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インド哲学の問いが、宇宙に飛んでいく時代



インド哲学10講を読んだ。


タンパク質の勉強を始めたら、インド哲学の本も読めるようになっていた。
佐渡島さんが、自分は何者かということを、問いだけでたどり着きなさいというのが哲学。

ということを言っていて。それは、今は問い以外にも選択肢があるから「問いだけで」と言えるのだけれど。顕微鏡も計算機もない時代に、解像度が最も高い道具が「問い」だったのかもしれないなと。インド哲学10講を読んでそんなことを考えている。

例えばー出家をすると、どんなよいことがあるのかーというような、王様の問いに思想家がどう答えていくか。

ある思想家は、運命は定まったものなので、努力では変えられないと答える。他の思想家は、行為も結果もなにも存在はしない、あるのは、地・水・火・風・4種類の原理があるだけと答える。

芯を答えているようで、はぐらかすような問答が続き、そこから、運命論や唯物論など、それが哲学の学派として続いていくような過程が、インド哲学10講では知れる。

大きく長い川を、源流から船をこいで、分かれ道の先にある、学派や宗教の説明しながら進んでいくような、わかりやすさがある本だった。

そして、インド哲学(他の哲学にも通じるが)の大きな2大テーマは、

・自分という存在は何か
・この世界は何からできているか。

だということも書いてあった。

タンパク質の勉強を始めたら、この本が読めるようになったと書いたけれど。まさに、この2つの命題は、今の科学で追いかけているテーマでもあって。

自分という存在は何か、ということを、科学的に解像度をあげると、細胞から、生き物としての自分が出来上がっていることがわかる。
細胞の中にある遺伝子と、そこに書かれている情報から出来あがるタンパク質のかたまりが、物理的な自分という存在として、定義することができる。

だからといって「僕はタンパク質のかたまりです」と言っても、複雑な心のありようを説明することは、できない。「よりよく生きるためには」という文脈でも、自己の存在については、哲学的な問いと、その答えが、今でも十分に必要とされる余地があると思う。

対して、この世界は何からできているか。ということに関して。

インド哲学において、世界の成り立ちについて、最もシンプルな3つの要素で説明しているものを、インド哲学10講の中で見つけた。その要素は「水、食べ物、熱」だった。

「水、食べ物、熱」は、今の科学において、生命に欠かせない要素として今も、通用する要素でもある。

生命に欠かせない要素だということは、この3つがあるところに、生命は住んでいるのではないか??という問いを立てられるということでもある。

「未知なる生命を探すために、水、食べ物、熱が揃っている場所を探そう」と言うことで。その問いへの答えが、今や宇宙にまで、たどり着いている。



2000年以上経っている「水、食べ物、熱」という世界の成り立ちが、今でも通用しているのが、面白い。

ただ、世界の成り立ちについて。現在の科学は、ものすごく解像度が上がっていて。そこの哲学が入り込む余地がないのかなとも思う。


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星屑から生まれた世界より

今、世界の成り立ちは、元素にまで分解できて、その元素の組み合わせで世界が成り立っているという考えが、世界の共通理解として出来上がっている。

例えば、コロナウイルスに対して、程度は違えど、世界中で【stay home】という、ある程度の共通の指針ができるのも、この科学的な世界の成り立ちへの理解のおかげだ。

感染病を、悪魔や運命、「元素記号で表せない何か」で説明することは、正しい理解ではない。という世界に、僕は生きている。世界の成り立ちへの問いは、元素記号を中心に答えが導き出されていく。

自分は何者かということを、問いだけでたどり着きなさいというのが哲学。と佐渡島さんが説明したように。この世界は何からできているか。という問いには、もはや哲学がそこに入り込む隙はないということなのかな。

あるいは、今の元素記号ベースの、新たな哲学が生まれないまま、この100年ちかくを過ごしている。ということなのだろうか。

この世界は何からできているか。
ということに関して。今の哲学者は何を考えているのだろうか。特にオチはなんだけど。その辺の哲学の話が、知りたい。




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