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ベネディクト「菊と刀」から「第10章 徳目と徳目の板挟み」を読んで

みなさん、こんにちは。ベネディクトの「菊と刀」から「第10章 徳目と徳目の板挟み」を読んだ感想を書いていきます。

ベネディクトは文化人類学者であり、戦時中の日本について研究したアメリカ人です。この章は日本とアメリカの文化について違いについて述べています。

その文化とは

一つは「罪の文化」、もう一つは「恥の文化」

についてです。

ベネディクトは、アメリカは「罪の文化」。日本は「恥の文化」。

と言っています。

簡単に例えると、

もし、自分がジュースの缶を持っているとします(中身はもう飲んでしまい、空の状態)。辺りはゴミ箱もなく、捨てるところがどこにも見当たりません。辺りを見渡しても、誰もいないだろう。という状態です。

そのとき

この缶を、この場で捨ててしまおうか

と考えてしまうことがあります。

「罪の文化」の場合

誰も見ていなくても、ポイ捨てしたことを神様がうえから見てるかもしれない。

といった感じで悪いことをすれば、バチがあたり、罪になると認識してしまう。

または

これは別に悪いことではない。俺のなかにいる神様がそう言っている。

と、ふと考えてしまうのが「罪の文化」です。

もし、これが悪いことと自分で気付けば、告白して、罪を認めます。そして、許してもらうことで、心が軽くなる傾向があります。

逆に罪を打ち明けないまま放置すると、いつか、その良心の呵責に苦しんで過ごすことになると思います。

「恥の文化」の場合

ポイ捨てするのは、悪いことだ。分かっている。もし、誰かに見られたら、恥ずかしいなあ。だが、辺りには誰もいない。

といった感じで、バレなきゃ悪いことではない。と認識しまいます。

または

その場でポイ捨てをしている人を目撃したり、道端に空き缶が捨てられている。他の人だってしているじゃないか。別に恥ずかしいと思わない。

と、ふと考えてしまうのが「恥の文化」です。

もし、自分がポイ捨てしたことを言わなければ、誰も知らないままです。ポイ捨てを告白すれば、かえって非難を浴びる可能性があるので、言わないほうがいいかもしれない。と考えてしまいます。


例をとって感じた「両者の違い」

それは

打ち明けることで心が軽くなるのか。打ち明けないことで心が軽くなるのか

です。

この根源が元になっているのは、

世間体や周りの人を気にするのか。

それとも

気にしないのか

だと思いました。

「恥の文化」のほうが「世間体や周りの人の意見」を気にする傾向があるととも考えられます。

自分の活動や考えが「世間体」に認められなければ、恥ずかしいと感じてしまい、謙虚になったり、自信が持てない。

そして

なかなか行動できずに終わってしまう。

といった悪循環に陥ると思います。

あと考えられることとして

例えば、罪を犯した人、トラブルを起こし迷惑をかけた人が、反省して社会へ戻るため、就職活動をします。

このトラブルを反省していることで、他の人よりも一生懸命に仕事するだろう。

もしくは

トラブルを犯した前科もあるので、またトラブルを起こすのではないか。そのトラブルが他のところで噂され、この会社に悪影響を及ぼすのではないか。

自分の行いを告白することで、かえって好印象になるのか。それとも悪影響を及ぼすのか。

それぞれ意見が分かれると思います。

「罪なのか」、「恥ずかしいことなのか」といったものが、世の中に色々と潜んでいますが、世間体や周りの人を過剰に気にせず、過ごしていくことも大切かもしれません。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

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