには、次のような文言が記されていた。 

「チーム各位。ミィーティングを開きたい。何度も申し訳ないが、どうしても重要な会議なので、メンバーは必ず出席して欲しい。」 

プロジェクト発足を知らされた、あのミィーティングから、まだ1週間ほどしか経っていなかった。 

なんだろう何が起こったのだろうと不審に思っていると、同期のNから、私と新人のU宛に、次のようなメールが届いた。 

「上司にはもう話したのだけど、私は今度、同期のM君と結婚することになりました。式は来年の7月に挙げるつもりです。今度のミィーティングではこのことが問題になると思うので、事前におふたりには話しておくことにしました。」 

チームのメンバーであるNは、私の同期である。その彼女が来年、式を挙げるのだという。 

いくら鈍い私でも、このことが何を意味するのかを、瞬時に理解することができた。

◆ 

苦虫を噛み潰したような顔をして、上司は席に座っていた。無言で席につくチームメンバー達。やがて、上司は次のように切り出した。 

「…いい話と悪い話がある。まずはいい話から。このたびうちのチームのNが結婚することになった。相手は…言っていいのかな?…同期入社のM君だ。おめでとう。」 

頭を垂れるN。静かに感謝の意を示している。 

微笑んでいた上司は、すぐに顔を険しくさせた。 

「次に悪い話。プロジェクトについてだ。私は今回のプロジェクトを始めるにあたり、条件を皆に提示した。N、I、A。この3人のうちの誰かが脱落したとき、自動的にプロジェクトは取りやめになる。このような条件を皆に提示した。」 

メンバーたちは上司の話に聞き入っている。 

「… Nの結婚についてとやかく言うつもりはない。Nと二人で話し合ったのだが、Nは、プロジェクトよりも家庭を自分は取ると私に打ち明けてくれた…。…いますぐNはプロジェクトから降りるわけではない。しかし、私は約束した。N、I、Aの3人のうち、誰かが脱落したときに、プロジェクトは打ち切りになる、と。」 

Nは、申し訳なさそうに下をうつむいている。 

「Nは私に「1年半は待てません」と述べた。このことについて、他のメンバーたちの意見を聞かせて欲しい。もしもプロジェクトを続ける意思があるのなら、その意思をここで示して欲しい…。」 

上司は苦しそうだ。ゆっくりと搾り出すように言葉を発している。

◆ 

すぐに誰かが口を開くと私は思った。しかし誰も口を開かない。皆、ひたすら黙ってうつむいている。Nや新人のUはともかく、主力メンバーのI先輩とA先輩は何か話すべきだろう。しかしずっと黙っている。一体何を考えているのだ。 

既に10分が経過した。こんなにも、沈黙が続く会議は初めてだ。 

私は、立場上、何も言えない。蚊帳の外の存在だ。部外者であるくせに、なぜか成り行きで、この場にいなければならない存在だ。だから私が黙っていることは別に問題ではない。しかし私は口を開きたかった。「何か言ったらどうですか?」とI先輩とA先輩に言いたくて仕方がなかった。私はプロジェクトの続行について何も言う権利がない。決めることができるのは、主力メンバーの3人だけだ。 

沈黙は相変わらず続く。また10分が経過した。 

私は危惧した。上司は、このような状況自体を最も嫌うのではないか?  

「他の誰かがなんとかしてくれるさ」  

他力本願的で仕事をもらうことしかできない人間を、上司は前回の会議で激しく批判した。自力で仕事を創出できる人間。上司はこのような人間に我々を鍛えようとしていた。 

にもかかわらず、I先輩とA先輩は黙り続けている。「やるのかやらないのかはっきり言えばいいのに!」と私は歯軋りしながら思った。 

案の定、再び口を開いた上司の口調は、かすかに怒りで震えていた。

「… 今回のプロジェクトについて、もう一度繰り返しておく。プロジェクトの最終的な目的は、パッケージソフトを完成させることではない。それはおまけだ。極端なことを言えば、パッケージソフトなど完成しなくてもよい。私はお前達に「自力で仕事を作り出せる自立した個人」になって欲しいのだ。それさえ果たせるのなら、最終成果物は、なんであっても、構わない。」 

