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Making Sense - Finding Our Way 1-3

A Conversation with David Deutsch

H:それでは、文明の維持について話しましょうか。それについて、どのような心配事がありますか?

D:私は人類の歴史を長期にわたる完全な失敗と見ています。つまり、進歩を遂げられなかったという観点からの失敗です。われわれの種は、数え方によっては10万年から20万年の間存在してきました。その間、人々は生きて、考えて、苦しんで、何かを求めていました。しかし、何も改善されなかったのです。改善が起こったとしても、非常にゆっくりと進んだため、考古学者は遺物を数千年単位でしか見分けることができません。世代から世代へと続く苦しみと停滞の時代です。
その後、改善はゆっくりと進み、そして進歩の歩みが加速しました。そして、批判の伝統を制度化しようとする試みもありました。私はそれが急速な進歩、つまり人の一生の中で認識できる進歩の鍵だと考えています。また、誤りの修正も行われ、逆行が起こりにくくなりました。これは何度か試みられましたが、一度を除いてすべて失敗しました。その成功した一度というのは17世紀から18世紀のヨーロッパ啓蒙時代(啓蒙時代 - Wikipedia)です。

私が心配しているのは、持続的な進歩という貴重な事象の継承者が、現代の世界の人口のごく一部でしかないということです。それは「西洋」と呼ばれる文化、あるいは文明です。西洋だけが制度化された批判の伝統を持っています。これには様々な問題があります。西洋と比較されることで自らの失敗が大きく浮き彫りにされるという文化が存在し、その失敗に対処しようとして創造性を欠いた手段を取るという危険性があります。これは非常に危険です。そして西洋においても、文明を維持するために必要なものが広く理解されているわけではありません。また、あなたが指摘したように、西洋の人々の見方というのは、危険なほどに間違った知識と進歩と文明と価値観に基づいているのです。それは特に教養のある人々に関しても言えることです。文化的な制度は急速な変化にもかかわらず数百年にわたって安定を保ってきましたが、急速に増加する知識に対して文明を安定させるために必要な知識は広く共有されていません。
私たちは、まるであらゆる種類の救命装置が備わった、巨大でよく設計された潜水艦に乗っているのに、自分たちが潜水艦に乗っていることを知らず、モーターボートに乗っていると勘違いして、素敵な景色を見たいと思って全てのハッチを開けようとしているのです。

H:それは良い例えですね!率直に言って、私が最も心配している誤解は、割と一般的に広がっていると思うのですが、進歩などは存在しないという考え方です。また、道徳的な進歩も存在しないと考える人もいます。多くの人々は、異なる文化や生き方の優劣を正当化することはできないと信じています。なぜなら、道徳的な真理は存在しないと考えているからです。これらの人々は何故か、20世紀の科学や哲学からこの教訓を得たのに、21世紀に入っても、非常に頭の良い人々 - あなたもよく知っているであろう著名な物理学者で、私も過去にこの問題で議論が衝突したことがある人々ですが、彼らでも奴隷制が間違っていると非難することが、科学と何の関連もない単なる好みであると考えているんです。
高学歴の人たちの間で、この偽善と二重思考がどれほど狂っているのか、その例を挙げましょう。私はソーク研究所(ソーク研究所 - Wikipedia)の会合で、事実と価値観の間にあると言われている疑惑などについて話しました。これは、科学者から広く受け入れられた哲学から生まれてきた怪しげな考え方だと思っています。私は道徳的現実主義を主張し、次のようなことを言いました。「良い人生を送るにはどうすれば良いかという問いに対して、最善ではない答えだと確信できる文化があるとすれば、それはタリバンです。例えば、人口の半分を布袋の中で生活させ、組織から出ようとすると殴ったり殺したりするような習慣を考えてみてください。人間の幸福についてほんのわずかでも理解していれば、これは馬鹿馬鹿しく、不道徳な行為だとすぐにわかる。」
そうしたら、学会でタリバンを貶めることが論争を呼び起こすことになったのです。私の講演の後、関連する分野で複数の大学院の学位を持つ女性(厳密には生命倫理学者ですが、科学、哲学、法律の大学院の学位を持っています)が、次のように言いました。

