「声を出せない人の部屋から問いかける」

こちらは2022年の日本ベーシックインカム学会の会誌『ベーシックインカム研究』第4号に私諸星が寄稿したものです。前号の「ケアニューディール」 https://note.com/taomorohoshi/n/n022e9aa48349と共通する視点からの報告です。

、、、実は、夏も終わる締め切り前に記事の集まり具合を聞いたところ、全然集まってなかったんで、締め切り伸ばしてもらって慌てて書いたんですが(なので参考文献も何も読めず。この記事の一個前の、年次大会の発表「持続可能なUBIの条件」では、トロントのを読んだが、ここではまだ買ってもない)、提出する頃には他の先生方の論文集まってて、なんか早まっちまったなあ、、、と。
急いで書いたんで、オブラート少なめですね。報告というかエッセイかな。
これを土台にして、トロントの「ケアするのは誰か?」やマルサルの「アダムスミスの夕食を作ったのは誰か?」を読んで、年次大会の発表https://note.com/taomorohoshi/n/n6d5d754ae753 に活かせたので、まあ、よかったのかな。

「声を出せない人の部屋から問いかける」


諸星たお

●ヘルパーとディーラー


夏の暑い日に、化粧も落ちて汗だくで自転車を漕ぎ、利用者宅を回る女性がいる。私の母ほどの年齢だろうか。一人で大柄な男性の体を清潔に保持する。
1時間のサービス利用で出る時給は1時間分だ。次の利用者宅までの移動時間や、炎天下での待機時間は無給で、年収は平均より遥かに低い。運用益を得る為に投資に回す余裕もなく、年金も少ないだろう。

エアコンの効いたオフィスで、パリッとしたスーツを着こなす、清潔感のある男性がいる。
日銀から準備預金を借りて、より高値で売り戻す約束の借換債を日銀から買い入れる作業をキータッチで執り行う。
差額は国債費や利払い費として国民から税金で徴収され、その証券会社の収益となる。彼の年収は平均より遥かに高く、したがって年金も高い。

こうした差は、何によって正当化されてきたのだろう?

●BIは権利なのか恩着せなのか


BIは、ケアを無償で担ってきた女性への報い、贖いの意味を持たせ得るだろうか?
全員に等しく配られるならば、家事や育児に非協力的な、あるいはDV旦那にも配られるのだが、その場合は何の贖いなのだろう?

同じ金額が配られるのに、ある者へは贖いで、ある者へは当然の権利として配られる事があっては差別ではないか。
誰にも等しく権利でなければならず、受給者の属性毎に異なる意味合いを持たせる事は不適切に思う。

無償が当然の如く扱われてきた女性のケア労働への報いは、別の形で用意されなければならない。

●物差しを持つ手の価値


BIの話なのに、何故、ここでケア労働の話が持ち出されるのか。
簡単にまとめると、BIで配られる通貨が商品を請求する権利として充分に機能し得るには、商品が生産・販売されていなければならず、全受給者の要求に応え得る大量の商品の供給は、企業内で集約的に生産されざるを得ず(食物に関して言えば、家庭菜園は補完的で、農場生産が不可欠)、したがって企業内労働が必要とされるのだが、何故人々はそうした企業内労働が可能なのかを問えば、家庭内での生活で生命再生産が成されるからであり、それでは何故家庭内で人間の生命が維持、再生するのかを問えば、ケア労働としての家庭内労働、家事や家族への世話が行われているからである。

家庭内のケア労働が存在しなくば、心身は消耗し、パフォーマンスは落ち、或いは生活習慣病などで早期リタイアを余儀なくされ、企業内生産は停滞し、持続不可能となる。ケアが無償、無価格であるからといって無価値な訳ではなく、それどころか、あらゆる商品を生み出す活動の土台とすら言える。

BIという、現在の所得に対して均等に張られる膜、その内側にあって膜を支えるもの。例えれば地球を覆う大気があり、その下に存在するプレート、大地としての労働所得があり、更にその内側にあるマントルとしての企業内労働があり、さらにその内側にあるコアとして機能するのが、有償無償のケア労働だと考える。