「…この会社の人間は皆がそうだ。「誰かがどうにかしてくれる」と思っている。自立した個人ではない。…今回のプロジェクトには裏のタイトルがある。「自由への道」だ。もう二度とは言わない。」 

「無能な上司…。無能な経営者…。無能な同僚…。自立した個人になれば、こんな輩に悩まされることはなくなる。クリエイティブな仕事を自ら作り出せる人間になれれば、自由になることができる。幸せになることができる…。」

◆ 

皆が黙っているから、上司がずっと喋り続けている。場の雰囲気と、上司の話の内容から推測するに、この「上司だけが喋り続ける状況」はよくない。それこそ、上司を怒らせるだけだ。このような体たらくだからこそ、上司は苛立っているのだ。だから何か言えI! A先輩も一言「私はプロジェクトを続けます!」と言え早く! 

勝手に心の中で熱く叫んでいる私。私による現在の状況の読みは果たして当たっているのであろうか。

◆ 

ついに上司は、目をぎろりとI先輩へ向け、激しく話し始めた。

「だいたいIは、競争率1000倍のなかで採用されたダイヤの原石なんだぞ。それが、いつまでたっても原石のままだ! 優秀のお墨付きをもらっていながら、お前が伸びないのには理由がある。I! お前の駄目なところを教えてやろう。お前はすぐに「不可能課題」を見つけて、できることもできないようにしてしまう。今回の○○○社の○○システムの見積もりを、お前は3ヶ月と見積もったよな? 残念だが、3ヶ月あってもお前にはできない! なぜなら、お前は、最初から「自分はできない」と思っているからだ。そんなんでは駄目だ! 重要なのは「なにがなんでもやり遂げてやる!」という意思の力。お前にはそれがない!!」 

あーあ。黙っているからついに爆発しちゃったよ。馬鹿だなー。と不遜に思いつつ、傍観者の私は事態を見守る。 

I先輩は辛そうだ。最近、めっきり痩せて、頬がこけている。いつも終電間近まで会社で働き、土日もサーバー保守作業にかりだされているのだから無理もない。 

そういえばI先輩は、私の代わりに、営業支援システム保守の仕事を担当している。そのことを思い出した途端、急に私は上司に敵意を抱き始めた。 

データベースに関して豊富な知識を持ち、SQLやVBといったプログラム言語に精通しているI先輩でも、あのシステムの保守は簡単な仕事ではないだろう。日々の業務で手一杯なはずだ。そのうえで、他の営業の話にもコミットしなければならないのだ。そしてそこに突然、今回のプロジェクトの話がかぶさってきている。これは明らかにオーバーワークではないだろうか? I先輩の顔色はこの前会った時よりも悪く、頬はこけている。これ以上、別の仕事に手を出すと、I 先輩は倒れるのではないか? 

「I。お前、顔色悪いな。頬がこけているぞ。大丈夫なのか!? 仕事が今のように忙しくないならば、1週間ぐらい休ませるところだ。」

I先輩はうつむいている。I先輩、大丈夫だろうか。 

「…とにかく、だらだらしていても意味がない。プロジェクトを続けるかどうか。それを決めて欲しい。時間が欲しいならそう言って下さい。ただし、そう長くは待てません。」

「… もしもプロジェクトを続けるなら、Nが抜ける分、その負担は他の人間にかかることになります。誰かが血を流すことになるでしょう。Nが参加するにしても、プロジェクトにおけるタスクに対するNの責任は有限です。一方、我々の責任は無限です。できるまで、たとえ倒れることがあっても、やり遂げなければならない。Nは家庭を取ると私に言った。子どもを産みたいと言った。それは人間として至極真っ当な意見だ。Nがプロジェクトよりも家庭を取ることを、だから誰も責めないで欲しい…。」 

「… 俺はいつでも辞職できる。プロジェクトの続行を拒否するならば、俺は会社を早急に辞める。ただし、現在進行している○○社との取引については、それが落ち着くまで、最後まで担当するつもりだ。途中で放り投げたりはしない。しかし、あくまでも引き継ぎを前提に、という話になるが。」