D:その人は素晴らしい経歴をお持ちだけれども、だからと言って私は彼女の言うことを鵜呑みにはしませんね。

H:そうですね。この天才の方は、「生命倫理問題研究大統領委員会」の委員にもなってるんですよ。彼女はオバマ大統領に現在の医学の進歩の倫理的な意味合いについて助言する13人のうちの1人です。
私の講演後、彼女はこう言いました。「女性や少女にベールの下で生活することを強制することが間違っていると、どうして言えるのでしょうか?あなたがそれを好まないのはわかりますが、それはあなたの西洋的な善悪の概念に過ぎないですよね」。
私は、「善悪の問題が、意識のある生き物、この場合は人間ですが、その幸福に関係すると認識した時点で、私たちは道徳的な観点から判断を下すべきです」と言いました。この場合、人間の幸福を最大化する難題に対して、ブルカ(ブルカ - Wikipedia)が最適な解決策ではありえないわけです。
すると彼女は、「それはあなたの意見でしょう」と言いました。
「それでは、もっとわかりやすい例を挙げましょう。どこかの島で、3人目の子供は必ず眼球を摘出するという文化を見つけたとしましょう。それは、人間の幸福を完璧に最大化していない文化を見つけたと言って良いですよね?」
「それは、彼らがなぜそうしているかによるでしょう。と彼女は言いました。
「例えば、宗教的な理由でそうしているとしましょう。聖典に『三人目の子供は暗闇を進むべきだ』とかなんとか、そんなくだらないことが書いてあるとします。
そうしたら、「その人たちが間違っているとは言いきれないでしょう。」と彼女は言いました。
つまり、この仮想の野蛮人が宗教的な戒律の下でそれを行っているのであれば、それは彼女にとって他のすべての可能な真実の主張を凌駕し、その結果、道徳的な観点から善悪を主張する余地を一切残さないということです。ある物理学者と同じような会話をしたことがあります。「私は奴隷制度が好きではありません」と彼は言いました。「私自身は奴隷になりたいとは思いませんし、奴隷を所有したいとも思いません。しかし、科学的には、奴隷の所有者が悪いと言えるような立論はありません」。
道徳と人間の幸福、あるいはありとあらゆる意識のある人間の幸福と道徳には関連性があることを認めれば、この人たちの主張のように、状況はそれぞれの人によって異なるという道徳的相対主義を取ることは、幸福について何もわかっていないだけでなく、これからも知りえることはないだろうと言っているのと同じです。その根底にあるのは、考えうる限りの知識の飛躍的進歩があったとしても、全ての人が不幸になる状況と、そうではない良い状況の違いを明確にする方法に関して何も教えてくれないだろうという考え方です。
心配なのは、あなたが言った進歩や、人類のごく一部の人たちが見つけた生活を改善する創造的な方法が、多くの人々からは物議をかもし、偏見と見なされる可能性があります。しかも、その多くの人たちは、私たちがどう生きるべきかの決定権を持っている可能性もあるわけです。

D:それは怖いですね。でも、世界というのは常にそうだったと思います。私たちの文化というものは、私たち自身よりも多くの面で賢明なのです。たとえば、共産主義を打ち破った人々は、それをキリストのためにやっているんだと言ったかもしれません。しかし、実際にはそうではありませんでした。彼らは西洋の価値観のためにやっていました。ただ、彼らはそれを「キリストのためにやっている」と再解釈するように育てられたのです。彼らは「民主主義と自由の価値は聖書に籠められている」と言ったりしますが、実際にはそうではありません。しかしながら、そうだと主張することは、素晴らしい文化の一部であり、実際に世界を良くしました。したがって、世の中はそれほど悪いものではないんです。あなたが言ったような多少変わった学者のせいでそう思ってしまうかも知れないけど。