ケア労働自体は、自分で行う歯磨きの様に、自ら行うこともあれば、用意されていた風呂の様に、他者から供給されることもある。
あまりに日常の所作であるため、それをケアや労働と呼ぶことに違和感を抱きかねないが、それらがなされなかった場合の健康への影響は、子供や高齢者を考えると一目瞭然だろう。

傾向としては、こうした生命を健康に維持するためのケア労働のほとんどは、女性が担ってきた。
ケア労働は生命活動がある限り必要とされるため、休みはなく、空気の様にそこにあるため、顧みられず、無給であることが多い。
そのため、担い手の女性は、一般的に社会と呼ばれる、家庭外の活動に出ることのハードルが高くなる。
縁の下の力持ちは縁の下から出る事は叶わず、その声も届かせにくい。

担い手の性別はどうあれ、不可欠なはずのケア労働だが、price lessである事がvalue lessであるかの様に錯覚され、経済や環境や社会を論じる際の考慮の対象から長く外されてきたか、過少に見積もられてきた。

空気の様に遍在するゆえに、ケア(配慮)への配慮は忘れ去られる。空気にお金を払っても、受け取りも使用もしないだろうが、空気を汚さない為の投資を欠けば、やがて肺を害するだろう。
子供にとって、親からのケアは自然の現象であり、感謝を表しはすれど、対価を払う対象にはならないが、おそらく無自覚に、社会はケアの担い手に対して、親から世話される赤子の様な態度になっているのかも知れない。
言うまでもなく、ケアの担い手は人であり、自然界の現象ではない。
共働き前提の社会を設計した以上、家庭内労働にはこれ以上頼れず、企業内労働として、生命再生産の可能な所得と休暇を欠けば、ケアの再生産は能わず、社会の再生産も覚束なくなる。

経済学は貨幣を捨象したが、ケアも捨象している。他に何を取りこぼしている事だろう。

●利潤の再生産と生命の再生産


企業内労働のみこそが労働を意味し、商品を購入する通貨を得るに足る価値があると看做されると、家庭内の労働への配慮は国家からも企業からも失われる。

男女がともに企業内労働(あるいは国家の軍事行動)に24時間の内の多くを費やし、消費者の多様な欲望に応じて商品を供給せねばならない(あるいは欲望を刺激して商品を欲させようとする)圧力が高まるほど、その供給主体は自身や家族へのケア労働にかける時間や労力を減らさざるを得なくなる(その結果、生活習慣病や、ネグレクト、ヤングケアラーが顕在化する)。

なお、BIにより労働所得を得る必要が減じる事で、ケア労働への参加を増やし得るが、BIで得た所得による消費需要に応じるための生産と労働は必要なため、また、動画視聴権の購買など限界費用、追加的資源や労力のかからない商品も、それがケアにならない場合(例えばスマホゲームは生命再生産と言えるか微妙なところである。おそらく長時間なら言えないだろう。温泉旅行はケアを兼ねるとみても良さそうだが、旅館業という一種のケア労働を他者に要求する)は、その消費にかかる時間が、ケアの時間を狭める。
ケアのトリレンマとでも言い得るだろうか。

BIによる所得であれ、労働による所得であれ、その所得で購入される商品の底にケア労働が含まれていながら、消費行動や企業内労働で家庭内のケアの不可能性が高まるならば、ケア労働の再生産が試みられなければならない。

ケア労働の再生産とは、例えば企業内労働時間を短縮させて個人の可処分時間を増やすことが必要であろうし、ケア労働をロボットやAIなど設備によって代替する事も含まれるであろうし、ケア労働の従業者を増やすことでもあろう。
いずれも、ケアの価値が認められ、その実現の為の投資や支出や制度の変更がなされなければ実現しない。
ケアの再発見が求められる。

こうした投資や支出は、価格で表されるのだが、その価格がケアについては長年、無償、無価格であったため、ケアの再生産の実現に必要、適切な額が見出せず、無償=ゼロ円という下限に引っ張られ、途中で引っかかる最低賃金が目安として機能してしまい、結果、適正な価格を下回ってきたのだろう(だから実現していない)。

ケア労働の全てに価格をつける事は困難かも知れず、また、つけるべきか、つけたとて無償で行われるケースは残る為、無償であってもケアラーが生活できる仕組みを考えねばならない。