「…質問があるなら何でも聞いてくれ。…とにかく、このままずっと沈黙が続くのは、我慢できない。お前達にとっての1年は、私にとっての2年だ。あまり時間はとりたくない。私は自分が幸せになれる方法を知っている。ここに居続けることは、その方法ではない。…私とNを除く残りの4人で話し合って決めてくれ。今後どうするのかを。そしてその結果を1週間後に私へ伝えてくれ。」 

ここまで話すと上司は、Nと共に会議室から出て行った。

◆ 

段々、私は上司に不信感を持ち始めていた。要するに、我々は上司に振り回されているだけではないか? プロジェクトの目的は、我々のビジネススキルのアップにあると言いながら、耐え難いほどの負担をメンバーに課し、もしもI先輩が過労で倒れたら、いったいどうするつもりなのだろう? 

しかし私の中では、「他の誰かがなんとかしてくれるさ」というネガティブな言葉に対する嫌悪と、「自立した個人」や「自由へ道」という、口にすることが恥ずかしいほど真っ直ぐで魅力的な言葉達に対する興奮と期待が、同時に存在していた。 

上司は、我々のことを思って、プロジェクトを企画したのだ。自分のためではない。とっとと転職活動したほうが、この会社になんの未練のない上司にとってはプラスであろう。上司の年齢は35歳。転職するならば、できるだけ若いうちのほうがいいに違いない。 

プロジェクトを続行することは、上司にとって何のメリットにならない。上司には早く辞職してもらったほうが、上司のためではないか?

◆ 

会議室には、私と新人のU、そしてI先輩とA先輩が残された。相変わらず沈黙が続いている。もう私は我慢できない。喋ることにする。 

「私は今回のプロジェクトに関しては部外者的な人間ですが、思うところを述べさせていただきます。上司は、我々の体質を直したいと考えていると私は思います。つまり、現時点の我々は、「自分で仕事を創出しそして営業活動も行える自立した個人」ではないということです。上司はプロジェクトが今中止になれば間違いなく辞職します。また仮に、プロジェクトが続行になったとしても、1年半年後には会社を辞めます。つまり我々は遅かれ早かれ、上司の穴を埋めるために、自らが上司のように行動せざるをえなくなります。そうであるならば、上司の転職のことも考えて、上司には今、会社を辞めていただいたほうがいいのではないでしょうか? 上司も言っていたように、我々にとっては1年でも、上司にとっては1年は2年に相当します。時間は貴重なのです。上司にとってプラスになるよう、我々は動くべきではないでしょうか? どっちみち我々は自分で動くしかなくなります。上司が今やっていることを、我々がしなくてはならなくなります。 A先輩。私のこの意見をどう思いますか? どうか反論して下さい。」

◆ 

いきなり喋り始めた私を、それまでうつむいていたA先輩が見つめた。A先輩は泣いていた。涙が頬についている。28歳の男が泣いている。 

この中で一番長く上司と仕事をしてきたのは、紛れもなくA先輩だ。きっと様々な経験を、A先輩は上司と共有しているのだろう。だから泣いているのだ。 

A先輩は次のように答えた。 

「…俺は、やるよ。上司の気持ちを無駄にしたくはない。俺は上司がいるからこの会社にいるんだ。上司がいなくなったら、俺はこの会社、辞めるよ。…俺は、やる。」 

A先輩の視線は、終始沈黙を続けているI先輩に向いた。 

I先輩は黙っている。口をへの字に曲げて、何かに耐えるように硬くなって黙っている。 

おそらくI先輩は、プロジェクトに参加したくないのだ。あまりにも負担が大きすぎる。もしも私がI先輩の立場だったならば、プロジェクトの続行を拒否する。上司には悪いが、私は自分の健康が大事だ。倒れたくはない。 

「I。お前はどうする?」 

A先輩の問いかけに、I先輩は即答できずにいる。しかし、やっと次のように答えた。 

「わ、私は、自分のスキルがアップすることはいいんですが、本業務との両立ができるかどうか心配で…。今ここで結論を出すことはできないです…。…も、もう少し考えさせてください…。」 

