心臓の位置で熱い握手を交わそう

私は私のファンである。

ということを、四半世紀以上生きて、ようやく知った。


好きなことが沢山ある。自分の中で、曲げられないことがある。

ずっとずっと好きなことを沢山していた。曲げられないことを貫いた。

そんな私の「大切」は、私を喜ばせたり、時に悲しませたりした。悔しい思いもたくさんした。驚くほどの楽しさも教えてくれた。

私は、自分の「大切」を大切にする私を、大切にしていた。そんな私のファンだった。


けれど、気が付くと、私の「大切」は、みんなの大切ではなくなっていた。

余計。不必要。意地。無益。

私という人間が、社会にきちんと認められてはじめて、大切にしてよいもの、になっていた。不要な「大切」を大切にしている私も、社会の大切ではなくなっていた。


私が社会に認められて、立派になったら。

余計なことをしても許される存在になったら。もっと上手になったら。

沢山の納得する理由、という名の言い訳をつくりだし、私の「大切」は、いつの日からか、「大切」ではなくなった。


私は、それが正解だと思っていた。

私は、「大切」を抱える資格がないと思っていた。


そうして私は、ファンを一人失った。

私というファンを。



休職してお休みしていたころ、ふと、日記漫画を描こうと思った。

そのころの私は、「美術を勉強したことがない」「大したことない」「やっても意味ない」「誰も必要としていない」などの理由をつけて、イラストや文章、創作から遠ざかっていた。


けれどこの瞬間は、自分のために、描こうと思ったのだ。

完璧でなくていいと思った。認められなくていいと思った。誰かに評価してほしいと思わなかった。本当にただ、自分のために、自分のためだけにはじめた。


日記を描く。はじめはとても苦労した。思うようにまとめられなくて苦しんだり、絵のみせ方がわからず、自分の力量不足を悔しく思ったりもした。それでも思うようにかけた時はとんでもなく嬉しかったし、何より、日記のことを考えている時はとても楽しかった。

ずっとやめていたイラストも、少しずつ、描き始めた。

思えば今まで、自分の好きを誰かに伝えたくて、どうしたらその魅力を伝えられるかを考えて、絵を描いていた。文章も同じだ。
でも、もっと上手に伝えられる人が沢山いることも知っていた。だから、やめた。


これらのことに再び取り組んでみて、ようやく気が付いた。本当は、私は、私が大切にしたものを、いつの私が見返した時も思い出せるようなかたちに残しておきたかったのだ。

永遠に続くと思っていたあの楽しい毎日を。不安で眠れなかったあの夜を。一緒に喜んだあの時間を。独り悔し涙したあの時を。驚きで放心したあの一瞬を。同じようにみえる何気ない日常を。私の心を震わせた、すべてを。

私のファンである私のために、大切を、かたちにしておきたかったんだ。



私は、もう一度私のファンになった。

好きなことが沢山ある。自分の中で、曲げられないことがある。

ずっとずっと好きなことを沢山している。曲げられないことを貫いている。


何もうまくいかなくて、苦しんで、もがいている。

スマートではない。世間には煙たがられているかもしれない。

でも、誰に迷惑をかけるわけでもなく、静かに自分の、大切、を抱えている。

私は、そんな私のファンなのだ。



正解ではないかもしれない。

しかし、正解ではないことは、無意味を意味しない。



今日も明日も、私は私のファンでいたい。

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