例えば母子家庭では、母親は育児に関わるケア労働を放棄して、企業内労働を行わねばならず、その間の幼児へのケアは保育士が行うか、育児放棄するしかないのか。
ヤングケアラーは就業が出来ないが、現金を配れば済むかというと、そもそも子供に家族の介護をさせて良いのかが問われる。
様々な現金や現物の給付の組み合わせが必要となる。

依然傾向としてケアは女性が担わされがちとは言え、就業と家事のダブルワークを常時行う事は物理的に困難があり、ケアワークが不足してしまう。
就業労働として行われるケアワークの充足が不可欠となる。

どの様な手当があり得るかを論ずる前に、そもそも、国家がケアの価値をどう設定してきたかも問わねばならない。
それには、介護や保育の給与を見る事が、わかりやすい。

●権力が差配する価格と価値


武力と財力はともに権力に不可欠であろう。
注意力や治癒力に関するケアは、権力にどのように扱われたのか。

国家が貨幣の通用力を、徴税という、武力に裏付けられた強制性で作り出していることは租税貨幣論として膾炙してきた。
一方、国家は様々な仕事への支払いを通じて、国家がその仕事をいくらと看做すのかを、公定価格として施行してきた。

価格の設定力に関して、租税よりわかりやすいのは、物価に関して言えば買い取り等であるが、賃金に関しても、失業者の買取として、賃金水準の底を設定出来る。
現状は買い入れをしない事で、値崩れ(賃金デフレ)を放置してきたと言える。

中央銀行が株や国債を買い入れて価格を操作するように、政府は物や人を買い入れる(あるいは投げ売る)事で、価格を操作している。

介護や保育は、家庭内で行われていたため、そもそもそうした労働を政府は買う必要がなく、したがって価格はゼロであった。
ケアの価格はゼロでも、ケアの価値は様々な商品の底を支えるものであるので、その価値は計り知れない程大きい。
が、企業の女性の取り込みにより、ケアを家庭内では抱えきれなくなり、政府がケア労働の中の一部については買うようになって、ようやく値が付いたが、価値と価格の差が大き過ぎるため、担い手不足が止まない。
そもそも、家庭から企業への労働移動した事による利益は、ケアの喪失をカバー出来ているのだろうか。

家庭内で担われて来たのと同水準でケアが行き渡るまで、ケアの価格を引き上げる必要がある。
その時に付けられている価格が、これまで女性が担って来たケア労働の、本来付けられて然るべき価格の目安と、暫定的にではあれ、みなせるだろう。

ケアワークの公正な価格が明確になってはじめて、無償でケアを担って来た女性への贖いが可能となる。これは、BIでは出来ないことである。

女性の無償の家庭内労働への贖いは、そうした仕事の価格を、政府が公正に、おそらくは高く、設定し直す事によってしか成し得ない。

●政府のサービスと民間の売り物


BIが施行されると、現金を何に使うか、どの様な商品が選好されるかが明らかとなり(可処分所得が少ないと、好き嫌いや効能の優劣より、安くて多いものを買わざるを得なくなる)、生産が最適化され、資源や人財の振り分けも必要分野に最適化されるだろうか。
おそらく、民間の商品に関せばそうなると期待できる。
が、政府、行政が行う公共の事業、サービスに関してはその限りでは無い。

BIで海保の人員不足が埋まるだろうか?あまり関係なさそうだ。
何故ならば、それらの国防や治安サービスに対して、我々は市場で対価を払って得ているわけでは無いから。
BIで可処分所得が増えたので、火事の時は躊躇なく消防車を頼める、などと言うことはない。

介護などは、行政に委託された民間企業がやっているケースが多いので、ビジネスかの様に見ている人もおり(有料老人ホームなど、そう言う側面もなくはないが、それは社会保障としての介護以外の、自費サービスが混ざっている)、あたかも、民間の消費者が購入価格に糸目を付けねば、企業が商品の開発を競争して品質向上と供給の増大を達成しうる、と言う様に誤解されるかも知れないが、公共事業として考える方が実態に合うだろう。

公共事業で建てられる、例えば図書館の規模や質は、本を借りに来る人からの利用料に左右されるのかといえば、もちろん違う。
何が差をつけるのかと言えば、スキルの高い建設業者を選定する事も大事だが、そもそもの事業費や発注の要件で、建物の設計が出来上がっている。決めているのは、行政など、広く政府部門である(介護のケアプランは利用者の要望や状況に応じて度々作り直されるのだが)。
何より、市民の声を受けて作られる図書館であるが、市民の可処分所得の多寡で、声の届きやすさを左右させる事は、民主主義と言えるのだろうか?

