ケフモ アエル
ぼくにはかけがえのない恩師がいる。
高校時代、ひきこもったとき毎週カウンセリングをしてくれた大須賀発蔵先生だ。
先生は東洋哲学を修めていたので、カウンセリングではよく仏教経典や印度哲学の話をしてくれた。そしてぼく自身の人生観や死生観に大きな影響を与えてくれた。
今回は、そんな先生の話を綴ってみる。
影をつくる光 光を示す影
2007年7月7日。「生と死へのまなざし──影をつくる光、光を示す影」と題した先生の講演を母と聴きに行った。その話に感銘したぼくは、すぐにそれを書き留めた。今回、それを再構成して綴る。
当時、大須賀先生の息子さんは郷里の茨城町に戻り、在宅医療・在宅介護を中心にした在宅療養支援診療所を開いたばかりだった。それを機に講演が行われたので母と一緒に聴きに行った。こうした縁で、約十年後、母の在宅医療をお願いすることになるのだが、その話はまた別の機会に。
講演内容は、大切な人が「病苦」や「死」に直面したとき、家族や医療はなにをできるのかを共に考えてみようということで、大須賀先生が印度哲学や仏教の観点から「いのち」について語り、医師の息子さんが具体的な医療的支援などについて話すというものだった。
先生は本当に優しく、下手をすれば消えて無くなりそうな声で話す。この日も先生はいつものように静かに語り始めた。
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茨城町の材木問屋に生まれた私は、小さい頃から家業を継ぐものだと思っていましてね。ですから昔の水戸商業高校に進んで、その後東京の木場で一年間の丁稚奉公に出たんですねぇ。それでその奉公が終わって茨城に戻り、いよいよ家業を手伝うかというときに戦争が始まりました。
でまぁ、私も両親も戦争は嫌だったので進学することにしましてね。法律でも勉強しておけば商売にも役立つだろうということで中央大学法学部に進んだんです。その頃はまだ若いからね、なにも考えていなくてね……「戦争にもいかなくていいし、家業もやらなくていいからいいや」ぐらいにしか考えていなかったんです(笑)
ところが戦争は拡大していって、まぁ学徒出陣というやつですなぁ。私も無理やり検査を受けさせられました。今はこんなですが、私、飛行機乗りだったんですよ。艦上攻撃機というのに乗っていました。海軍の飛行訓練はねぇ、戦争に行く前から友人や上官が操作ミスや事故で死んでいくんですねぇ。
実はそんな環境で私は今でいう鬱状態になってしまいまして、数ヶ月、自宅に戻って療養していたことがありました。でもその時お逢いしたかたに助けられて東洋哲学を修めようと思ったんですから、まぁ一度ぐらい心がくじけてしまうのもいいんだと思います(笑)
ただねぇ、当時はそうも言っていられなくてね(笑)それでも私はそのとき頂いた『阿弥陀経』という経典に書かれている言葉に救われたんです。小さな経典なんですが、その中にこう書かれている。
池中蓮華
大如車輪
青色青光
黄色黄光
赤色赤光
白色白光
微妙香潔
この経典では極楽浄土の様子をお釈迦様が弟子たちに聴かせているんですが、その様子の一部として書かれているんですね。漢訳文の意味は、こうです。
池の中には蓮華の花が咲いている
蓮華は大きな車輪のようである
青色の蓮華は青い光を放ち
黄色の蓮華は黄色い光を放ち
赤色の蓮華は赤い光を放ち
白色の蓮華は白い光を放ち咲いている
そして芳しい香りを放っている
私は、なんだかその色……蓮華の色がね、そのまま青色は青色、黄色は黄色、いろんな色がね、こう車輪のように大きな輪を描いて咲いている様子がね、自分らしさというかなぁ……自分の色、個性というものがね、そのまま、それらしく、こう……なんていうんでしょうねぇ……すうっーとね、受け容れられている世界が浄土なんだと思ったら、とーっても気持ちが楽になったんです。
ところがその後、別な漢訳があり、どうやら原典には別な描写があることがわかったんです。
池中蓮華
大如車輪
青色青光青影
黄色黄光黄影
赤色赤光赤影
白色白光白影
微妙香潔
つまり極楽浄土なのに「影」もそのままそこにあったんです。
私は、ダメな部分、影の部分、欠点もそのまま受け容れてくれる世界なんだと思って……さらに、本当に、私の気持ちを楽にさせてくれて安心できたんです。
話が脱線してしまいましたね。訓練の話に戻りましょう。
父が打った電報
当時、私が所属していた訓練所は九州にありました。水戸から遥か南の地。そこで訓練中に事故で死んでしまうかもしれないし、訓練が終わったら戦地に向かい、そのまま帰ってこられないかもしれない。そんな中、父が私に面会に来てくれたんです。
昭和も10年代ですから、当時の交通機関ではとっても大変だったと思いますよ。面会に来てくれても訓練中は外に出られませんから、父とは訓練所の中で会って話をしました。ちょうど次の日、なにか特別な日で一日だけ休みになり、外出できることになったものですから私は父に言ったんです。まぁ、父なんて上品な言い方はしないんですけどね(笑)
「父ちゃん、今晩泊まっていけば。明日は外で逢えるから」
そしたら父ちゃんは「そうか。でもどこに泊まればいいんだ」と言うもんですから知り合いの旅館を紹介したんです。
翌日、親友と一緒にその旅館を訪ねました。ところが父がいない。旅館の人が「お出かけになってますよ」というので旅館の外で待っていたら、その旅館の手前に橋があったんですけどね、その橋を父が渡ってくるんです。なんだか私はとっさに隠れてしまいまして……父が旅館の手前まで来てから声をかけたんです。
「父ちゃん、朝からどこに行ってたの?」
「郵便局だ」
「郵便局? なにしに?」
「母ちゃんが心配すっから電報打ってきたんだっぺよ」
その頃の電報はね、まぁ大抵は不吉な知らせなわけですよ。それを受け取った母の気持ちはどんなだったかなぁと最近思うようになりましたけど、私はそのとき父が母に打った電報の、本当にたった一言なんですが、その短い文章が忘れられないんです。
父ちゃんはこう打ったんです。(そう言ってホワイトボードにこう書いた)
ケフモ アエル
旧仮名遣いだから若い人は分からないかな?