結局、この日は意見がまとまらなかった。 

時計を見ると、いつのまにか23時を過ぎている。 

A先輩の提案により、次の会議の日までにメールで意見交換をし、4人で結論を決定することになった。

◆ 

話を前へ進める前に、各登場人物の詳細を記しておきたい。主に、S先輩やI先輩やT先輩や上司について書いておきたい。 

S先輩、I先輩、私。この3人は実は同年齢である。3人とも27歳である。さらに言うならば、同期のNも27歳である。ちなみに新人のUは26歳である。 

まずはS先輩のことから。

■S先輩について 

S先輩は去年会社を辞めた。最近、S先輩に会った同期から、「保守は嫌なんだよもう」とS先輩が話していたと聞いた。 

私と共にサーバーの保守をしていた頃、S先輩はしきりに「倒れたら、休めるかな…」とつぶやいていた。または、次のような冗談なのか本気なのか分からないことを話していた。  

「この薬って本当に効くの? 精神病って本当にあるのかな…。いっそ精神病になりたいよ…。」 

我々が保守していたのは、某製薬企業の営業支援システムであった。 

いわゆるMRと呼ばれる薬の営業マンたちが、医師に薬を販売しに行く際に持ち運び利用するノートPC。営業支援システムは、このノートPCに組み込まれていた。 

どの薬がどの病気のどの医師にどれぐらい売れたかという情報が、そのPCに組み込まれた営業支援システムに保存されており、MR達は彼らのノルマが終了すると、その結果をシステムに入力するのである。 

販売される薬の多くは、精神疾患系の病の薬であった。 

土日が当たり前のように仕事でつぶれ、正月もつぶれ、日夜お客さんからの問い合わせやシステム障害の対応に追われ、明らかにS先輩は弱っていた。「なんかふらふらする」と言いながら、本当にふらふら歩いていた。 

S先輩が会社を辞めるのは必然だったと今更ながら思う。あのまま続けていたら、きっとおかしくなっていたと思う。 

S先輩は保守の仕事から抜けたがっていた。だから常に配置転換願いをしていた。しかし、S先輩の願いは、ことごとく無視された。S先輩は会社を辞めることでしか保守の仕事から離れることができなかった。 

もちろん上司は歯軋りした。確かあれは去年の12月だった。S先輩が会社を辞めることを上司に伝えたのは。

去年の8月にサーバー保守の仕事に配置転換された私が、4ヶ月後の12月になっても全く使いものにならず、「お前にはこれまで散々投資してきたが、無駄に終わりそうだ。お前はSEには向かないのかもしれん。」と上司からお叱りを受けていた、あの寒い季節だった。 

もともと、S先輩ひとりでは保守の仕事に対応しきれないという理由で、私はサーバー保守の仕事に配置転換された。しかし、助っ人の私はS先輩を助けることができず、それどころか、S先輩の足ばかり引っ張っていた。 

もう少し私の頭が良ければ、S先輩を助けられたのにと思う。

■T先輩について 

S先輩の仕事量が急激に増えたのは、S先輩と共にサーバー保守を担当していたT先輩が、仕事中に突然死したことが発端だった。 

今でも詳しくは知らないのだが、あの日T先輩は通常通りに仕事をしていて、そして突然倒れて動かなくなってしまったという。その場に居合わせた上司は、どうしていいか分からず当惑した。「深呼吸を試みることしか自分にはできなかった」と上司が私に話してくれたことがある。 

上司のデスクには、メガネをかけた長髪の青年の写真が置かれている。T先輩だ。 

上司は毎年、T先輩の命日には必ず会社を休む。そう自分で公言している。いくら忙しくても休む。そしてT先輩の実家を訪ねる。 

話がT先輩のことに及ぶと、上司の顔はこんにゃくのように歪む。だから上司はT先輩のことをあまり話したがらない。だから私もT先輩のことについてはあまり知らない。上司の右腕だった。仕事のできる奴だった。ということしか知らない。