公的なサービスと、私的な商品への影響は全く異なるため、それぞれ別個のプログラムが必要である。
一方のプログラムは他方のプログラムの成果抜きに成立し得るのだろうか。
無関係と言うことは考え難く、相互に影響する場合と、一方の成果に依存して成立する場合があろう。

●欲求に応える現物と欲望も叶える現金


現物は、備わっている効能に限定して得られる。→必要を満たせる。
現金は、通貨で販売される何とでも交換できる。→欲望も満たせる。
国家が個人の欲望・願望を満たす事まで権利として給付によって、どこまで保証すべきかはさておき、どこまで可能なのかを考えれば、購入される商品を国内外の誰かが生産している限りの事であるのは疑いない。

必要を満たすのも、願望を満たすのも、ともに物やサービスという現物の生産がなされなければ望み得ない。
追記(つまり、現金は現物に依存する。相互なのでは無いかとの疑問は、ケアが無償で再生産されていたことを想起せよ。現在ケアが不足するのは、現金が無いからではなく、家庭内で無償でケアを生産していた人々が、企業内労働に駆り出された為である。したがって、企業内労働としてのケアを増やし、企業部門内での労働移動を起こすためにケアの価格を引き上げる事を述べている。)

●BS拡充とBI実装の後先


ベーシックインカムが実施された場合の、エッセンシャルなサービス供給(現物・サービス給付)への影響を、介護を例に考える。


1.ベーシックインカムで所得が増えた場合に、ケアの勤務時間はどうなるかの予想
(BIの額は、高額だがそれのみでの生活は困難な水準。月10万円を想定)

A.施設勤務など月給制の場合
単身者や家計収入の主たる担い手は、勤務形態を変える可能性は少ないだろう。
副収入としてパート勤務の場合、シフトを減らすか、退職の可能性がある。

B.訪問ヘルパーなど時給制の場合
労働とは切り離された所得なので、追加的な勤務の動機にはならない。必要な生活費をBIで得られた場合、シフトを減らす、又は退職する可能性がある。
※(時給が1000円の場合、BIで得る10万円は100時間と等しい。100時間で10万円の所得を得て生活が足りていた場合、退職しても所得は変わらない。50時間に減らしても、BI施行前より可処分所得は5万円増え、可処分時間は50時間増える。これは計算せずとも直観的に選択しやすい)

C.他の産業の従事者
現業のやりがいに不満があり、BIにより生活所得の不安が解消された人は、他の産業に労働移動する可能性があり、その移動先の選択肢の一つとしてケアが選ばれる可能性はある。


2.介護報酬増額等で給与所得が増えた場合、ケアの勤務時間はどうなるか。(額は、全産業平均以上。フルタイムで年収500万円、月41.6万円を想定。尚、介護職の平均月収は30万円ほどで、現状より10万円増額の想定※ただしこの統計は月給の施設が主で、時給の訪問がどの程度勘案されているかは不明)

A.施設勤務など月給制の場合
単身者や家計収入の主たる担い手は、勤務形態を変える可能性は少ないだろう。退職すると所得がゼロになるので退職は考え難い。共働きの場合、一人がフルタイムからパートへの転換や、パートがシフトを減らすなどの可能性は考えられる。

B.訪問ヘルパーなど時給制の場合
1ーB.との違いは、退職すると所得が0になる為、シフトを減らしても、退職はしないと考えられる。
ダブルワークの場合、介護の方が割りが良ければ、介護のシフトを増やし、他を減らす可能性がある。

