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適応障害で休職、復職後2年が経って

最近思うことを、つらつらと書いて頭のなかを整理してみたい。

わたしが適応障害になったのは、職場の人が原因でした。
(自分の認知のゆがみも原因のひとつではある)。

その人に振る舞いや物言いが似ていると感じると、反射的に「近づいたらいかん」という危険信号が頭のなかで鳴ります。

それと同時に思うことは、「こういう人は世の中に一定数いる」ということです。

単に苦手な人というレベルを越えて、他人を攻撃する人は世の中に存在する。「なにがその人をそうさせているのか」は考えてはいけない。それはその人の問題なのだから、という考えが浮かびます。

それと、もうひとつ思うことは、人は「主観のなかで生きている」ということです。

仕事において「私情を持ち込んではいけない」「感情的になってはいけない、冷静に」とよくいいますが、そんな人間はいないとわたしは思ってしまいます。

だから私情をいれていい、感情的になっていいといいたいのではなく、主観を完璧に排除できる人間なんていないし、仕事とアイデンティティは結び付いているものであって、個人的な感情で人の足を引っ張ったり、不当な評価をしたり、責任転嫁する人がごまんといるのは、仕方のないことなのではないか、と思うのです。

つまり、自分も含めて人間はみんな身勝手で、それが人間らしい営みなのではないか。
仕事、役割を全うして、人を傷つけず、社会に貢献できている人なんていないかもしれないし、それがこの世の中のあるべき姿と思っているわたしの考えこそが、生きづらさを生み出していたのではないか、と思います。

20代のわたしは、「世界は正しくて、私は間違っている存在だ。常識や礼儀、スキルを身に付けてちゃんとした大人になって正しい存在にならなくてはいけない」と思っていました。
でもしばらくして、「世界はバカだ。わたしもバカだ」と思うようになり、少しラクになりました。

だからといって、自分が休職したことを「仕方ない」と片づけられるわけでもありません。
なぜ真面目に働いていただけでこんな目に合わなくてはいけないんだ、というアンフェアな気持ち、その人を恨む気持ちは消えません。

2年経った今でもふとしたことで当時を思いだし、沸き起こる感情と向き合わなくてはいけません。誰にもわかってもらえない怒りと憎しみ、自責が心のなかに残されたまま、また同じことが起こるのではないかという恐れを抱えたまま、今後の人生を歩んでいかなければなりません。

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