H:そこまで悪くはないと言えることがあるとしたら、たとえ彼女のような人間でも、そのような偽善を実際に生き抜くとは不可能だということです。例えば私は彼女にこう言うことができたかも知れません。「わかりました。あなたに賛成します。娘をアフガニスタンに1年間留学させ、タリバンの家族と共にブルカを着て暮らすことを強要することにします。どう思いますか?それが彼女にとってベストな時間の使い方だと思いますか?娘にこんなことをする私は良い父親でしょうか?私が自分の外国人嫌いの偏見に屈っして娘をアフガニスタンに送り込めば、私は自分の主張を曲げたことになるけれども、娘にとっては悪いことだと判断する根拠はないですよね?この決断を支持してくれますよね。」さすがに彼女でもこれには躊躇すると思うんです。私たちは皆、望ましくない生き方というものが存在するということ直感的に知っているのだから。

D:そうですね。もう一つ、それに関連する皮肉があります。それは、あなたが道徳的相対主義者でないことを彼女が進んで非難しているということです。しかし、道徳的相対主義というのは西洋文化にしかない病理なのです。他の文化では、彼らにとっての確固たる善悪というものがあります。ただ、その善悪とは何かについての考えが間違っているけれども、そのことにはなんの疑いも持っていないということなのです。そして、なぜか彼女はその間違いを指摘するあなたを責めている。
あなたは それを"偽善 "と呼んでいますね。でも、これはすべて冒頭で取り上げたのと同じ間違いに端を発していると思います。それは、経験主義です。つまり知識は感覚を通してもたらされるという考え方です。そして、それが科学主義につながりました。科学はそれ自体で理性のすべてを構成する。科学的方法が合理性のすべてを構成するという考え方です。その結果、道徳というものが存在しないという考えにつながります。なぜなら、道徳を実験してテストすることができないからです。あなたはそれに対して「人間の幸福というわかりやすい基準を採用すれば可能だ」と反論するでしょう。しかし、それには少し無理がある。なぜなら、感覚から道徳を導き出すことはできないのだから、道徳は存在しないという考え方は、感覚から科学的な知識を導き出すことができないのだから、科学的な知識は存在しないと言っているのと同じ議論です。
20世紀になると、経験主義がナンセンスであることがわかり、それゆえ科学的知識はナンセンスであると結論づける人が出てきた。しかし、本当に正しいのは、科学は経験主義に基づくものではなく、理性に基づくものであり、道徳も同様である。だから、道徳に対して理性的な態度をとるなら、道徳は道徳的な知識で構成されると結論付けるはずです。そうすると、知識は常に推測で構成されているわけですから、その根拠を必要とせず、批判をする姿勢だけが必要だということになります。そして、その批判をするという姿勢もまた、それ自身が批判をするという姿勢に晒されるという基準に基づいているわけですから、最終的には超越的な道徳の心理に到達することができるわけです。もし、すべての知識が思い込みであり、改良の余地があるとすれば、知識を改良する手段を守ることは、特定の知識自体よりも重要です。そのように考えれば、「人間は栄えるべきだ」、「人間はみな平等だ」と考える前に、まずは「奴隷制度は忌むべきものだ」という考え方に直接行きつくはずです。人間の幸福は、ほとんどの現実的な状況において正しいでしょうが、絶対的な真理ではありません。例えば、全ての人類が自殺することが正しいというような状況だって想像できるかもしれない。