■I先輩について 

I先輩は、オタクと呼ばれる人々に近い。 

ゲーセンが大好きで、休憩時間にゲーセンへ行ったりする。 

I先輩はもともと、ゲーム製作の会社に行きたかったのだそうだ。しかしゲーム製作会社は競争率が異常に高く、優秀なI先輩も最終面接まで残ったことは2社ぐらいしかなかったらしい。 

I先輩の本心あるいは本音を、私は去年の2月に聞いたことがある。私は、自分の退職の意思を、上司に伝える前に、デスクが隣のI先輩に伝えた。 

「もう保守の仕事も4ヶ月になるんだから、そろそろ独り立ちしないと…。」 

世話好きのI先輩に上記のようなことを言われた矢先、会社を辞めたいという意思を、私はI先輩に吐露したのだった。 

「実は、私は会社を辞めようと考えています。あとで上司に伝えるつもりです。」 

いきなり業務中に上記のように切り出されたI先輩は、目を丸くし、息を吸った。 

「え?ちょちょっとこっち来て話そうこっちこっち」 I先輩に先導されるようにして、社内の奥の会議室へ歩いていく。I先輩は、私の向かいに座り、引き止めにかかってきた。 

「落ち込むのはまだ早いよ! もともとお前は4月に入社して2ヶ月の新人研修を受けて、その後銀行でパンチャーの仕事を2ヶ月したあとに、いきなり8月からサーバー保守の仕事を担当させられているんだから、仕事に慣れることができないのは当たり前なんだよ! データベースやSQLの学習を特にみっちりやったわけでもない新人が、いきなり保守の仕事をやらされているんだから、うまく行かないのは無理もないって!」 

「いえ。私は会社を辞めます。私にSEは合いません。今までお世話になりました。」 

「… あ、あのね。ぶっぶっぶっちゃけ俺もこんな会社辞めたいんだよ! 実は先週、会社に内緒で午前休とって別の会社の面接受けてきたんだから! Sが辞めて同期はみんな言っているよ。いいなあいつって。辞めたいけどふんぎりがつかないから皆、本当は嫌々、この会社に居るんだよ! 俺も辞めたいよ! もともと好きでもなんでもないサーバー保守の仕事させられて、何度配置転換願いを出したか分からない。お前だけじゃないよ、辞めたいのは!」 

I先輩は口角泡を飛ばして自らの心境を語りだした。その剣幕に私は驚いた。息せき切って目をカッと開いてまくしたてるI先輩。どちらが会社を辞めようとしているのか一瞬分からなくなるぐらい、I先輩の語りには迫力があった。 

しかしI先輩はひとしきり自分のことを話した後、風船がしぼむように静かになってしまった。結局、会社を辞めたいのは俺もお前も同じ。それならばわざわざお前を俺が止める理由もない…。I先輩は、自分の本音を私に話しながら、そんな風に考えたのかもしれない。 

そこへ、上司が笑顔で割り込んできた。

■上司について 

上司は某高偏差値国立大卒。記憶力抜群の男である。会議で自分が他人に喋った内容を、半年後にそのまま繰り返すことができる。仕事のできる男。本物のSE。プログラム構築から、客との交渉、そして営業まで、すべてこなすことができる。 

笑い声が豪快で、その声は社内に響き渡る。よく笑うのはいいのだが、気性がとても変わりやすい。喜怒哀楽が激しいといえば聞こえがいいが、上司の場合、笑っているか他人を恫喝しているか、のどちらかである。 

仕事がうまくいかないと、デスクを足で蹴る。機嫌の悪い時は、部下のなんでもないセリフに「怒るきっかけ」を故意に探し、怒鳴り散らす。 

この前は、朝出社して来るなり、「今日は熱があるのにIと仕事の相談があるからわざわざ来た!」と、なぜかキレていた(そしてデスクを蹴った)。なぜ怒りだすのか、よく分からないことが多い。きっと、何らかのコンテクストがあるのだ。 

