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Mother's -母は短歌を詠もうとした-


—— 私は夫や子どもと歩む日々の生活の中で感じたこと、忘れたくない場面、気持ち、発見を「ことば」で何とか残したいと願うようになりました。


 
二十年以上前、若き頃の母が初めて書いた歌集の冒頭ページに記されている一文だ。


僕はその歌集の存在を知らなかった。

それ以前に、詩を書く人だということも知らなかった。


僕の知る母は歌人ではない。


むしろ詩や創作活動には無縁そうな、至って普通の母親である。


かつて母が書き溜めた短歌をプリントし、父が製本した、お手製の歌集。

昨年末に実家へ帰ったとき、「掃除してたら出てきたの」と渡され初めて読んだ。

そこに並ぶ短歌たちは、幼きころ僕が見た母ではなく、

"母から見た世界"そのものだった。

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若き母の幸福や苦悩がどれも鮮明に描かれていて、


もはや僕の知る母ではなく、一人の女性の物語のように思えた。

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ありふれた親子の光景。その一文一文が尊い。



切なさに我が胸つまる初めての我が子送りし保育園の朝



我が姿見つけ駆け寄る子の目には涙ありけり夕べの保育園




三歳で姉となりたる子の指にさみしさ耐えしくわえ跡を見ゆ


夜泣きてわれ悩ましし乳飲み子がほほえみており目覚めしわれに


発表会多くの園児踊れども目に映りしは わが子一人なり


わが目見て片言話し膝に来るわが幼子の肌のぬくもり


参観日部屋に入りたるわれを見つけ喜び跳ねつつ手を振る娘


末の子と遊び昼飯食するもあとわずかにて寂しく思う




一人の女性でもあることを息子はつい忘れてしまう。




若き日に学びし本の裏表紙旧姓みつけしばし懐かし


テレビより母校の校歌きこえきて思い出めぐり涙ながるる


ひたすらに巣を築きおる燕を見て人生の意味われは思える


若き日に勤めし会社の前を通り思い出づ仲間の顔とテレックスの音




親の心子知らずとはよく言ったものだ。





宿題に子の持ち帰りし朝顔の初めて開き胸なでおろす


隣より赤子の声の聞こゆればわれもう一度育てたしと思う


思うように育たぬ子らを受け止めて優しく包む母になりたし





TwitterやInstagramもない時代、母は歌で残すことにした。





生意気な言葉を使ひ腕を組む幼の穿く靴左右反対


わが幼覚えしばかりの平仮名で夫の名を書きいとしく思う


山道を宿に向かひてドライブすればトトロゐるかと四歳児が問ふ


丸坊主にせしわが四歳児たくましく幼さ薄れなぜか寂しき






穏やかな日常だけではなかった。






水かさの増すごと我は二階よりわが沈みゆく新車を見たり


豪雨の中3時間歩み帰宅せし夫の姿に我は涙す


豪雨にて浸水したる夜が明け長靴はきて片付けはじむ






子とともに、親もまた育っていくのだろうか。






この海は今何歳と尋ねつつ幼は海辺でおにぎりほうばる


番組最終回と聞きて涙ぐむ幼子の心をわれは羨しくおもう


落選し涙こらえて上を見る娘にかくる言葉見つからず


午前四時腰病むわれに声かくる幼の優しさこの身にしみる


疲れ果て頑張れないと沈む夜子らの寝顔の語りかくるもの









写真、映像、音楽、絵画、ことば・・・

その瞬間をかたちに残すということ。

それは過去の為ではなく、



未来と、今の為に。




歌集を詠む僕のそばで思い出を語る、老いた母の微笑みが美しかった。





谷口


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