:あなたの、無限の知識の獲得、及び説明の考えと、私の道徳的実在論(道徳的実在論 - Wikipedia)の間には相同性(相同性 - Wikipedia)がありますね。私たちの見解が正確に同じかどうかはわかりませんが、あなたの本の中でとても共感する一節があるんです。それは、「道徳哲学とは、次に何をすべきかという問題についての哲学である」という部分です。もっと一般的に言えば、どんな人生を送るべきか、どんな世界を望むべきかとおっしゃっていますが、この「次に何をすべきかという問題」というフレーズは、道徳というものをよく捉えていると思うんです。なぜなら、私は長年、道徳というのは一種の指針に関する問題だと主張してきたからです。
仮に「道徳」とか「善悪」とか「正しいとか正しくない」という言葉がなくても、指針の問題はあると思います。私たちは、様々な経験をする可能性がある世界に突如として存在することになったわけです。そして、その経験の中で我々にとっての最悪の不幸な状態と、そうではない状態では明らかに差があるはずです。だからこそ、少なくとも最悪の不幸な状態を回避するための指針に関する議論が必要なわけです。その上で、他にはどんな種類の幸福が可能なのかとか、まともな意識の持ち主にとってどのような意味、美、至福を得ることができるのかという話をするべきではないかと思うんです。
私にとって、あらゆる種類のリアリズムは、「知らないことに気づいていない可能性がある」ということの表明に過ぎません。地理に関して現実主義者であるならば、世界には自分が知らない場所があることを認めなければなりません。もし現在が1100年で、オックスフォードに住んでいてアフリカを知らなかったとしても、アフリカはあなたが知っているかどうかにもかかわらず存在するし、発見することができたわけです。これが地理的なリアリズムです。物事は、それが真実であることを知っているかどうかにかかわらず真実であり、一度真実であることを知っても、その知識を忘れてしまうこともある。あなたが指摘したように、文明全体が、人間の繁栄に不可欠な知識を忘れてしまうかもしれない。
私たちが認めなければならないのは、何らかの基準があるということです。他の科学の領域で用いるのと同じくらい基本的な基準で、それによって、ある種の意識状態が他よりも優れているか劣っているかを判断できるということなんです。そして、もし誰かが、起こりうる最悪の不幸は多くのその他の選択肢よりも悪い、と認めないのであれば、私はその人が一体何を考えているのか理解できないでしょう。誰にとっても起こりうる最悪の不幸は、その他の選択肢よりも悪いと認めれば、道徳知識の成長を促すことができるのです。
そうすれば、少なくとも前向きな話になります。どこに向かっているのかはわからないけれども、望みのない深い苦しみと、私たちが人生において大切にしているものとの間には大きな違いがあるということが理解できるでしょう。事実と価値の区別、つまり「ある」から「べき」を導くことはできないというヒュームの考え方(ヒュームの法則 - Wikipedia)は、とても誤解されやすいと思います。恐らくヒュームの考えを誤読したか、少なくとも、本論ではない部分を重要視しすぎた解釈です。しかしながら、私は、この原則が「人間本性論(人間本性論 - Wikipedia)」に刻まれていると考える物理学者に会ったことがあります。「世界はこうあるべきだという記述はどこにもない。価値とは何かとわかるような記述はどこにもない。したがって、価値とは作り物でしかない。科学的な現実とはいささかのかかわりもない」

D:わかります。おなじみの経験主義ですね。正当化主義ともいえる。つまり、「ある」から「べき」を推論することはできない。しかし、私たちは推論しようといているのではないし、するべきでもない。必要なのは、説明しようとすることなんです。そして、道徳的な説明は、事実の説明から導かれることがあります。たった今、あなたが人間が被る可能性のある最悪な不幸を考えることによって導き出したように。

H:もっと深刻だと思いますよ。あなたが『無限の始まり』でも述べていますが、なんらかの「べき」論、若しくは理論的な整合性や、証拠などの価値観を前提としなければ、「ある」という事実の主張にでさえ合意することができない。これは、知識の根本にかかわる混乱です。科学とは、自分に嘘をついたりしないという価値観を呼び起こす私たちの文化の一部です。また、皆が騙されてしまうような嘘を暴いていくことを競うゲームです。そして、そこから発生した混乱を科学で改善するのです。

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