③他の産業の従事者
現業の給与に不満をもち、それが介護を下回る場合、また、現業にやりがいをあまり感じない場合、介護への転職の可能性は高まる。


補足1
増えた可処分所得を物消費する場合、物価が上がる場合がある。買い物にかかる時間は事消費より少ないと見られ、労働時間の逼迫圧力は比較的小さい。
事消費する場合、サービス価格の上昇の可能性があり、また、旅行やゲームなど消費時間が労働時間を圧迫し、労働時間が減る可能性が高い。
低所得者ほど、労働所得の代償にしている時間が多い→所得の増加額が一律の場合、低所得者の方が、労働時間を減らせる可能性が多い。
所得を減らしも増やしもしないと仮定すると、、、1万円の所得増加の場合;時給5000円の高所得者は2時間の勤務減、時給1000円の低所得者は10時間の勤務減が可能である。

以上を考え合わせると、ベーシックサービス、エッセンシャルワークの従業者の待遇引き上げを後にして、先にベーシックインカムが行われると、現在のサービス給付の水準が維持できない可能性が高い。

待遇引き上げを優先すると、就業時間を減らす以上に、就業者(労働移動)が増え、現在のサービス給付の水準は、少なくとも維持される可能性が高い。

BIENが支持するBIを実現するには、ベーシックサービス、エッセンシャルワークの拡充抜きには不可能であり、したがって、後先を述べれば、BS拡充が先で、BI実施が後である。

●Twitterのアンケート

Twitterで、次のアンケートを行った。
「BIが実施されたら、介護に転職しますか?」

是非したい 4%
給与次第でする 28%
介護以外に転職したい 20%
今の仕事を続ける 48%

Twitterという、興味関心の似通ったクラスタの中での総数138票という少なさから、ここに意味を読み取ろうとする事も、分析する事も、困難だろう。

ただ、BIに関心のある層、エッセンシャルワークの必要性に理解のある層からの回答としても、なお、BIがあれば介護に積極的に転職しようと思う人は4%というのは、無視し難い数字である。
給与次第で、というのは、質問の意図を汲んでの忖度の可能性もある。
転職候補として介護を排除する回答が少ないもの、質問意図への配慮の可能性がある。
現業を継続し、ケアワークへの転職はしないと言う傾向は、無視できない様に思える。

BIにより働かなくなる、と言う懸念がよく出されるが、現在の仕事を続ける回答がもっとも多いことは心強い。働き方が穏やかになる可能性もあるが、これは望ましい事でもある。
BIを継続させる土台としてのケアの拡充に結び付くかは、心許ない回答であった。

●BIENの支持するBI

①「安定的な量と頻度をもつ」
②「十分に高い」
③「他の社会事業との協調性をもつ」
④「物質的な貧困をなくすための政策戦略である」
⑤「すべての個人が社会的文化的な参加を可能とする」
⑥「恵まれない、不安的な、低収入の人々の状況が悪化するような社会事業や給付の変更には反対する」

①の為には、始めればやめてはならない。その為に、②〜⑥の全てが満たされる必要がある。
財政や経済のみならず、社会が安定的でなければ、廃止される可能性がある。

②、④の為には、買える商品が供給され続けている必要がある。その為には、自給率の向上や、他国の円需要を喚起し続ける必要がある。

③、⑤、⑥の為には、現在の社会保障制度が維持、拡張される必要がある。現在でも、支援や受け入れ先の足らなさから、社会参加が叶わない人々がいる。

ケア労働を含む、エッセンシャルワーク、ベーシックサービスの拡張抜きには、BIENの支持するBIは実現し得ず、失敗に終わるおそれがある。

●メリーポピンズの魔法

子供の頃大好きだった映画に、メリーポピンズがある。
魔女がお家にやって来る話なのだが、実の所、やっている事は子守と家事なのだ。
野心的な銀行家の父と、進歩的な活動家の母に、半ばネグレクトされていた姉弟と家庭を、回復するのだ。
メリーポピンズは、ケアする魔女なのだ。そして旧友のバートは大道芸人兼煙突掃除人である。
メリーポピンズの魔法は、力を失ったのだろうか。
現代の錬金術師は、堅牢なビルと、信用創造を手に入れている。
現代の魔女達は、今日も人々の家を廻り、信頼関係を築いている。

愛が欲望と偏見を押し流し、生命が価値の基準になったあかつきには、企業の利潤拡大の為の営利活動や、国家の領土拡大の為の軍事行動より、生命再生産労働である家事が、はるかに世界の平和に寄与している事が明かされ、それらの価格を正当に付け直すよう、彼女達の声が響き渡る事でしょう。

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