芸術家タイプの人。頭がよすぎるので、その回転に皆がついてゆけない。 

私はこの上司を憎む時もあれば尊敬するときもある。 

攻撃的で他人を傷付けるような冷たい言葉を時に上司は言い放つ。そんなときは「こいつ殺す」と短気な私は思う。 

しかし、T先輩の命日に墓参りに出かけたり、部下を先に帰らせて自分だけ夜遅くまで仕事に取り組んだり、カラオケで尾崎豊を熱唱したりしているのを見ると、「この人は決して悪い人ではない」と思い直す。

◆ 

その上司が、I先輩と私が座る机に横から笑顔で入ってきたのである。 

機嫌がいい時はとことん機嫌のよい上司は、I先輩から事の顛末を聞くと、途端に顔色を変えた。 

上司は彼の右腕であるA先輩を電話で呼び出し、私の説得にあたらせた。 説得というよりも、私とA先輩を会話させようとした。もちろん上司も会話に参加した。いつものようなピリピリとした緊張感はなかった。「本当に辞めてしまうつもりなのか?」と心配そうにこちらの様子を伺ってくるような、そんな雰囲気が漂っていた。上司は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。上司の表情には、「辞めます」と部下に言わせてしまった自分自身に対する、反省の念が、入り混じっているように思えた。 

A先輩は私に「SEといっても様々な仕事がある。別の仕事をやってみないか?」と提案した。 

考えた末、私はその提案に乗ることにした。 

そして私は現在、某IT企業でDMの仕事に従事している。

◆ 

プロジェクト開始から数日が経過した。

その間、本社において不定期に突然開かれるチームミーティングに、出向先から地下鉄に乗って、急いで駆けつける日々が続いた。 

出向先の仕事も忙しく、途中で出向先を抜け、ミーティングのためだけに本社に戻り、そして再び出向先に戻って仕事をするのは疲れた。年末は、ずっとこの調子だった。 

もう、あまりにもミーティングで新たな情報に晒されすぎたので、その全てをここに書き残すことはできない。 

しかし、可能な限り、これまでの出来事を含めて、何が起きたのかを列挙しようと思う。

1、同期のNの都合により、プロジェクトが危機に立たされた。同期のNが今年の7月に結婚し、そしてそのまま寿退職するため、上司があらかじめ設定していた条件(チームメンバーであるA、I、Nのうち、1人でもプロジェクトを脱退したならばプロジェクトは中止し上司は辞職する)が満たされてしまった。
2、プロジェクトを続けるのかどうかについて、急遽ミーティングが開かれた。
3、プロジェクトを続けるかどうかの判断は、大先輩のAさんと、4年目のI先輩と、2年目の私と、新人のUに任された。

ここまでがこれまでのあらすじ。 そして年末のラスト2週間は、以下のような具合だった。

1、期日の日までに4人はメールで意見交換を行った。4人中I先輩を除く3人は、すぐさま「プロジェクト続行」の意思を示したが、I先輩はなかなかメールを書いてくれなかった。
2、期日の日の前日に、I先輩からのメールが他の3人に届いた。I先輩も「プロジェクト続行」という判断をした。
3、期日の日、再び会議室に集まった我々はプロジェクト続行の意思を上司に伝えた。
4、上司。我々の報告を聞いて切れる。
上司の言い分は次の通り。 
①プロジェクトを続行したいならば、その覚悟を見せてほしかった。
②なのにお前らは覚悟を見せずに「プロジェクトを続行したいです。」という希望だけを示す。本当にやる気あるのか?
5、怒った上司は次のようにA先輩とI先輩を圧迫した。
「おいA。お前は来週までに、今俺が営業かけている○○社の○○システム構築についてその工数見積もりと、予算の計算と、人集めをしてこい! 俺しかできない仕事かもしれないが、お前がやってみろ!」
「I。お前は○○○との契約更新を俺の名前無しで通して来い!」 
今まで自分がしていた仕事、今まで自分が担当者として名を連ねていたからこそ通ったであろう契約交渉から、自分の名を消して、お前らだけで何とかしてみろという挑発。これを上司は行った。
「プロジェクトを続行したいです。」としか述べないお前らは甘えている。本当にプロジェクトを続行させたいなら、その覚悟を見せてみろ。そう言って、上司は部下を追い立てた。 
傍で私は見ているしかできない。DMの仕事と、A先輩やI先輩が従事している仕事は、その性格が異なる。私は傍で見ているしかできない。
6、プロジェクトの続行は、A先輩とI先輩が上司より与えられた仕事をこなせるかどうかによって、判断されることになった。その期日の2日前。再び私は緊急にミーティングへ呼ばれた。
7、事態急変。なんとI先輩が退職の意思を表明。一同、唖然。