今だと「ケフ」は「キョウ」と読みますから
今日も会える
と書かれていたんですね。
父が母に送った電報は「帰りが遅れる」とかそういうものではありませんでした。
やっと息子に会えた。でももう二度と会えないかも知れない。明日、出征してしまうかもしれない。そして戦争で命が奪われてしまうかもしれない。二度と生きて会えなくなるかもしれない。
だから、ひと目でいいから会いたかった。
その願い叶って昨日会えた。
そしたら今日また会えると言うじゃないか。
そう、今日もまた命ある息子に会える。
もう会えないかもしれないと思っていた息子に「今日もまた会えるぞ」と母に伝えた。
私は自分の「いのち」を父がこんなにも愛おしく思ってくれているんだと思ってね、本当に嬉しかったんです。
だからね、こんな年になっても忘れられないんです。
恩師は涙声を詰まらせながら静かに語り、しばらく目を閉じた。
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ぼくとアルツハイマーの父
2007年の夏は、ぼくの父がアルツハイマー型認知症と診断されてしばらく経っていた。ディサービスに行くようになって少し元気を取り戻していたが、既にテレビのリモコンが使えなくなっていた。そういう父を観ているのは辛かった。
最初、父はディサービスや外出を嫌っていた。でも通い始めると逆に待ち遠しくなり、迎えの時間の2時間ぐらい前から玄関で迎えの車を待っていた。そして呟くのだ。
「きっと忘れられちったんだ」
認知症は、常に不安とともにあるのだと思った。
いろんなことができなくなっていく認知症は、よく赤ちゃんに戻っていくみたいだという。確かにそうかもしれない。でも大きな違いがある。赤ちゃんは、どんどんいろんなことが“できるようになっていく”が、認知症は、どんどんいろんなことが“できなくなっていく”のだ。
それは生命の誕生から成長していく過程をまるで死に向かって逆行していくようでもある。
だから改めて思う。
病苦や死苦をどう受け止めるか。
自分はどんな死を迎えたいのか。
なぜかぼくは15歳の頃から「死んだらどうなる?」を知りたくてずっと答えを求め続けてきた。その答えは未だに人類の謎であり、すべての人と共有できないが、それでもぼくたちは自分なりのしっかりとした死生観をもつべきだと思っている。願わくば、みんなが互いの死生観を認め、敬い合えるように。
旅立つ父
ここまでが2007年7月に綴った文だ。
そして2008年8月2日、父は旅立った。
嚥下できなくなった父は自分の口で栄養を摂れなくなっていた。でも家族で相談して胃ろうはやめた。胃ろうをすればもう少し延命できたかもしれない。
父はそれを望んでいたのだろうか。
父はどんな逝き方をしたかったのだろう。
父亡き後、「何にもできなくなっちゃって迷惑ばかりかけちゃうね」という母。そんな母の姿を毎日見ながら思う。
母はどんな逝き方をしたいのだろう。
胃ろうのような処置を望むのか。
葬式はどうするのか。
墓には入りたいのか。
土地や家はどうして欲しいのか。
そしてぼく自身はどんな逝き方をしたいのだろうか。
死を忌み嫌わず、怖れずに受け容れられるだろうか。
現実的な準備もしっかりしなきゃと思いつつ、できるだけ前向きに自分なりの逝き方を描いてみる。でも毎日の生活に追われて時間が過ぎ去る。焦りと後悔という波ばかりが打ち寄せてくる。
生き方を決めても逝き方は決まらない。誰にもどう逝くかなんて分からない。でも逝き方が決まれば生き方が決まる……はずだ。それともぼくは、少々「死」に囚われ過ぎているのだろうか……。
大須賀先生が伝えてくれた『阿弥陀経』の浄土世界。色とりどりの蓮華が、ありのままの色で輝き、その香りを放ち、そして影を落とし、そのまま受け容れられ存在している。
もし死後そういう世界があるならば、できる限り、この生の世界にも、同じような世界を創れればと思う。
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