◆ 

上司とI先輩は4時間ほどふたりだけで話し合ったらしい。喧嘩した後で初めて顔に出せるような、妙に爽やかな表情をして、上司とI先輩は机に座っていた。 

I先輩は、これから司法書士を目指したいとのこと。今年の2月に退職して、専門学校に入学するための勉強を始めたいとのことだった。 

上司は、終始笑顔だった。 

この人は山の天気みたいな人だから、疲れる。ころっころっころっころ変わる。でも、なにか本当に吹っ切れたみたいで、穏やかな顔をしていた。 

その笑顔いっぱいの上司は、そもそもなぜ自分はプロジェクトを立ち上げたのか、という話を皆の前でしてくれた。 

その話が非常に興味深かった。

◆ 

上司の話。 

我々の会社における仕事の大部分は、元請けの大企業から、下請けとしてもらってきたものだ。 

元請けの会社は、下請けである我々に仕事を流すだけで、客からもらう代金のうち30~40%を管理費という名の下で受け取る。我々は残りの70~60%を受け取る。客は我々のような無名の中小企業よりも、大手のブランド名を欲しがる。たとえ実際の仕事をするのは我々だとしても。 

ここまでは周知の事実。 

しかし我々の会社は、元請けの会社からより多く仕事がもらえるよう、新人をわざと多く採用している。なぜ新人を多く採用すると、元請け会社からより多くの仕事がもらえるのか? そのからくりはこうだ。 

この業界。いわゆるIT業界では、下請け会社のSE1人に対して100万(1ヶ月につき)を超える代金が、元請けから支払われることはない。理由は分からないが、1ヶ月単位100万以上の支払いを、元請けは下請けの会社の人間1人に対してしたがらない。だから、たとえ1ヶ月120万の働きぶりができるSEがいたとしても、貰える仕事は1ヶ月100万以内のものに必ず限定されてしまう。 

そこでうちの社長は、新人を多く採用することにより、新人と中堅SEをセットにすることで、大手からより多くの仕事を下請けするという戦略に出た。つまり、今までは100万ほどの仕事しかもらえなかったにもかかわらず、新人を頭数に含めることにより、大手から例えば160万円の下請けの仕事をもらうことが可能になった。 

つまり、我々に1ヶ月160万を支払う大手にしてみれば、我々の会社の社員2人に対して、それぞれ1ヶ月80万の仕事を与えていることになる。今までもらえる仕事の上限が1ヶ月100万円であったことを考えると、新人と中堅SEをセットにして仕事をもらったほうが、より多く仕事がもらえるということだ。例えば、中堅SEが10人いた場合、もらえる仕事は多くて10×100の1000万だ。しかし新人を10人採用して、そいつらを中堅とのセットにした場合、 10×160。1600万が見込める。平成2年頃から、うちの会社の社長はこうやって収益をあげているのだ。 

しかし、この戦略には問題がある。 

はっきりいって新人は使い物にならない。1年目はおろか、2年目も似たようなもので、やっと使い物になるのは3年目の中頃だ。つまり、社長の戦略により、ちゃんと働けるSE2人分の仕事が、中堅SE1人のノルマとして押しかぶさってきてしまうのだ。 

新人は使い物にならない。しかし新人は、大手からより多くの仕事をもらうために頭数として必要だ。そして、いざ仕事をもらうことができたならば、負担は中堅SE1人にかかる。新人は使い物にならない。新人の分をカバーするために、中堅SEが働かなければならなくなる。 

そのため、我々の会社で一番負担を強いられているのは、中堅SEだ。新人ではできない仕事、こなせない仕事を、残業して行うのが我々中堅だ。4年目からその上の世代。つまり、Aや私に負担がかかってくる。 

これほどまでに退職していく4年目の人間が多いのは、彼らにかかる負担が大きすぎるからだ。そしてなによりも私自身も辛い。仕事が辛い。せめて労働時間は250時間にとどめたい。終電前までの残業や、休日出勤は体にこたえる。 

新人と我々中堅SEをセットにすることによって、我々の会社はより多くの仕事を大手IT企業から貰うことができる。しかし、中堅SEにかかる負担は増大する。なぜなら新人は使い物にならないから。 

社長はそこのところを分かっていない。新人が順調に育ち、4年たっても5年たっても、うちの会社に居続けてくれるなら、社長の戦略は報われるといえる。しかし、現状では、新人の8割は5年後には消えている。にもかかわらず、社長は新人を大量採用し続けている。その結果、中堅SEの負担は増大するばかりだ。 

新人は、給料貰って遊んでいるようなもんだ。その給料は4年目や我々中堅SEが働いて捻出したものだ。なのに、新人は5年後には8割もいなくなってしまう。これでは持ち逃げだ。投資しても回収が全くできていないことになる。 

つまり、まとめるとこうだ。 

①「新人大量採用により大手から下請けの仕事を多く受注」戦略では、新人が使い物にならないため、実質的に中堅SE(4年目から上の世代)に過剰な負担がかかる。そのため、4年目の人間が次々に会社を辞めている。 
②さらに、新人の8割は5年後には消えてしまうので、中堅がこれまで行ってきた投資はほとんどパーになる。新人が順調に育ち、会社に居続けてくれるならば、その分中堅にかけられていた負担は減る。しかし、現状ではそうなっていない。新人は辞めていくばかりである。 

何度もこの話は社長にした。幹部会議でも議論を行った。このまま「新人大量採用による大手からの受注倍増路線」を続けてしまうと、この会社の中堅SEが疲労し、会社にとって有害だ、と。 

しかし社長は聞く耳を持たない。確かに、うちの会社の収益率は伸びている。社長の戦略は功を奏しているように見える。 

しかし、その成功は、4年目より上の我々中堅SEにかけられる多大な負担によって成り立っている。その負担は半端ではない。プレッシャーも大きい。その負担に耐えられなくなって、今まで何人の優秀な人材が辞めていったか。4年目にもなればお前達も分かる。ノルマを達成するために、いかに我々中堅SEが負担を強いられているのかが。 

今回のプロジェクトは、このような「大手から仕事をもらうしか能のない下請け状態」を抜け出すために私が思いついたものだ。 

このままではこの会社は破綻する。現にその兆しは見えている。他ならぬ私自身が、辛さを抱えている。辞職しようと本気で考えた。今でもそれはかわらないが。しかし私はこの会社が好きだ。できればずっとここにいたい。しかし、ノルマを達成するために担うべき負担が半端ではない。もっと、楽になりたい。 

下請けにできることには限界がある。大手からもらえる仕事には上限がある。会社というものは、収益を伸ばしていかなくてはならない。それぐらい分かるだろう? 収益を伸ばす方法として、うちの会社の社長が採っている戦略が、「新人の大量採用により大手から仕事をより多くもらう」というものだ。私はこの戦略は間違いだと思う。そこで私は、別の戦略を思いついた。それが、「アイディアで金を設ける」という戦略だ。独創的なアイディアに裏打ちされたパッケージソフトを開発し、それを売ることによって、金を稼ぐ。社長の戦略よりもこちらのほうが費用対効果の点で優れている。 だから私は今回のプロジェクトを思い付いたのだ。

◆ 

上司は淡々と話してくれた。 

ホワイトボードに図や言葉を描きつつ。 

いつものような威圧感や緊張感はない。 

上司は、彼が会社で働いていく過程で、否応なく引き受けざるをえなくなった過剰な負担を苦しいと感じた。なぜ自分はこんなに苦しいのか。疑問を持った上司は、自分自身の辛さの原因をさがした。そして紡ぎ出すことができたのが、上記のような物語だったのだ。 

そうか、辛いのは我々だけではなかったのか。 

上司が机を足蹴りしたくなるのも、今では十分に分かる気がする。

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